駐在員・事務局員日記

理事長ブログ第17回「スレブレニツァから20年 ― 2015年7月11日に」

2015年07月10日  会長ブログ
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執筆者

AAR理事長
長 有紀枝(おさ ゆきえ)

2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授。

記事掲載時のプロフィールです

AAR理事長、長有紀枝のブログです。

2015年7月23日(木)7時より以下のイベントを行います。たくさんの皆さまのご参加をお待ちしています。お申し込みはこちらから。

日本が終戦から70年を迎える今年、東欧のボスニア・ヘルツェゴビナでも、1992年から1995年まで3年半にわたり続いた紛争が終結してから20年を迎えます。戦前の人口440万人の内、180万人が難民・国内避難民となり、多数の行方不明者とともに約25万人が死亡したとされる第二次世界大戦後の欧州最大の、凄惨な紛争です。

ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴスラビアにあった6つの共和国の一つです。旧ユーゴは、「欧州の火薬庫」とも呼ばれたバルカン半島に位置し「7つの国と国境を接し、6つの共和国だけど、5つの民族からなり、4つの言語を話し、3つの宗教を信じ、2つの文字をもつ。だけど一つの国なんだ」という子どもの数え歌があったように、様々な文化や宗教が入り組み魅力に満ちた、多様かつ複雑な背景をもつ国でした。

冷戦下では、故・チトー大統領のもとで、どちらの陣営にも属さない非同盟諸国のリーダーとして名をはせますが、チトー大統領の死後、1991年のスロベニア独立を機に紛争がぼっ発、戦火はクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、そしてマケドニアへと拡大し旧ユーゴは文字通り解体・消滅していきます。当初は内戦として始まった武力衝突ですが、分離独立を果たした共和国が次々に国家承認されていく中で、内戦は国家間の紛争へと形を変えていきました。

AAR Japan[難民を助ける会]は、1991年から2000年まで、当初は隣国ハンガリーで、1994年からは旧ユーゴ全域で、紛争中は、障がい児の支援、医療支援、義肢の支援、紛争後は地雷対策、心のケアなど多様な支援を行います。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人(ギリシャ正教)、クロアチア人(カトリック)、イスラム系ボスニア人が、三つ巴のまさに血で血を洗うような紛争下、NATOに属さない、地理的にも遠い日本からの支援は、地政学的にも、政治的にも宗教的にも中立な、人道的な支援とみなされ、現地の人々からとても歓迎されていました。

そのボスニア紛争末期の1995年7月、ボスニア東部の小都市スレブレニツァ(「銀の町」の意)で、セルビア人武装勢力がイスラム教徒の男性約6000人を殺害し、後にスレブレニツァ・ジェノサイドと呼ばれる事件が発生します。7月11日のセルビア人勢力によるスレブレニツァへの総攻撃からその後の10日間で、紛争や地雷による犠牲者も含めると犠牲者数は8000名ともいわれます。

当時、私は難民を助ける会(AAR)の駐在員として現地におり、ボスニア紛争の難民や国内避難民の方々に対して支援活動を行っていました。このあたりの経緯は、拙著『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(2009年、東信堂)の「あとがき」に詳しく記しましたが、虐殺の首謀者とされるムラジッチ将軍の、医学生だった長女(当時、既に故人)と、当会の現地職員が同じ医学部の同級生だったことから、ムラジッチ将軍やその家族と面識がありました。

その後私は東京に戻り、地雷対策やその他の地域の事業に関わったあと、2003年に一度AARを退職し、翌2004年から大学院の博士課程で学び直すことになります。その研究の過程でスレブレニツァについても調べ始めました。

当初の関心は、いったいどのような人が、どのような状況で殺されたのだろうということでした。しかし、さまざまな文献や国連の旧ユーゴ国際刑事法廷(ICTY)の裁判記録などで事件の経緯を詳細に調べていくうちに、そこに記された地名や人名に、目が釘づけになりました。スレブレニツァを脱出した人たちが、虐殺や戦闘・地雷で命を落としていった場所は、私たちが援助物資を運ぶためにいつも通っていた山道やその近郊でした。目を覆いたくなる残虐な言動の主は、青い目と優しい表情がひどく印象的だった「ムラジッチ将軍」、その人でした。

そして何より繰り返し衝撃を受けたのが犠牲となったイスラム教徒の方々やそのご家族の過酷な運命・経験とともに、加害者たちがごくごく普通の人だったことです。それは私たちの誰もが、こうした事件の当事者になる可能性を示していました。

なかには脅され強制されて、70人ものイスラム教徒を銃殺した若い警察官もいました。エルデモビッチという青年(当時)は、ICTYに自ら出頭した加害者の第一号となり、裁判の過程で、「あの日から自分の人生は変わってしまった」と述べています。

誰に強制されたわけでもなく、自ら残虐な行為に走っていった多くの兵士たちも、時代が異なれば、気のいいセルビア人の青年やおじさんとして、ごくごく普通の、そしてまっとうな日常生活を営んでいたはずです。

なぜ、旧ユーゴ紛争が始まったのか。さまざまな研究がなされていますからここでは立ち入りません。しかし明らかなことの一つは、徹底的に戦争を止めようとして殺された人がいたこと、そうした人を見せしめのように最初に殺していった人がいたことです。国家の最大の責務の一つは国民の生命・財産を守ることです。そして国家・政府の最大の失敗は戦争や武力紛争を回避できず、本来守るべき国民の生命・財産を決定的な危機に陥れること、そしてまっとうな人生を送る筈だった人々を加害者に変えてしまうことだと思います(国民を守ることなど、はなから想定していない、政府自身が国民に対する加害者となる破綻国家や失敗国家は別ですが)。

紛争終結から20年。スレブレニツァではいまだに行方不明の息子や夫の遺骨を探し続ける遺族がいます。「戦争で何もかも失い、写真1枚残っていない。息子が生きた痕跡は、私の記憶の中にしかない。私は、息子が確かにこの世に存在したということを証明するためにも、骨を探さなくてはならない」と語ったお母さんもいます。

スレブレニツァから20年、そして、終戦から70年の今年は、まさに、武力の行使の仕方ではなく、武力によらない平和を模索すべき時ではないでしょうか。日本を取り巻く環境が変わり、それに対する対応が迫られるとしても、揺るがない大原則を私たちはもっていると思います。それを守り、日本ならではの立ち位置や方法で、国際の平和と安全に寄与していく道があると信じます。そんな営みの一端を、日本のNGOとして、ジェノサイドや紛争予防の研究者の一人として担っていきたいと思います。

(2015年7月10日)

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