しあわせ運べるように(神戸オリジナルバージョン) 作詞・作曲 臼井 真 一、 |
「誰かのためではなく、巡り巡って自分のためになっている。それが困っている方の役に立っていれば幸いです。」とにこやかに話すのは、毎週水曜日にボランティアいらっしゃる宗方さん。
海外駐在員が帰国したときに支援現場の話を聞いたり、普段関わりが少ない世代や、自分とは異なる経験をしているスタッフやボランティアの方々と話したり。ボランティアを通して、新たなことを学べる環境があるのは刺激的で視野も広がる、と活動の魅力について教えてくださいました。
2014年8月、NHKのテレビ番組「サラメシ」にAAR事務所のお昼の様子が放映されていたのをたまたま視聴。こんな団体が家の近くにあるのか、と早速ホームページをのぞくとボランティア募集の案内があり、軽い気持ちで応募してみたそうです。初めて参加した時に、ボランティアの方々の雰囲気がとても良かったので続けてみようと思った、と当時を振り返ります。
「ボランティアで担っている会報の発送作業などは、業者に頼んだりすることもできるのだろうと思います。けれど、事務局長(当時)から"支援者もボランティアもスタッフも一緒になって、みんなで活動しているのがAAR"、という話を聞き、自分たちの活動にも意味があることを実感しました。」と話してくださいました。
「学生のころからAARでボランティアを続けてきて、段々それが自分の生活の一部になってきています。」と笑顔で話すのは、土曜ボランティアの西垣さん。ボランティアをはじめたのは、大学の授業の単位取得のためでした。以降、活動を続けて今年で11年目。ずっと自分のペースで携わっていると仰います。
西垣さんはもともと紛争問題などに興味を持っていましたが、テレビで流れてくるニュースを聞いても、どこか遠い場所で起きていることのように感じがちだったそうです。けれど、「スタッフから海外での支援活動について直接話を聞くうちに、世界で起きている問題がより自分に近しいものとして考えられるようになりました」と、自身の変化を語ります。
ボランティア活動では、グローバルフェスタなどのイベントに出て、来場者にAARの活動を説明することもあります。そんな時は、日本で生活している自分たちと世界が繋がっているということを、同じ立場・目線で話すように心がけているそうです。活動で楽しいことは何かと伺うと、年代や知識量などさまざまな人と出会えることや、あたたかい人ばかりでボランティア同士も仲がいいこと、など、嬉しそうに話してくださいました。
※新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、参加される皆さまの安全を考慮して現在は活動を停止しております(2021年7月13日時点)。
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会長としての就任ご挨拶の前に、2008年6月から2021年6月までの理事長としての13年を振り返り、「できたこと」と「できなかったこと」についてお話することから始めます。
2008年の理事長就任から時をおかずに、私は大学の専任教員として奉職することとなりました。NGOの人道支援の実務家であること、そして国際関係やジェノサイド予防を専門とする研究者であること、これらは、どちらも大切な私の一部です。それゆえ、二足の草鞋を履く道を選んだわけですが、「静的」活動を主とする団体ならまだしも、紛争地や災害発生直後の現場に入って活動する「動的」団体の代表者が、専従ではなくてよいのか、という問題はこの間、常に抱えていた迷いであり、悩みでした。私が理事長を続けていてよいのか、という点を幾度も堀江前事務局長(新理事長)と話しあいながらここまで務めてまいりました。私の、こうした関わり方を受け入れ、支えてくださった支援者の皆さま、理事会を構成する役員はじめ関係者の皆さま、そして、職員ボランティアの皆さんに心から感謝申し上げます。
二足の草鞋を言い訳にするわけではありませんが、できたことはあまりに少ないです。
その中でたった一つ、事実として申し上げられる「できたこと」は、消極的に過ぎますがAARを存続させ、理事長というNPO法人の代表のバトンをつなぐことができたことです。相馬先生の言葉を借りるならば、「難民を助ける会」が必要なくなる世界を目指して私たちは活動しているわけですから、本当はこうした組織はない方がいい。残念ながら創立以来42年にわたり会が存続し続けている、そのこと自体が、実は世界が良い方向に向かっていない証左でもあります。
現に世界の難民数は今年もその記録を塗り替え、8000万人を大きく超えています。30年前、1990年1月時点の1800万人の4倍を超える人数です。その意味では、難民を助ける会の存続は決して良いことではありません。しかし、他方で、これも相馬先生の言葉を借りるなら、難民を助ける会が潰れず、存続できるのは、納税者の皆様の血税からなる外務省資金に加え、難民問題を他人事と思わない、会の活動をお支え下さる支援者の皆さまが日本全国に、東日本大震災以降は海外にもおられ、ご支援をいただけるからこそ、です。その意味で難民を助ける会の存続は、誠にありがたく、喜ばしいことでもあるのだと思います。
他方で、「できなかったこと」は限りなくあります。
その最大のことは、職員の安全確保をめぐる問題です。
2011年の東日本大震災の年、世界中から受けた沢山のご支援の恩返しがしたいと入職された宮崎淳さんが同年11月、トルコ東部のワンで発生した地震被災者の支援活動中、滞在中のホテルの倒壊で、お亡くなりになられました。
2018年には、ザンビアの駐在員であった直江篤志さんが、マラリアに罹患し、休暇で一時滞在していたトルコでお亡くなりになりました。
私の理事長の時代に二人の職員が亡くなられたことは、いつも痛恨の極みです。またこの間、交通事故等で亡くなられた現地職員や現地関係者もおられ、これらの方々に改めまして哀悼の意を表しますとともに、今後は会長として安全管理に努めてまいりますことをお約束いたします。
さて、現在、私たち難民を助ける会には、現在行っている活動以外に、社会的に強く求められながら、行っていない重要な活動領域があります。その一つが、人権侵害に対して積極的に声をあげるという行為です。
この点を、単にできていないと捉えるか、しようとしていないと考えるか。これは非常に重要なことだと思っています。
軍事政権による人権侵害が深刻なある国で、難民を助ける会は、その事実に直接触れずに長く活動を続けてきました。この点について、当会が掲げる、「政治や宗教、主義主張に不偏不党・中立」という活動指針を引き合いに出し、「どんなに良い活動をしても、中立を、政治問題に対する無知の言い訳にすべきではない」と指摘を受けたことがあります。地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の活動を通じて知り合い、20年以上の付き合いのある大切な仲間からです。
私自身、「政治的中立」は「無知」や「不勉強」の言い訳であってはいけない、と同時に、「無関心」の言い訳であってもいけないと強く思います。
他方で、私たち難民を助ける会が、活動地はもとより、世界各地で、またアジアで、現在進行形で起きている重要な課題に、声を上げないことには理由があります。
難民を助ける会が、その活動の現場で、起きていることに声をあげるというのはどういうことか。それは、すなわち、その現場にいられなくなることを意味します。
当局から嫌がらせを受ける程度では済まないことを私たちは承知しています。現在も各地で経験していることですが、駐在員のビザ(滞在許可)がおりなくなる、更新されなくなる、何より現地での活動許可そのものが取り消される可能性もあります。
それでも声をあげるべき時はあるでしょう。現地に事務所を持たない組織がそれはすることは可能です。しかし現地に事務所を置き、活動をしつつ声をあげることは、その代償として、その地域での撤退を覚悟し、私たちの援助で命や未来をつないでいる人々への活動を停止することを意味します。声のあげ方によって生じる危険については、私たち外国人は国外に退去すればすみます。しかし、現地職員に逃げ場はありません。時にその家族や関係者を危険にさらすことさえありうる。
声をあげることも、現場で支援活動を続けることも、どちらも大切なNGOの活動です。ただし、問題はNGOコミュニティ、NGO界全体としては両方の活動が可能だとして、現実問題として、単独のNGOが双方をすることは限りなく難しいということです。
では難民を助ける会は、どちらを選ぶのか。正解はありません。人権擁護を目的に組織されたNGOであれば、東京やワシントンやロンドンで、声をあげることがその団体の仕事であり、ミッションです。難民を助ける会は、人権侵害に声をあげることの重要性は重々知りつつも、現場で困難な状況にある方、難民の方々に寄り添うことを仕事として、発足した組織です。
このように活動を続けるために、あるいは政治的立場をとらないために、日和見であるとか、保守的なNGOであるとか、そういうご批判はあったとしてもそれを甘んじて受けながら、私たちはこれからも現場で、受益者の方々に寄り添い続けることを選び続けると思います。
もちろん、現場で活動を続けながら、当局に対して是々非々で声を上げていく。いつかそのような組織に成長できたら素晴らしいと思いますが、それには、難民を助ける会の活動が、相応の規模とインパクトをもつとともに、相手方政府が民主主義的国家として成熟する必要があります。その実現可能性がまだ低い今日、私たちは現場にいることを選択します。
では改めてNGOの役割とはなんでしょう。会長就任に際し、改めて私の考える難民を助ける会のNGOとしての役割は次の3点です。
まず第一は、今、困難な状況に直面している人を助け、命をつなぐ。難民を助ける会が設立以来行ってきたことです。しかし、命をつなぐだけでは何も変わりません。そこで第二は、教育支援や職業訓練など、命をつないだその人が自立し、自分自身やコミュニティの未来を築いていけるような、未来につながる支援活動を行うことです。そして第三は啓発とも言えますが、別の言葉で言い換えるなら、「規範起業家(ノーム・アントレプレナー)」であることです。
「社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)」という言葉はよく耳にされると思います。社会起業家は、何か新しい、先駆的な仕事や仕掛けを通じて社会課題を解決し、社会に貢献する方々や組織のことです。他方、「規範起業家」は、まだ社会的に認められていないような争点や価値を、「規範(ノーム)」として社会に訴えていく、それを徐々に社会の潮流とし主流化していく仕事です。
難民を助ける会は、これまでも地雷除去などの地雷対策、障がい者のインクルージョンといった分野で「規範起業家」として活動してまいりました。これを継続するとともに、今必要とされているのは、日本の国際協力や難民支援を「貢献」や特別なことではなくて「当たりまえ」のこととしていくことだと考えます。設立40年を超えるNGOの会長が口にするには、あまりにも平凡かつ初歩的すぎると思われるかもしれませんが、今は、自国中心主義が闊歩する時代です。
国際協力が当然ではなくなりつつある昨今の風潮の中で、改めて「規範起業家」として国際協力を「貢献」でも、「余計なこと」でもなく、国際社会の一員としての「責務」であり「当たり前」のことにしていく役割が、私たちにはあるのではないかと思っております。
]]> 紛争前、陽気で快活だった少年が、空爆で足を失った兄に代わり一家を支えるため、同じ空爆で高額な治療費が必要になった妹の治療費を工面するため、傭兵としてリビアにわたり無残な死を遂げた話を聞いた時。
性奴隷や戦利品として捕らえられた女性や少女が、数年前までごく普通の家庭の主婦や勉学に励んでいた女子学生だと知った時。父親を目の前で殺され、誘拐された少女がついこの間まで甘えん坊のお父さん子だったと知った時。
粉々に破壊され、戻る家も故郷もなく難民として海外に暮らすシリア人が600万人という途方もない数を超えると聞いた時。取り返しのつかない事態のなかにいる大勢の人々は、数年前まで、私たちと同じ「普通」の日常を送っていた人々だと、ふと気づくとき。
東日本大震災の発生から10年を迎えた今年2021年は、同時にシリア危機の発生から10年の年でもあります。アラブの春と言われたあの年、民主化を求める平和的なデモは、急展開し、今や、死者・行方不明者数約60万人、国民の二人に一人、約1200万人が難民あるいは国内避難民として故郷や国を追われる「今世紀最悪の人道危機」と呼ばれる事態に発展しました。
あの時、あの年、早い時期に事態が収束できていれば・・・。それを阻んだロシアの罪は深いという人もいますが果たしてこのような事態を招いた責任はどこに、誰にあるのでしょう。
先日、拙著の増補版『入門 人間の安全保障』(2021年中央公論新社)を読んだという高校3年生から、連絡をいただきました。特に「保護する責任」論の中の「予防する責任」に関心があるとのこと。私に投げかけられたのは、「主観的基準に基づく判断は介入する国が不当に内政干渉する余地を作り出すのではないか」という真摯な問いかけでした。
私のお返事は、少し現実的過ぎたかもしれません。「ご指摘は重要だけれど、しかし、現実には、『保護する責任』『予防する責任』、あるいは『人道的介入』といった概念や理論があるから『主観的基準に基づく』介入が発生するわけではなく、 介入する側に、その国独自の介入する目的や意図や戦略があり、そのことを正当化するために、その時々で、都合のいい理論や言葉が使われるのではないか」。そして、拙著の国連憲章の安全保障理事会の権能を解説した頁を紹介しました。
国連憲章第7章第39条は、安保理常任理事国5ヵ国(P5=米中ロ英仏)に、平和に対する脅威や侵略行為などが実際に行われたのかどうか、その「存在を決定する」権限を与えています。何が脅威か、あるいは何が脅威でないか、これらを「主観的」に判断するお墨付きを現在の国際社会は(より正確には、国連憲章に同意し国連に加盟した193の国々とその国民は)P5に与えているのです。
テロリスト国家、独裁国家と呼ばれるような国のみならず、国際の平和と安定にもっとも責任ある国々が、難民問題の元凶を創り出すような事態も発生しています。やろうと思えばなんでもあり。主観的介入と同時に、主観的な非介入も可能になるのが、現在の国際社会の枠組みです。
その世界を少しでもよい方向に変えようと、国連機関が調停を試み、機能不全を何とか改善しようと、国連改革が模索され、さまざまな国際理論や枠組みが提示されています。しかし、そうした試みが成功したとは言い難く、完璧な対策も理論も存在しません。もし、そうしたものが存在するなら、人類史上、もっとも高度な文明を享受する現在の先進世界で、難民や国内避難民の総数が推計で8000万人を超え、歴史上最多になるという事態に陥るはずがありません。「魔法の杖」のように国際問題を解決する理論や、国や世界的指導者は、これまで同様、これからも出現することはないでしょう。
私は質問をくれた高校3年生に、「そうした極めて不安定、不安全な国際社会に生きていることを、この本や、これから出会うであろう沢山の本から学び、何ができるかを考え続けていただきたい」と伝えました。
私たちが今日している難民支援が、世界の難民問題を解決することはありません。歴史の針を巻き戻すことも、難民・国内避難民となった人々の生活をもとに戻すことも、亡くなった人たちをよみがえらせることも、失った手足をもとに戻すことも、障がいを負った人々の体をもとどおりに戻すことも、壊れてしまった心をもとの快活な、何も知らなかった頃に戻すことも、できません。そう、どんなに望んでも、東日本大震災の前の状態に被災地が戻ることがないように、難民の人たちの生活が、もはやもとに戻ることはないのです。
しかし、世界難民の日を前に、改めて申し上げたいと思います。
絶望しても、世界は何も変わらない以上、ため息をつきながらでも、暗澹たる思いを抱えながらでも、それでも前に進むしかない、私たちにできることを一つひとつ、続けていくしかないのです。それをせずに諦めたら、世界は今以上に不安定で、不安全な場所になっていくから。
国家間の枠組みは矛盾に満ちています。これからも各国政府や非政府主体、有力ロビーや影響力をもつ企業の思惑が絡む非情で非道な場であり、「普通」の生活をしていた市民の生活が脅かされ続けるはずです。しかし、国境を超える「民」、市民社会の力は、それらに対抗するものを作り出しうると信じます。いや、自覚をもつ市民がそうした模索を続けない限り、世界中の誰もが、明日難民になる可能性が、この世界には潜んでいます。地球環境の悪化が待ったなしの状態にあり、私たち誰もがそのことを意識した生活を送るしかないように。
]]>私は2011年にAARに入職し、海外の大学院進学のため2017年末に休職、修了後の2019年10月に復帰しました。その後、2020年8月ごろからメヘバ事業の担当となり、同年12月からメヘバ事務所に出張し、約3ヵ月間を過ごすこととなります。滞在中、時折直江さんの存在を感じることがありました。
メヘバ事務所は、直江さんが建てたものです。
彼が駐在前や一時帰国中に、東京事務所で建物のレイアウトや配線図を、夜遅くまでデザインしていた姿を思い出しながら、彼が過ごしていた宿舎に泊まり、彼が腰かけていた事務所のイスに座り、業務にあたる。彼が採用した現地スタッフから、彼がメヘバでどういう人物だったのかを聞く。
料理が得意で、みんなにふるまうのが好きだった彼が、事務所近くの難民が営む商店で、野菜やらを大量に買っていたこと。困ってる状況をほっておけない性格で、器用でもある彼が、どこかのぼこぼこな道路を、直したこと。どうやら地域の人のなかでも有名だったらしい。そのエピソードのすべてが、なんとなく彼らしいと思えるものでした。
今回のメヘバ出張は、業務上の調整によるもので、偶然にすぎません。ただ、それを自身で解釈し、考え、私なりの意味を与えることはできます。直江さんがマラリアに罹患した当時、留学中だった私は、「もし自分がまだAARで仕事をしていれば、何かしら貢献できたのでは」と考えたこともあります。そのわだかまりは消えるものではありませんが、今回のメヘバ出張で、自分の中で止まっていた何かが少し動いたような気がします。
AARのメヘバでの活動は、これからも続きます。直江さんの遺志を引き継ぎ、地域の人々の生活を支え続けることは、残された私たちの揺るぎない使命といえます。
*ザンビア北西部のメヘバは、国内最大の難民居住地の一つ。2002年に約30年続いたアンゴラ内戦が終結後、ザンビアに避難していたアンゴラ人1万人近くは、さまざまな事情で同国に残り、「元難民」として地元住民とともに暮らす道を歩み始めました。「難民」でなくなったことで、新たな疎外感に苦しむ様子を目の当たりにしてきた直江さんは、彼らを「風で消えりいそうなロウソクの火を見ているようだ」と表現し、「僕たちができることは、彼らの灯す火が消えないように支えることだ」と語りました。
-この業界に入ったきっかけは。
大学卒業後、働きながら夜間の大学院に通っていたころ、失恋しまして...。環境を一新して気持ちを切り替えようと「海外渡航」が頭をよぎったとき、たまたま新聞でAARの求人が目に入りました。「コソボの駐在員急募。主な業務は地雷プロジェクトの会計」とあったので、「お金の計算なら何とかなるだろう」と気軽に応募しました。
-実際には、地雷除去が専門のNGO「The HALO Trust」(英国、へイロー・トラスト)に出向し、クラスター弾*の除去に専念されたそうですね。
はい。はっきり言って「聞いてないよ!騙された!」って思いました。地雷除去なんて未経験どころか、爆発物のことなんて全然知らないし、手先は不器用だし。ただ、駐在員として来た以上、後戻りはできなかった。出向したHALOからも「きちんとやり方は教える」と言われて、もう一生のうち、二度とないくらい真剣に勉強しました。何しろ失敗したら...。
実際に初めて除去のための爆破処理をしたときは、ビビりまくりでした。本当に「ドカーン」となるんだって。私の担当はクラスター弾の除去でしたが、不発弾がごろごろ転がっている場所もありました。1度除去(爆破処理)に失敗して、山火事になって、本当に死ぬかと思ったこともあります。同僚と必死に消火活動をして、なんとか鎮火できたからよかったですが。
*大きな一つの爆弾(親爆弾)の中に、数発から数百発の小さな爆弾(子爆弾)が格納されている。爆破すると子爆弾が飛び散り、多くの被害者が出る。不発弾として地上に残された子爆弾も多く、戦争に関係のない住民が障がいを負ったり、命を落としたりする。詳細はこちら
今も忘れられない、アルバニア人の同僚(女性)の言葉があります。
「紺野はうらやましいよ。こういう活動に携わる一方で、大学も卒業していて。私も本当は大学に行って、看護を勉強したかった。でも、内戦で父を亡くして、経済的な理由から地雷除去要員として働くことにした」
そのとき自分がなんと答えたのか、覚えていません。でも、私の母親は幼少期に東京で空襲に遭って、その後経済的な理由で進学をあきらめたと言っていたので、他人ごとには思えませんでした。コソボで今起きていること、目の前の彼女が嘆いているのは、母親や一昔前の日本人の多くが経験したことと変わらないのだと。進学したくても諦めるしかない現実――「戦争ってやだな」、その思いを一層強くしましたね。
-コソボから帰国し、AARを離れるまでの間は、どんな活動をされたのですか。
次の赴任先の話があったとき、コソボで培ったことを最も活かせるのは、日本だと思いました。多くの被害者をもたらす地雷への対策は、国際的に急務の課題である一方、人も資金も不足している。その実情や支援の必要性を実体験から伝えることは、「誰よりも私にできること」だと。もちろん、「現場で感じたこと、考えたことを伝えたい」という純粋な思いも強かったです。
当時、インターネットは今ほど普及しておらず、呼ばれれば全国どこでも講演に伺いました。2001年にTBSが開局50周年記念事業で「地雷ゼロキャンペンーン」を開催したときには、世の中の関心が飛躍的に高まって、年間に30回近くお話をする機会にも恵まれました。
活動には、学生や社会人を中心とした土曜ボランティア(SVF:Saturday Volunteer Fevers)の方々の協力も欠かせませんでした。当時は私も毎週土曜日にも出勤して、地雷啓発のための教材作りや「地雷探しゲーム」などのイベント開催もしましたね。懐かしい思い出です。
平日のボランティアの皆さんにも、大変支えられましたね。当時はボランティアの方々主体で組織が成り立っていました。
業務上コミュニケーションの機会も多いし、お昼もよくご一緒したり、出張時にお土産を買ったり。帰るたびに「紺野さんおかえり、大変だったでしょ」「現場はどうだったの、詳しく聴かせて」「体調大丈夫?」と温かく迎えてくれて。母親を亡くしていたので、皆さまの心遣いがありがたかったですね。人生で大切なことの多くを、ボランティアの方々に教わりました。
―現在AARが行う「地雷対策」とは?
地雷対策は、除去活動や条約によるアプローチなど、いくつかの活動指針があります。AARが注力するのは、被害を予防する回避教育と、被害者支援です。いくら除去が進んでも危険性を判断できなければ、わずかな地雷でも事故は起きます。一度被害に遭うと長期にわたって支援が求められる場合も少なくないため、被害者をサポートすることの必要性は国際的にも重要視されています。
―海外の支援現場への出張も多かったそうですね。
はい。カンボジアやスーダン、パキスタンなど、緊急支援活動などで10ヵ国ほどになります。印象的なのは、2002年に事務所の立ち上げで滞在したアフガニスタンの首都カブール。紛争直後で、夜は真っ暗。国の役所に行っても、停電していました。夕方には事務所のペンキ塗りをしているおじさんの自転車の後ろに乗っけてもらって、ホテルに帰ったりもして。今だったらまずありえないのでしょうけれど、そんなのどかな雰囲気もありましたね。
―2008年にAARを離れたそうですね。復帰までの10年間はどんなことを?
いろいろあって退職し、福祉の専門職大学院に進学しました。院での20代から70代の異業種の人々との出会いは、「人を支援する」とはどういうことなのか、根源的なところから考えされられました。
今も胸に深く刻まれ、支援に向き合う上で大切にしている言葉があります。修了後の進路で、パキスタンでの障がい者の社会参加プロジェクトへの着任が決まったと指導教官に報告したときでした。
「目標の達成も大事だけれど、それにとらわれすぎないこと。何よりもまず、障がいのある人一人ひとりと丁寧に関わりなさい」
2年間、障がいのある方々とともに過ごしました。そこで感じたのは、障がいの有無に関わらず、得意・不得意があるし、悩んだり喜んだりする。喧嘩もすれば仲良くもなる、という当たり前のことでした。でも、そういうことって支援する立場になると見落としがちになるんですよね。
帰国後は、精神保健を学びながら、より社会的に困難な立場にある人々の支援に従事しようと、ソーシャルワーカーとしてホームレス支援等の団体で1年強、子ども支援の国際NGOで5年働きました。紛争地などさまざまな支援現場を訪れ、AARに居たころとは違った物事のとらえ方、考え方、そして、人を支援するのに欠かせない心理社会的な支援の技術も学びました。この10年間の経験は、今の自分の支えになっています。
―そうしたなか、AARに復帰したわけは?
お話した通り、AAR在職時に多くの学校で地雷の話をさせていただきました。そのうちの一校が長崎市立福田中学校(長崎県)です。たまたま、同校が「地雷対策のため」としてAARに継続的に寄付されていることを目にしました。地雷対策への想いを、今も子どもたちがつなぎ続けている―その事実を知ったとき、「私にできることがまだAARにある」との思いを強くしました。
ほかにも、小松市立稚松小学校(石川県)が20年以上ご支援くださるなど、多くの学校が地雷対策のためにと心を寄せてくださっています。本当に、頭が下がります。
支援者の皆さんの想いを肌で感じられるのは、本当にありがたいことです。最近も、事務所に届いた支援者の方々からの未使用のハガキや切手の整理をしていたところ、「ほんのわずかで申し訳ないけれどお役立てください」とのメッセージが多数寄せられていました。
恐らく、AARの原点がここにあるのだと思います。発足から41年、国内外から数え切れないほどの善意が脈々とつむがれ、AARの活動は支えられている。創業者の故・相馬雪香前会長は「人間、一人ひとりが力を合わせれば、世のなかを動かすことはできるのです」と言っていました。社会のために、一人ひとりができることをする。それがたとえどんな小さなことであっても。私にとってのそれは、地雷問題への取り組みなのかもしれません。
―最後に、国際協力業界を目指す人にメッセージを
そんな偉そうなことを言える立場ではありません。もともと国際協力を目指していたわけではないので。とはいえ、私が日々大切にしていることを少しだけ。
この仕事をしていると、SDGs(持続的可能な開発目標)への貢献や、事業目標〇%の達成、ということが声高に言われます。ただ、目標の数字に追われると、目の前にいる支援を必要とする人々への意識が希薄になりかねません。だから、その数字の裏には、一人ひとりの喜びや悲しみ、人生がある―それを常に心に刻んでおくべきだと思っています。誰だって自分が「〇%」として扱われるだけだったら、寂しいじゃないですか。そのためにも、一人ひとりと真摯に向き合う、姿勢のようなものが大事なんじゃないかなと。
私が学んだソーシャルワークでは、「技術」「知識」「価値」が支援の共通基盤と言われています。たとえば、「技術」や「知識」がなかったら、地雷の除去はできません。だから、日々研鑽していく必要があります。
他方で、「技術」や「知識」の基盤になるのが「価値」です。ここで言う価値とは、「すべての人間が平等であること、価値ある存在であること、そして、尊厳を有していることを認めて、これを尊重すること*」です。
これこそがまさしく、私がこれまで出会ってきた人々―ボランティアや支援者の皆さん、大学院の指導官、同級生、職場の同僚、そして何より、支援を必要とされる方々から学んだことであり、大切にしていることです。実践は難しくて、まだまだなんですけれどね。
その期待通り、部屋は非常に綺麗で、バスタブまでありました。「この部屋なら14日間も平気だな」ーこの時はそう考えていました。
私が隔離生活で重視していたのは3つ。部屋の快適さ、インターネット環境、食事です。
快適さとネット環境は申し分なかったのですが、食事が非常に辛かったです。というのはメニューを選べず(選択可能な隔離先もあるようです)、慣れないカンボジアの味つけに加え、食事の提供時間(8時、12時、17時)が私の空腹具合と全く合わなかったのです。
デリバリー注文は禁止されており、1日3食冷め切ったカチカチのご飯とおかずを食べるしかありませんでした。朝はパン、昼と夜は白飯なのですが、一度だけスパゲティが提供されたときは嬉しすぎてミートソースをズボンにこぼすのもよそに、あっという間に平らげました。
クリスマスも年末年始も部屋から出られず、窓から見えるイルミネーションをただ眺めるだけの単調な日々でしたが、たった一つだけ良いことがありました。
コロナ禍の自粛生活で増えに増えた体重が減ったのです。ストレッチ以外の運動は全くしませんでしたが、食欲がわかずあまり食べなかったせいか14日間で3、4㎏も減ったのです。ちなみに3ヵ月経った今もその体重を維持しています。
隔離13日目、ホテルの広間に呼ばれ、PCR検査を受けました。
綿棒で鼻腔の粘膜を採取されるのですが、渡航前日の東京、到着時のプノンペン空港に続く3度目の検査のなかで、この時が群を抜いて痛かったです。涙を流して痛みに耐えている人が私以外にもいました。検査者の「万が一、ここで陽性者を解放してしまえば市中感染が起きてしまう!不備がないよう、取れる限りの粘膜を採取せねば!」といった使命感を綿棒越しに感じました。
翌日のお昼、フロントから隔離終了の連絡を受け、解放されました。2週間ぶりに浴びた、東南アジアの強烈な熱気をあんなに愛おしく感じたのは初めてでした。自由に外を歩けること、好きなものを食べられること、人と会えることの素晴らしさを再認識した、貴重な(できればもう経験はしたくないですが...)14日間の隔離生活はこうして終幕しました。
結婚式(ニカ=nikah)は、2人の実家があるダッカのレストランで執り行われました。イスラムの慣習に則って、結婚前の新郎新婦は、少し離れて座ります。結婚の登録官と、親戚のなかで証人となる男性2人が、最初に新婦を訪れ、登録官が結婚の契約書を読み上げ、新婦が復唱します。次に、登録官と証人は新郎を訪れ、証人が新郎の手をにぎっている間、登録官が契約書を読み上げ、新郎が復唱します。
ナフィシャさんは契約書が読み上げられる間、涙を流していました。バングラデシュの慣習では、女性は結婚すると、実家への帰省は稀になり、義理の家族をとても気遣うようになるため、その責任を感じていたのです。
夫も、経済的な支出をはじめ、多くの責任を伴うためジュバイルも緊張の面持ちです。
その後、式の責任者が結婚の説教(クトバ= Khutba)を始めました。アッラーを称えることから始まる、旋律の美しい説教です。説き終わると、参加者に2人の正式な結婚を宣言します。
式は通常に比べて簡素であるものの、厳粛で緊張感が漂っていました。翌日から2日間は、互いの実家を訪れ、小人数で食事を楽しみ、緊張もほどけたようです。
その後間もなく、2人はダッカからコックスバザールに戻ってきました。
「お義母さん、お元気ですか?」「朝ごはんは食べましたか?」「お気をつけて」
ナフィシャさんは、慣習にならい、夫の両親や兄に電話をする毎日が始まりました。通勤中の時間を活用しますが、毎回話題を見つけるのは大変で、会話が冒頭のように短いものや、ありきたりなものになるのも無理はありません。
また、結婚を機に、2人は新居のアパートに移り住みました。...と言っても、共用部分はまだ工事中。工事が完了すれば、屋上では海に沈む夕日を眺めながら、仲睦まじい時間を過ごせそうです。
共働きなので、家事は分担しています。ジュバイルは朝食作りや皿洗いを担当。ナフィシャさんは帰宅後に夕食作りと翌日の昼食の作り置きをします。洗濯機はなく、基本的に衣類は自分のものを自分で洗います。掃除機もありませんが、床や壁の拭き掃除が欠かせません。なにせアパートは工事中で、乾季(11月から3月頃)の現在、土埃がひどいのです。
慣習にならって義母への日々の連絡や、共働きしながら家事をこなすのは大変ですが、2人で一緒に暮らせる喜びは格別なようです。悲喜こもごもの新婚生活ですが、2人は「何があっても、支え合って、尊重しあいたい」と笑顔でした。どうぞいつまでもお幸せに!
昨年1月、阪神淡路大震災から25年、テレビでも新聞でも、25年を記念した特集番組や記事が相次ぎました。いずれも印象に残るものですが、その中の一つが、NHK BSで放送された、「しあわせ運べるように 阪神・淡路大震災25年 神戸が生んだ奇跡の歌の物語」 です。
阪神・淡路大震災直後の神戸で、自らも被災した小学校の音楽教師臼井真さんが作詞・作曲した「しあわせ運べるように」。その後も、国内外の被災地で歌い継がれ、人々を勇気づけてきた奇跡の歌として紹介されました。ご存知の方は多いと思います。
しあわせ運べるように(神戸オリジナルバージョン) 作詞・作曲 臼井 真 一、 |
「神戸」を「ふるさと」に変えたふるさとバージョンも、臼井先生ご自身の手によってつくられました。心打たれるドキュメンタリーでしたが、この歌が歌い継がれる被災地支援に関わってきた者として、とりわけ印象に残り、考えさせられた場面があります。
東日本大震災の被災地の方から「追悼行事で歌いたいが、"亡くなった方々のぶんも"の歌詞があまりに辛すぎる、この部分を変えて歌ってもよいか」、という問合せに対し、臼井先生が断られた、という場面です。「その部分は歌の肝だから、歌詞を変えるなら、申し訳ないが他の曲を使ってほしい」と言って。
臼井先生ご自身の回想でしたが、たとえ思い入れが強い歌詞であったとしても、東日本大震災で大切な人を失った方の切実な頼みを断れたのは、私は、臼井さん自身が被災者だからだと思ってきました。被災者でない人が作った歌だったら、そこで譲ったのではないか、と。その場面がとりわけ印象に残っているのは、私自身、被災地やあるいは紛争地に足を運びながら、被災者や難民の人たちに、より正確には、地元や現地で雇用した当事者の職員に対し、何か引け目を感じ、言うべきこと、言いたいことを言わずに口を閉じたり、譲ったりした場面の記憶がよみがえったからかもしれません。
あの番組を見てから1年、今年は、東日本大震災から10年の年です。
今、改めてあの時を思い出し、先日の東日本大震災と「人間の安全保障」(1)をつづった後に改めて思うことは、被災者同士だから断ることができた、という以上に、そこに人と人との対等な人間関係や信頼関係をみます。
支援する側とされる側、被災した人としなかった人。同じ被災地の中であっても、沿岸部と内陸部、被災の程度により、時に緊張した関係が生じがちです。しかし、一人ひとりの人間を大切にする「人間の安全保障」の視点から両者の関係を考えると、それは、卑屈になるのでも、遠慮するでもなく、また引け目を感じるでも、負い目を感じるでなく、また見上げることも、見下すこともなく、その上で、互いに思いやったり気遣ったりする対等な関係であるように思います。そうした、まっとうな、当たり前の人間関係を築いていければと考えます。
しあわせ運べるように(ふるさとバージョン) 作詞・作曲 臼井 真 二、 |
追記:余談ですが、阪神淡路大震災で、難民を助ける会と姉妹団体さぽうと21が、神戸で被災した方々、そして被災した外国人の支援に奔走している1995年の春、私は旧ユーゴスラヴィアに赴任中でした。1月の阪神淡路大震災、そして3月にはオウム真理教の地下鉄サリン事件があり、その様子は現地でも生々しく報道されました。そんな時です。ボスニアの友人や仕事仲間が大真面目に口にしたのは。
「ユキエ、日本はあぶない、危険だから、帰らないほうがいい、このままここに残りなさい」幾人もの友人知人にそう言われ、その気持ちをありがたい、と思いつつ、「戦争をしている国の人が何をいう」と、心の中で思わず、突っ込みを入れていたことを思い出します。東日本大震災の時も、多くの海外の方々が、私たちの身を案じてくれました。そして163の国や地域から支援が表明されました。
東日本大震災から10年を前にした今年1月、この本の増補改訂版『 入門 人間の安全保障 恐怖と欠乏からの自由を求めて 』(中央公論新社)が発行になりました。初版の発行から8年、データについては全面的に改訂し、文章を書き換え、また新たに書き下ろした新章もありますが、東日本大震災と「人間の安全保障」の第8章については、統計以外、ほぼそのまま残しました。お年寄りや障がいのある方など、弱者に集中・しわ寄せされる被害や、女性が負った負担は、その後の復興過程でも、また東日本大震災後に各地を襲った災害でも、同じことが繰り返されてきたからです。そして、福島の放射能被害も現在にまで及んでいます。東日本大震災を「人間の安全保障」の視点からみる分析は、今でも忘れてはならない視点である、との思いを強くしました。
他方で、増補改訂の作業をする中で、初版の時には考えも及ばなかったごくごく当たり前の事実に気づくようになりました。
それは、「被災者」あるいは「被災地」という言葉で一括りにできないほど、震災から10年を経た被災した方々お一人おひとり、あるいは一家族ひと家族、被災した地域ごとに、復興・復旧のプロセス(過程)も度合いも、今、あるいは今後必要なものも、大切なものも異なる、ということです。
これはコロナ禍に見舞われた現在の社会とも共通しています。立教大学の元同僚の(といっては失礼にあたるほど大先輩ですが)哲学者、内山節(たかし)さんが、新聞連載で、「 「国民」という名の虚構 」という大変興味深い文章をつづっています。少々長いですが、抜粋引用します。
振り返ってみると、今年(2020年)は「国民」という言葉が風化した年だった。「国民の命を守る」とか「国民の生活を守る」というような言葉をよく耳にしたが、ここで語られていた「国民」とは誰のことなのか。コロナの下で背負った課題はさまざまであり、「国民」という言葉でひとくくりにすることができるものではない。国民というひとかたまりでとらえられた人間像は、制度がつくった虚構のように思えてくる。考えてみれば国民という言葉は、政治の上で用いられる都合のいい言葉でしかなかった、国民というひとつの言葉では、まとめることができない人々。それが国民なのである。しかも社会のメンバーには、日本国籍をもたないさまざまな人々がいる。そのすべての人々を視野におさめず、ひとかたまりにされた国民がいるかのごとく発言されると、私たちは国民という言葉自体の虚妄性に気づくことになる。( 『東京新聞』 2020年12月20日付 「時代を読む」 ) |
内山節先生の国民とは誰か、という問いは、拙著『 入門 人間の安全保障 』の中で問うた「人間」とは誰を指すのか、にもつながります。そして、今、東日本大震災発生から10年を前に考えるのは、一体「被災者とは誰か」ということです。
一人ひとり、職業も年齢も性別も家族構成も、被害の度合いも、失ったものの性質や大きさも、故郷への思いも、家族の結びつきも一人ひとり異なる、東日本大震災の被害を受けた人々を「被災者」として一括りにしたのは、政府や政治であり、私たち援助団体かもしれません。
コロナ禍にあって、内山先生のご指摘どおり、「国民」という言葉の醸し出す虚構に私たち「国民」が気づいたように、東日本大震災の「被災者」の方々は、あるいは、福島の原発から逃れた人々は、最初から「被災者」「被災地」という言葉のもつ虚構に気づいておられたのかもしれません。
「国民」「日本人」「被災者」「障がい者」「高齢者」「xx人」そして「難民」。
そうした虚構ともいえる、大きなくくりで、多様で個性ある人間が、ひと塊にされるのは、政治や行政の都合であり、また、これらの言葉は、戦争や大災害・大混乱の発生時など、時代や社会の転換点に登場するのだと思います。
東日本大震災の発生から10年、私たちは「被災者」という言葉を卒業し、被災した方々お一人おひとり、あるいは一つひとつの被災地に特有の課題や未来と向き合う時にきているのだと思います。
もとより政府や都道府県が行うには細かすぎる仕事かもしれません。この10年、誰よりも被災者の方々一人ひとりと向き合ってきたのは、最前線におられる市町村といった自治体の方々であり、さまざまな地縁団体、障がい者団体といった民の組織であったと思います。
「人間の安全保障」が国家の安全保障と異なるのは、脅威が多種多様であることです。国境線を危険にさらす外敵の脅威のみならず、ありとあらゆるものが一人ひとりの人間にとって脅威となります。だからこそ、そうした多様な脅威に対応するために自助や共助、そして市民社会の活動が重要なのだと思います。
難民を助ける会では、2月27日(土)に、「震災から10年、一人ひとりが願う未来の実現に向けて」と題したオンラインシンポジウムを開催します。冒頭で、私が「東日本大震災と 『人間の安全保障』 」と題した基調講演をさせていただきますが、あとに続く、活動報告・パネルディスカッションにご登壇いただくのは、岩手県で障がい者支援に携わってきた奥州市水沢に本部を置く、ひまわり会すてっぷの施設長・小山 貴さん、宮城県で、AARのリハビリ・傾聴活動をともに推進してくださった日本産業カウンセラー協会東北支部養成講座部部長の及川 志保さん、AARが行う西会津わくわく子ども塾にお子さんと一緒に参加くださり、ひまわりの家の居宅介護に関わってこられた福島県相馬市の舘岡 恵さん、東日本大震災の発生2日後から現地に入り、2年にわたってAARの東北事務所長を務め、日本障害者協議会(JD)の理事も務める当会の野際 紗綾子です。
難民を助ける会では、皆さまのご協力、ご支援をいただきつつ、これからも、福島や障がい分野の課題に向き合いながら、一人ひとりが願う未来の実現に向けた東日本大震災被災地支援を続けてまいります。シンポジウムではともに、あの時から、今日までの活動を振り返り、これからの活動につなげてまいりたいと思います。
「長先生は1995年7月11日から2021年に戻られましたでしょうか。」
昨春、修了した元ゼミ生からのお正月明けのメールです。コロナ禍で大学院の修了式がなくなり、ちょうど1年前の修士論文審査会での対面が最後になっていました。その後も、やり取りは続いていたのですが、近況を尋ねられる度、「今、私はボスニアにいるの」「今日は7月16日にいるの」と伝えてきたため、こんな挨拶になりました。
昨年、2020年は、ボスニア紛争終盤、約8,000人のムスリム男性が命を落としたスレブレニツァ事件から25年にあたります。このブログでもつづってきましたが、私は、加害者側にあたるボスニアのスルプスカ共和国の議会が立ち上げたスレブレニツァの犠牲者のための国際真実委員会の委員として報告書の作成にかかわっており、また、昨年初頭に開催したシンポジウムの成果をもとに、登壇者の方々のご協力を得て、論文集『スレブレニツァ・ジェノサイド 25年目の教訓と課題』(東信堂)を編んだこともあり、スレブレニツァ事件と対峙し続けた1年でした。
もちろん、オンラインが中心になったとはいえ、授業や論文指導、日々の大学業務や会議、そして難民を助ける会の仕事もありました。さらに秋以降はこのほど増補改訂版が出版された中公新書『入門 人間の安全保障』の作業にも没頭していました。
しかし、誤解を恐れず、またコロナ禍の年に何をしていたのか、とそしりを受けることも覚悟の上で告白するなら、そうした時間以外のほとんどの時を私は、1995年のボスニアで過ごしました。
博士学位論文で扱ったスレブレニツァは、事件の全体像の解明に取り組んだものの、PKOや安全保障理事会の決定など、国際社会の介入の分析が主眼でした*。
その後、しばしの中断を経て、2016年から再開したスレブレニツァ研究では、「ジェノサイド」と名付けられた事件の、実態をより正確に把握するため(というより、積み残しの謎を解くため)、徹底的に現地に足を運び、より実証的な地域研究・歴史研究を試みました。さながらそれは「ダークツーリズム」ともいえる旅でしたが、それまで図上で理解していた事件の現場、つまり、たどれる範囲でのムスリム男性の避難ルート、複数の虐殺現場、遺体が遺棄された一次・二次埋設地、といったポイントを訪ね、歩きまわりました。帰国後は、裁判記録や数々の証言・文献と照らし合わせて再検証し、翌年再び、別の地点に足を運び・・・。そうした作業を繰り返すうち、特にどこにも行かず(行けず)に、ひたすら裁判記録と思考を行きつ戻りつした昨夏は、自分が95年のそこにいるかのような錯覚さえ覚えました。そして、さらに突き詰めていくうちに、事件を未然に防ぐことができるターニングポイントに立っているかのような気さえしました。
この場所で、この時点で、この人物(たち)が、こうすれば、事件は起きなかったし、防げたはず。8,000人ではなく、最小限の犠牲で済んだはず。加害者側もこのような犯罪に手を染めることなく、獄中で一生を終えることもなかったはず。
真夜中に、事件を未然に防ぐ糸口をつかんだと確信するたびにひとり興奮し、犠牲者も、加害者となった人々も双方を救えたような気持ちになり、そこに希望を見た思いがし、充足感に満たされ高揚し・・・。しかし、決まって次の瞬間、当たり前のことに気付くのです。学部時代の恩師・鴨武彦先生の言葉ですが、「歴史にifはないこと」、そして時計の針はもはや元には戻せないことに。その瞬間の、全身の力が抜けていくような、脱力感と徒労感、そして頭から水を浴びせかけられたような感覚はうまく言葉では言い表せません。
突き詰めていた対象は、時により、加害者側であったり、被害者側であったり。あみだくじのように、それぞれがそれぞれの時点で別の判断・別の選択をしていたら、その後のバルカンの歴史も、国際政治も、多くの人々の人生も違ったものにはっていたはずです。そして、2020年のボスニアには、今とは違う顔ぶれの若者たちがたくさんいたことでしょう。あの人たちが生きていれば、戦後たくさんの子供たちが生まれていたはずですから。
そんなことを何回繰り返したでしょうか。そして私は、1995年の7月のボスニアと2020年のコロナ禍の日本とを行ったり来たりしていました。
もうすぐ、東日本大震災の発生から10年を迎えます。難民を助ける会が主催する震災から10年のオンライン・シンポジウムで、「東日本大震災と人間の安全保障」と題した基調講演をすることも決まりました。このタイトルでお話するためにも、しっかり2021年に戻って、再びこのブログでも発信したいと思います。
*2009年に博士論文をまとめて出版した著書の題名は『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(東信堂)ですが、そもそも2007年に提出した学位論文のタイトルは「スレブレニツァ・ジェノサイド : 冷戦後のジェノサイドへの介入をめぐる考察」でした。
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