駐在員・事務局員日記

「私がAARを選んだ理由」長井美帆子-これから国際協力の分野を目指す人たちへ(4)

2014年06月02日  職員紹介
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執筆者

東京事務局広報担当
長井 美帆子

大学卒業後、広告会社に勤務。退職後、青年海外協力隊員として2年間アフリカのニジェールで農村開発に従事。帰国後、国際協力関係雑誌の編集業務を経てAARへ。趣味は読書、映画観賞とドライブ。1児の母。北海道出身

記事掲載時のプロフィールです

AARのスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第4回は、結婚、出産後も東京事務局で会報やチャリティ商品の商品開発などを担当する長井美帆子です。彼女が国際協力、そしてNGOを目指したきっかけは?(聞き手:広報担当 伊藤)

小学校時代の報道がきっかけ

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「国際協力について関心を持ったのは小学校のときでした」(2014年2月)

Q.国際協力の世界に入ろうと思ったのはいつごろですか。

生まれてから大学生になるまで北海道の札幌市で過ごしたのですが、小学校の低学年のときに、エチオピア飢饉についてのニュースが大々的に報道されました。学校でも先生が授業で話してくれ、「世界にはこんなに困っている人たちがいるんだ」ということを初めて知りました。途上国への関心はそのころに芽生えたと思います。

大学に入ってから、国際NGOのボランティアに参加しようと友人に誘われ、2週間フィリピンのネグロス島で地域の家づくりを手伝いました。その際にボランティアや住民の仕事をコーディネートするNGOスタッフの活躍ぶりに、「こういう仕事も素敵だな」と漠然と興味を持ちました。現地の方々との交流も、違う価値観に触れる忘れ難い経験になりました。帰国後は、就職にも必要かと思い、英会話を習ったりもしました。でも、語学が好きでも得意でもなかったこともあり、当時は、国際協力を仕事にできるとは思ってもいませんでした。

ニジェールで目の当たりにしたNGOの力

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一緒に活動していた女性グループのメンバーと。右手前が本人(2005年10月)

Q.そして卒業後すぐに広告会社への就職を決めましたね。

はい。大学時代に広告会社でインターンを経験したり、とても興味を持っていました。広告会社には2年間勤務し、営業や広告物の制作、デザインなどを学びました。文章やコピーを書くことが好きだったので、ライターを目指して退職し、専門学校に通いながら個人で仕事をしていました。そのころ、偶然駅のホームに貼ってあった青年海外協力隊募集のポスターを目にし、国際協力への関心が甦り、「行くなら今しかない」と応募しました。

運良く、村落開発普及員の職種で合格し、派遣されたのは西アフリカのニジェール共和国。当時は世界最貧国と言われており、国際空港のロータリーでラクダが荷物を運んでいたり、腰に剣を刺した民族服の遊牧民が街中を歩いていたりと、まるでタイムスリップしたかのような感覚に陥ったのを覚えています。首都から約1,000キロ離れた町に赴任し、2年間近隣の村々で女性グループの現金収入を得るための活動支援などを行いました。

赴任した翌年、ニジェールは干ばつとバッタの大量発生による飢饉が起きました。日本でも報道されていたようです。活動していた農村でも、手足が小枝のように痩せてしまった子どもが大勢いて、母乳不足で栄養摂取がうまくできない乳児が命を落とすような状況でした。自分にできることを考え、村にあるものだけで作れる離乳食の講習会などを行っていましたが、たくさんの人たちからの「食べ物がない」という言葉に、無力感ばかりが募っていました。気がつくと、さまざまな国の援助団体が飢饉への支援活動を始めていました。特に驚いたのは、医療系の国際NGOが主要な町に仮設病院をつくり、国中の栄養失調児を集めて治療にあたっていたことです。活動の規模とスピードに、「民間の団体が、ここまでできるのか」と圧倒されました。

その後、毎日のように食料配付の受け取りに出かけていく村の女性たちの笑顔に、安堵したのを覚えています。受け取った食料で、どれだけ暮らせるかわからないけれど、来年もまた同じような状況になるかもしれないけれど、"困難な状況に陥ったときに世界から支援が届いた"という事実が、ニジェールの人たちの気持ちを豊かにしていることがわかりました。「本当に必要とされている支援を届ける」という緊急支援に、そして行動が迅速なNGOに関心が高まりました。

AARで、日本と世界をつなぐお手伝いを

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国内でできる国際協力をと、広報業務やチャリティグッズの開発も手がけています(2014年2月)

Q.AARで海外駐在ではなく国内業務を希望した理由は?

実は、ニジェールに赴任して一週間後に、感染症で入院してしまいました。さらに、道産子のため、ニジェールの酷暑にはなかなか慣れず、自分の体力では海外の現場で活動することは難しいと判断し、日本でできることをしようと思いました。それまでの経験も活かし、「伝える」ことを仕事にしたいと考えました。帰国後、国際協力雑誌の編集業務を経て、AARに入りました。NGOに限らず、国際協力の活動資金の多くが税金を元にした政府からの助成金や、個人や企業などの皆さまからのご寄付です。AARでは、活動を応援してくださる個人や企業・団体の方々との接点も多いので、支えてくださる方たちの顔が見えるのが魅力でした。

現在は広報を担当し、主に会報誌の作成やチャリティ商品の開発・販売を手掛けています。六花亭製菓株式会社のご協力によるチャリティ・チョコレートは、スタッフや六花亭の方とアイデアを出し合い、販売にこぎつけました。小さいころ父親が帯広に出張した際は必ず六花亭さんのお菓子をお土産に買ってきてくれ、子どものときから親しみのある企業でした。AARを長年ご支援くださっていたことから、なんとかコラボ商品を作りたいという夢が叶い、とても嬉しいです。

想いを届けたい

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福島県相馬市の仮設住宅に、チャリティチョコレートと応援メッセージを届けに伺いました(2012年12月)

Q.チャリティ・チョコレートと応援メッセージを東北の被災地に届けるキャンペーンも企画しましたね。

はい。ニジェールでの経験から、たとえ小さくても想いを届ける支援がしたいと思うようになりました。2011年の東日本大震災の後、日本全国の皆さまからご協力いただいた「まごころキャンペーン」も、そんな想いから生まれました。直接被災地に行くことはできないけれど何かしたい、そんな皆さまのお気持ちとメッセージをチョコレートに添えて、AARが代わりにお届けしました。被災地でも本当にたくさんの方々に喜んでいただくことができました。

結婚、出産後も働き続けたい

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週末は家族との時間を大切に。「子育ても仕事も、苦労は報われると信じています」(2013年5月)

Q.4歳になる男の子のお母さんでもありますね。

AARに入った後、結婚し出産しました。1年間の育児休暇を経て、今二人目がお腹にいます。出産後は、残業したり出張するなどできなくなりましたが、短い時間でも質の良いものを作れるよう心がけています。AARには、私のほかにも子育てをしながら仕事を続けている女性スタッフが3人、育児休暇中のスタッフも1人います。私も、子育てをしながら、今の自分にできるやり方で、仕事を続けていきたいと思います。

海外に赴任しなくても、国際協力に関わることはできます。私のように広報を担当したり、総務や経理などの専門職もNGOの運営には必要です。AARでも、教師やシステムエンジニア、銀行員、看護師などさまざまな職歴の方々が、前職を活かして活躍しています。職員に限らず、ボランティアやプロボノ(社会人が自分の持つ専門知識や技能を活かして社会貢献を行うこと)として関わることもできます。国際協力の分野を目指す皆さんには、たとえ今すぐの就職や転職ができなくても、目の前の仕事を一生懸命やりながらそこで力を付けつつ、国際協力への想いを強く持ち続けて欲しいですね。そうすれば、必ず道は開けてくると思います。

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