駐在員・事務局員日記

「私がAARを選んだ理由」名取郁子-これから国際協力の分野を目指す人たちへ(17)

2017年03月27日

AAR Japan[難民を助ける会]のスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第17回は、支援事業部長の名取郁子です。穏やかな話しぶりながら、百戦錬磨で海外事業を統括する彼女がこの世界に入ったきっかけは?(聞き手:広報・渉外担当 伊藤)

留学先での出会い

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「アンジェリーナ・ジョリーみたいに撮ってね(笑)」(2016年11月)

-国際協力の世界に関心を持ったきっかけは?

私が学生だった80年代当時は、外国と言えばアメリカでした。とにかく留学することに憧れていたので、家から通えて交換留学制度のある大学に入学しました。その制度を使い大学2年生のときに米国へ1ヵ月間、その後4年生で米国の大学に1年間留学しました。

留学先ではアジアやアフリカからのたくさんの留学生との出会いがありました。カンボジア難民の友人もできました。インドシナ紛争から命がけで逃げてきた友人から話を聞き、「同じ時代に生きていた自分となんて違うのだろう」と、世の中の不公平さを実感しました。それまでアメリカしか見ていなかった自分がアフリカやアジアへ目を向けるきっかけとなった1年でした。

留学後、とりあえず帰国して就職しようと製薬会社で5年間働きましたが、やはり「国際協力をしたい」という気持ちを抑えられず退職。当時はインターネットなどなかったので、国際協力の仕事についての本をいろいろ読んで調べました。本によると「大学院に行ったほうが良い」とか、「現場の経験があったほうが良い」とか、いろいろ書いてありましたが、私はむしろ「行ったことのないアフリカに行ってみたい」という気持ちが強くあり、アフリカで活動するNGOに参加することにしました。

過酷なボランティア活動に「プライドは捨てた」

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デンマークのNGOでは、馬の飼育を当番制ですることも。写真は、馬小屋の汚れた藁を捨てる作業をしている本人(97年12月)

-そのNGOではどんな活動をしたのですか?

私が参加したのはデンマークのNGOで、最初の半年はデンマークで資金集めの活動を行い、残りの半年はアフリカで支援活動をするというコースでした。10月から11月にかけては零下10度のデンマークの首都コペンハーゲンの街頭に朝の10時から夜の6時まで立ち、ひたすら花束や絵ハガキを売る活動をするんです。ノルマは日本円で1日約2万円。目標金額に達しなかったので、2人一組になりヒッチハイクで隣国のスウェーデンにも行き、募金活動を続けました。電車の中で募金活動をしたこともありましたね。でも電車内は街頭と違ってみんなその場にいて動かないから、さすがに恥ずかしかったです。昼食代も募金に回そうと、チームでファストフード店やレストランなどでも募金活動。フリーランチ(無料でランチを提供してもらい、浮いた昼食分を寄付に回す)の形で協力してとお願いするんです。この経験を通じて、自分の持っていたプライドは全部捨てました(笑)。
結構大変でしたが、滞在中デンマークの人たちは温かく、救われました。この理不尽と言えば理不尽な募金活動のせいで、当初15人いたメンバーが半年後には私を含めて3人に減っていました。私はアフリカへ行くと言って会社を辞めて日本を出てきてしまった手前、今さら引き返せなかったので。やっとアフリカのモザンビークに向けた飛行機に乗ったときの解放感は忘れられません。

念願のアフリカで自分の無力を実感

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モザンビークで念願の支援活動を開始。写真は支援先の幼稚園の先生と子どもたち(1998年4月)

-モザンビークではどんな活動を?

首都マプート近郊にある幼稚園でのプロジェクトに関わりました。地元の幼稚園ではシャンガーナという地元の言葉を使っているのですが、小学校に上がるとポルトガル語での教育になるため、言葉の壁により落ちこぼれてしまう子が多かったのです。幼稚園のときからポルトガル語に慣れようというプロジェクトでした。

もうひとつは衛生教育です。地元のNGO職員と一緒に対象地域の各家庭を訪問して、食器棚がないところには食器棚を作り食器を清潔にしてしまいましょうとか、どんな水を使っているか調べて衛生的な水を使いましょう、などと住民に伝える活動でした。

やっとアフリカに来られて地元の方たちとも関わることができ、毎日がとても新鮮でした。でもその一方で、いかに自分が役に立たないかも痛感しました。「自分は一体何をしに来たんだろう」と。自分のためにはなっても地元の方のためになるようなことはあまりできなかった、という思いが残りました。

国連へ行くも「NGOの現場で事業を運営したい」

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ユニセフアンゴラ事務所代表マリオ・フェラーリ氏(当時)と(2004年3月)

-その後大学院へ?

支援についてしっかり学びたいという思いがあり、8月にモザンビークでの活動を終えた後、9月から2年間イギリスの大学院で開発学を学びました。その傍ら外務省のJPO派遣制度(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー、国際機関への派遣制度)に応募し、大学院を修了後UNICEF(国連児童基金)職員としてアンゴラへ派遣され3年勤務しました。
当時アンゴラは内戦中で、連日「どこそこで戦闘があり何人死亡」という情報が入ってきていました。その後2002年4月にやっと和平合意が結ばれましたが、反政府勢力の支配地域だったところからボロボロになった人たちがたくさん出てきて、彼らの過酷な状況をなんとかしたいという思いが強くありました。
けれどユニセフ(国連児童基金)の仕事では直接現地の人々を支援する機会は少なく、支援の現場に行けるのは、自分の部署が助成金を出しているNGOの活動をモニタリングするときなどに限られていました。むしろコンピュータの前に座りお金の管理をする時間が長く、自分の言葉で支援活動について語れないもどかしさや行き詰まりを感じていました。フィールド(現場)に出て自ら事業を運営したいという想いが日増しに強くなりました。

「NGOの良さは、結果が目に見えること」

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東ティモールで、ともに活動した大切な同僚たちやその家族と(2005年)

ユニセフでの任期を終え帰国した後、日本のNGOに入り東ティモールで2年間、健康教育促進プロジェクトに関わりました。念願のフィールドに出られた嬉しさは格別でしたね。

私が関わったのは地元の人に健康教育を広めるプロジェクトで、下痢などの予防可能な疾患の予防方法や、妊産婦健診や子どもの健康診断、予防接種などの必要性を、村の簡易クリニックや学校、地元のボランティアを通じて広めるというものでした。

NGOで働くことの良さは、結果が目に見えることです。国連のような大きい組織と異なり、NGOのような比較的小さな組織だと自分の裁量で決めて良い変化を生んでいくことができるので、やりがいがありました。東ティモールは長い間紛争が続いていたので、国が学校のカリキュラムに健康保健教育に関する授業を入れようと決めても、先生たちは何をどう教えてよいかわからない。そこで私たちはそうした教員や村人向けに研修を行いました。村のおじさんが、私たちの提供したフリップチャートなどを使って、村の人々が疾患を予防できるように自主的に熱意を持って活動してくれて、嬉しかったですね。

-その後、またアンゴラへ?
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スーダン南部の子どもたちと(2009年3月)

アンゴラは最初の赴任地だけあって思い入れが強く、アンゴラを離れても内戦の影響で困難な中で生活している人たちのために何かしたいという気持ちがずっとありました。そのころたまたまAARでアンゴラ駐在員を募集していると知り、応募しました。丁度隣国ザンビアの難民居住地からアンゴラへ難民が帰還したころで、私は主に彼らが祖国で地雷の被害に遭わないための教育事業を担当しました。1年後、AARの活動を現地のNGOに移管することになり、その後はスーダン南部(現在は南スーダン共和国)の駐在員として2年3ヵ月勤務しました。

-スーダン南部での生活はどうでしたか?
40度を超える暑さのエアコンもない事務所やテント生活など、スーダン南部での駐在員の生活環境は、確かに厳しいかもしれません。でも、地域の人々の生活に比べればずっと恵まれた環境でした。それよりむしろ、銀行もなくカラシニコフ銃を担いだ人たちが歩いているような場所で何千万円という資金を扱う責任感や、舗装道路も皆無、信頼できる医療サービスもない中で頻繁にスタッフをフィールドに送り出すオペレーションでの安全管理にかなり気を遣い、そちらのほうが精神的にはきつかったですね。

より安全対策に注力し、質の高い支援を

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全職員に向けて安全管理研修を行う(2016年9月)

-その後帰国し東京勤務に?

日本を離れて3ヵ国で9年間の海外駐在を経験したので、一度日本に戻ろうと思いました。現在は東京を拠点に海外事業全般を統括しています。現在、海外11ヵ国に21の事務所があり、駐在員27名を含め200名強のスタッフが働いています。安全、人事、資金の管理、物資やサービスの調達、当該国諸機関との関係調整などの諸業務が円滑に回るよう、メールやスカイプ、電話、ときに出張を通じてサポートするほか、東京側の業務の諸調整、職員の採用、助成金の申請サポート、各種決裁などを担当しています。安全管理も大事な仕事のひとつです。ときとして海外駐在員や現地スタッフの病気や事故の対応などもあります。
安全対策においては、実際にことが生じたとき、自前で対処できる体制を作ることが大事です。最終的には自分たちの身は自分たちで守るしかないのです。個人でできること、各国の事務所でできること、東京事務局ででできること、とそれぞれあります。そのうえで誰かが怪我をしたり病気になったとしたら、それは私を含めマネジメントに携わる者の責任でもあります。事故や病気を100%防ぐことはできませんが、可能な限りリスクを減らす努力はしないと。非営利組織といえどその点は甘えてはいけないし、むしろより厳しくあるべきです。

-今後AARをどのような団体にしていきたいですか?
AARの活動に「参加したい」「一緒にやってみたい」「応援したい」と思ってもらえるような質の高い活動をしたいですね。活動地域の方々の声をよく聞き、プロとしての自覚とモラルを持って成果を出していきたいです。常に改善点はあると思うので、これからも、より良い支援を目指します。

「異文化を理解し、違いを楽しめる人」

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「元冒険部とか、異文化理解を楽しめる人も、この業界には向いていますね」(2016年11月)

-これから国際協力を目指す方々に向けてメッセージやアドバイスを。

どの仕事でもそうかもしれませんが、国際協力の仕事も「答えのないところに答えを見つけていく」仕事だと思います。支援の現場は一つひとつ異なり、そこにいる方々が抱える問題、その解決方法もさまざまです。

A problem well-described is a problem half-solved(問題を正しくかつわかりやすく説明できれば、その問題はすでに半分解決したのと同じ)とは、アメリカの発明家チャールズ・ケッタリングが残した有名な言葉ですが、何が本当の問題かを見極め、妥当な解決方法を見出し、それを成功裏に実施していくには、現地の方々とじっくり付き合うことが必要になってきます。そのためには、異文化を積極的に理解しようとする姿勢、相手の属性によらず敬意をもって接する力が必要です。自分とまったく違う環境で育ち、異なる価値観を持つ人も受け入れて一緒に仕事をし、それを楽しめてやりがいを感じられる人に適性があるのではないでしょうか。

国際協力について専門的に学んでこなくても、この世界で仕事をしている人の中には、「元冒険部でした」という人もいますし、「中東地域を専攻していたので、その地域に関わる仕事がしたい」という人もいます。入口はなんでもよいのです。活動地域の歴史や文化をよく学び、事務所運営や支援活動の実施に係る諸々の知識やスキルを身に付けて、辛抱強く現実とレスリングをしていける、そんな方々のAARへのご応募、お待ちしています。

執筆者

支援事業部長・理事
名取 郁子

英国の大学院で開発学を専攻。2006年7月より2007年10月までAARアンゴラ事務所駐在。2008年1月から2010年4月まで南スーダン駐在。2010年4月より東京事務局勤務。趣味はピアノ。滋賀県出身

記事掲載時のプロフィールです

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