駐在員・事務局員日記

理事長ブログ第6回 「モクレンと空爆」

2015年04月01日  会長ブログ
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執筆者

AAR理事長 長 有紀枝(おさ ゆきえ)

2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授。

記事掲載時のプロフィールです

AAR理事長、長有紀枝のブログです。

桜前線が北上中です。AAR Japan[難民を助ける会]の事務所がある東京・目黒でも桜が満開を迎えました。2月上旬から新緑がまぶしくなる季節まで、次々と花を咲かせる木々に、冬の終わりと春の訪れを感じます。いてつくような寒さの中でつぼみをつける紅梅、白梅、薄紅色の桃。既に終わりかけですがまだ芳香を放つ沈丁花、そして桜です。この季節の花々は、卒業や入学シーズン、また季節と年度の変わり目で、それぞれの人生の節目や、彼岸、此岸を問わず大切な方々を思い出す方もあるのではないでしょうか。

私も、梅も桜も、そして沈丁花も大好きな庭木ではありますが、やはりこの季節、見上げるたびに、心が乱れる思いがするのが純白のモクレンです。

今からもう16年も前になります。1999年3月28日、NATO(北大西洋条約機構)によるコソボそしてユーゴスラビア(現セルビア)の首都ベオグラードにも空爆が始まりました。テレビで真っ赤に燃える、見慣れたベオグラードの街をぼうぜんとして見つめたことを思い出します。そして数日後、3月の終わりに国境までで折り返し運航になっていた鉄道などを乗り継ぎ、通常とは全く別の経路で、何とかベオグラードに入りました。AARでは、私が当初の2週間を、その後、別の職員が引き継ぎ、空爆で影響を受けた孤児院や難民の方々に対する支援を行いました。

言うまでもないことですが、私たちは空爆が行われたらどこでも危険を冒して、支援活動に行くわけではありません。AARは旧ユーゴスラビア地域に対して、1991年以来、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、セルビア、マケドニアに事務所や拠点を置き、かなり大規模な支援活動を行っていました。私自身、初代の駐在員として、この地に土地勘と人脈、そして(その当時、事務所は一度引き払っていたとはいえ)文字通りの拠点がありました。

ここではNATOによる空爆の背景や意味、問題となった事項などは省きます。既に多くの専門書が出ていますし、私自身も関わった研究会による書籍もあります(広島平和研究所編『人道危機と国際介入――平和回復の処方箋』有信堂、2003年)。関心のある方は、ぜひこちらをお目通しください。

ここからはとりとめのない心象風景の報告となりますがブログということでお許しを。

1999年の3月の終わり、ベオグラードの町には、空襲警報が鳴り響いていました。4月の2日には、内務省の巨大なビルも破壊され、焼け焦げた無残な姿をさらしていました(日本であれば霞が関が攻撃を受けたことになります)。

空爆の開始直後、それでもまだ町の人々は落ち着いていたと思います。当初狙われているのは、軍関係の施設だけ、相手はなんといっても最新鋭のNATOの戦闘機。ピンポイントの爆撃のはずで、被害は最小限にとどめられるという雰囲気がありました。それが、最新鋭の戦闘機が、逃げていく難民の方々の車列や、多くの避難民を乗せた列車、さらには孤児院を誤爆したとの報を受け、次第に町は恐怖一色となっていきました。難民センターでも、ボスニア紛争の記憶がよみがえり、夜泣きが激しくなったという子供もいました。誤爆の報が相次ぐ中、NATOの空爆はイタリアの空軍基地を拠点としていたことから「NATOの兵器は最新鋭だけど、操作しているのは、どうやらイタリア人らしい。あぶない」。冗談とも本気ともつかないうわさが避難した地下室でもまことしやかにささやかれていました。

思いもしなかった人間模様を見たのもこの時です。以前から親交のあったご夫婦。線の細い美しい奥さんと、ひげ面の豪快な、ブラックジョークと下ネタばかりを連発していたご亭主。空爆中、家に招かれて行ってみると彼は人が変わったようになっていました。奥さんがバタンと閉めたドアの音に逆上し、泣き出した子供たちの声に激怒し・・・。他方で、いかにもか弱く見えた奥様が、彼が逆上すればするほど冷静になり、「あの人はしょうがないのよ」と私に笑いかけ、何事もなかったかのように平然と子供の世話と、食事の支度を続けていました。

難民支援の打ち合わせにいった政府の関係部局。既に内務省のビルが破壊され、次のターゲットはこの政府機関が入ったビルといううわさがあった時です。折悪く、私が打ち合わせに訪ねたのは、避難のため別の建物への引っ越しというか、大事な書類だけ抱えての移動作業のさなかのことでした。「こんな時に」とあからさまに迷惑顔をする人もいれば、「こんな時によくぞ戻って来てくれた。すぐに支援の必要な人たちがいる」と、いつもと変わりなく自らの職務を続けていた人もいました。

地元赤十字社の代表の女性もそんな一人でした。私たちにできうる限りの便宜をはかってくれ、また援助の調整をしてくれました。そんな赤十字社の庭に咲いていたのがモクレンです。一度気づくといたるところに、モクレンの白い花がありました。孤児院の庭や、民家、人っ子一人いなくなった公園。静寂を突き破る空襲警報のサイレンと、再びの静寂。モクレンの白と、空の青さの不気味なほどのコントラスト。戦争は、こんなきれいな春の日に起こるのだ。こんな青いきれいな空の下で人は死んでいくのだ、と思ったことを鮮明に思い出します。

理科の授業以外に、音速と光速の違いを実感したのもこの時です。時差ボケと緊張と、(間抜けな話ですが、いつでもすぐに逃げられるようにとはいていたジーンズが苦しくて)熟睡できず、うとうととしていた真夜中のこと。閃光(せんこう)が走り、辺りが突然昼間のように明るくなりました。何事かとベッドの上に起き上った瞬間、大音響と爆音が鳴り響きました。トマホークミサイルが滞在していたホテルの近くを通り、近距離にあった発電施設に着弾したのです。発電所に落ちたと知ったのはしばらくたってからですから、膝ががくがくするのを感じながら同僚や近隣に住む知人との安否確認や情報収集をしたのを思い出します。地元では、まずはそれぞれ、さまざまな場所に住んでいる知り合いが電話で火の手の上がった方向を報告し確認し合い、ミサイルが落ちた地域を推定し、そこにある軍事目標となりうる施設を推測していました。 

2003年のイラク空爆も3月に始まりました。そして今、中東地域に関連して空爆の報道がなされています。こうした原体験から、ニュースで「空爆」と聞いて連想するのは、上から攻撃を加える側の論理ではなく、下から空を見上げる側の論理です。

国際人道法(武力紛争法)上、文民を狙った攻撃は違法です。住民全体であろうと個々の文民であろうと、攻撃の対象としてはならないとされています(ジュネーブ条約第一追加議定書第51条2項)。文民や民用物を巻き込むことになる無差別攻撃も禁止されています(同3項)。しかしながら、副次的被害(コラテラルダメージ)、簡単にいうと意図せざる「巻き添え」については、非常に微妙なところです。

無差別攻撃の一つとして禁止された攻撃に「予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される攻撃」(同5項(b))があります。

同様の記載は、戦争犯罪を定めた国際刑事裁判所(ICC)規程にもあります。「予想される具体的かつ直接的な軍事上の全般的な利益との関係において明らかに過剰な文民の生命の喪失もしくは傷害、民用物に対する損傷又は自然環境への広範、長期的かつ深刻な損害を付随的に発生させることを了知して、故意に攻撃を開始すること」(ICC規程第8条2項(b)(iv))

しかし、ここで問題になるのが「過度に」や「明らかに過剰な」あるいは「・・・を了知して、故意に」という表現です。どのように正確さを期そうとも、誤爆や副次的被害は避けられません。空爆があれば必ず程度の差はあれ文民、民間人の被害が出るということです。近接航空支援も同様です。国際人道法の大前提にある、軍事的必要性と人道的配慮のバランス上は「過度ではない」とされる被害であっても、巻き添えとなった被害者にとっては、ただ一つの命であり、家族にとっては、かけがえのない一人です。

また空爆は、巻き添えとなる無辜の市民のみならず、その直接の対象である紛争当事者を著しく刺激し、物理的な損失とは明らかに異なる別の次元で、理性では説明できない影響を及ぼしたり行動に走らせたりもします。これを私は、1995年にNATO空爆後、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の小都市、スレブレニツァで起きたジェノサイドの検証過程で目の当たりにしました(ご関心がある方は拙著『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(東信堂、2009年)をご参照ください)。

東京大空襲をはじめとする日本全土の空襲、広島、長崎を経験した私たち日本人は、テロリストには屈してはいけないという思いとともに、下から見上げる空襲、空爆、という視点を持っているはずです。短期的な軍事的影響とは別に、下にいる人々のこと、そして、空爆がもたらす長期的な心理的影響を覚えていたいと思います。(2015年4月1日)

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追記:堀江事務局長が、「花と言えば桜とチューリップくらいしか見分けられない」というので、大学で撮影したモクレンの写真を紹介します。

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