ミャンマー・パアン事務所
中川 善雄
「ぼくが国際協力の仕事を選んだ理由」中川善雄-これから国際協力の分野を目指す人たちへ(3)
AARのスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第3回は、約3年のタジキスタン駐在代表を経て、2013年10月よりミャンマーのパアン事務所に勤務する中川善雄、30歳。彼が国際協力、そしてNGOを目指したきっかけは?(聞き手:広報担当 伊藤)
転機は大学2年「いろんな世界を見てみよう」
Q.中川さんは、学生時代は国際協力にどう関わってよいかわからなかったそうですね。
そうなんです。自分は大学に入るまで国際協力の世界とは縁遠いところにいました。大学の専攻もいわゆる国際学部などではなく物理学でしたし、それまでボランティアの経験もありませんでした。とはいえ、特に進みたい道があったわけでもありません。
大学1年生のときは、アーチェリー部に所属し、練習を重ね大会にも出ていました。社会人になった先輩たちもよく試合の応援や指導に来てくれていたのですが、そのOBたちと話す機会が増えると、自分もこのまま卒業して民間企業に就職して同じような道をたどるのかな、それが本当に自分が進みたい道なのかなと、自分の進路を考えるようになりました。
そこでアーチェリー部を辞め、とにかく一度いろんな世界を見てみようと、大学2年になる前の春休みに手話や点字のセミナーや防災ボランティアのワークショップなどに参加しました。今から考えると、どれも福祉系の活動ですね(笑)。
そのときに知り合った人から、フィリピンのワークキャンプについて教えてもらい、面白そうだと思い参加しました。フィリピンのルソン島にあるオロンガポという町の近くで養護施設の建物を建てるボランティアで、3週間滞在しました。その経験を通じ、国際協力の面白さに目覚め、また英語力の必要性を痛感し、帰国後NHKのラジオ番組の英語講座を続けました。
「日本で報道もされない国で、誰かが悲しみ、命を落としている」
そのときは、まだ国際協力を仕事にしようとまでは思っていませんでした。自分がこの道に進もうと心に決めたのは、大学3年でボランティア活動に行ったマケドニアでの出来事がきっかけでした。
民族や宗教で分裂した旧ユーゴスラビア諸国で、利害関係のない日本人が、日本の文化を伝えたり、子どもと遊んだりして、少しでも異なる民族や価値観を受け入れてもらうという活動に参加しました。このワークキャンプを主催した日本のNGOは当時、日本からボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、クロアチア、マケドニアに学生を派遣していて、ぼくはマケドニアのアルバニア人家庭へ4週間ホームステイし、アルバニア人が通う小学校で活動していました。
ワークキャンプも終わりに近づいたころ、コソボでアルバニア人の小学生3~4人が、セルビア人の大人に追い回され、川に落ちて亡くなる事件がありました。ショックでした。マケドニアでも市街地に警官が配備されて普段よりも物々しい雰囲気でした。
しかし、日本へ帰ってみると、新聞を読んでもテレビのニュースを見ても、何も報道されていない。「日本では報道すらされない国や場所で、人が悲しんだり亡くなったりしている」と強く感じたんです。でも自分はそれを知ってしまったし、ならば自分が何かしようと思ったんです。
自分の中では、「友達が困っているから何かしたい」と、「海外で苦しい立場にいる人に何かしたい」は、ほとんど同じです。この経験をきっかけに、世界と自分の距離が、すごく近くなったのだと思います。
赤十字の理念に惹かれ、約5年勤務
Q.大学卒業後、日本赤十字社に入られたのは、国際協力を仕事にするための第一歩ですね。
はい。進路を考える際に、やはり国際協力の世界で働きたいと思うようになり調べたところ、日赤を見つけました。それまで献血などで名前は知っていましたが、就職先として門戸を開いているとは知りませんでした。調べるうちに、赤十字の基本理念である、「人間の生命は尊重され、苦しむ者は、敵味方の別なく救われるべき」という考えに強く惹かれました。また、それを実現するための、「人道」「公平」「中立」「世界性」などの原則にも共感を覚え、ぜひこの団体で国際協力の仕事がしたいと思いました。
無事合格し、千葉県にある血液センターに配属されました。そこでの業務は、主に経理や会計、物品調達や施設管理、現場(献血ルーム、検査・製材部門など)のバックアップでした。社会人としての基本や仕事の進め方が身についたのはもちろん、ここでの業務経験は、その後のAAR駐在員時代にも、とても役立ちました。日赤では約5年勤務し、理解のある上司や同じ志を持った同僚などに恵まれ、多くを学ぶことができました。
しかし、日赤は約6万人が働く大組織で、数年毎に部署の異動があります。自分が目指す国際協力の現場に配属される可能性があっても、それはかなり先だということが次第にわかってきました。また、配属されても数年で配置換えになってしまう可能性が大きいことも知りました。
当時、自分は27歳。もし国際協力の世界で働くとしたら、若いうちに現場で経験を積みたい。しかし、このまま日赤で働き続ければ、そういうチャンスはなかなか巡ってこないかもしれない。そう考え、思い切って辞めることにしました。とはいえ、日赤は、今でも大好きな組織です。
AARへ転職し、海外の現場タジキスタンへ
Q.そしてAARへ。数あるNGOの中でもAARを選んだのは?
駐在員を募集している団体の中でも、AARのように、政治、宗教に偏らず、より困難な人々を支援する姿勢は、日赤の理念と通じると思いました。また、「困ったときはお互いさま」を世界の人々へ、という考え方も、自分の気持ちと重なりました。
最初の赴任地タジキスタンでの事業は、障がい者支援でした。2011年、自分が赴任した当時の事業は、現地にある車いす工房の支援と、障がいのある方々が自立するための職業訓練でした。1から勉強の日々でした。
タジキスタンでは障がい者への公的支援がほとんどないため、AARの支援はとても意味があるものでした。当会の支援により技術を身につけ自立し、見違えるように笑顔になった人々。また、活動を通じて知り合った人々から励まされたり、多くのことを学んだ3年間でした。また、駐在代表として現地スタッフのマネージメントや仕事の進め方、対外交渉など、この仕事を行う上で必要なことも多く身につけることができ、貴重な経験でした。
現在はミャンマーで国内避難民への支援を実施中
2013年10月からは、ミャンマーのカレン州にあるティサエイミャイン村で、主にカレン州内の内戦から逃れてきた国内避難民などへの支援を行っています。
ティサエイミャイン村には政府が建設した住居があり、国内避難民や戦争未亡人など274世帯(約1,500名)が暮らしています。うち3分の1以上の世帯に地雷被害者がいます。住居があるとはいえ、屋根は雨が漏り、壁は破れ、水道の配水管は破損しているため安全な水が確保できず、汲み取り式トイレも雨期になると溢れるなど、不衛生な生活環境です。
AARでは、そうした生活環境を改善するために、既存の配水管を耐久性の高いものに交換し、適切なし尿処理設備を備えたバリアフリートイレを含む公衆トイレを設置する予定です。また、住民の方々に正しい衛生の知識を学んでもらうためのワークショップも開催予定です。
タジキスタンで学んだ障がい者支援とはまた異なる事業で、もっと自分に知識があればと焦る気持ちもあります。現場でどんな事業を行うかを検討する際、他団体の関係者とも話し合います。自分より現場での経験が長かったり、専門分野で修士号を取得した人などと話すと、自分の経験や知識のなさに悔しさも募ります。ただ、自分のせいで事業の質を落としたくないので、学べることはすべて学び、AARで自分が今できる最高の支援をしたいと思っています。
自分に合った国際協力を見つけて欲しい
Q.これから国際協力の分野を目指す方にアドバイスは?
国際協力への携わり方にはいろいろあります。駐在員として海外に行かなくても、東京のスタッフとして働くこともできます。職員にならなくてもボランティアや寄付を通じて、また買い物する際にフェアトレードの商品を選ぶなど、日本にいながらできることはたくさんあります。一人ひとりが自分に合ったやり方で協力し、それを続けることが社会を良くすることにつながるのではないでしょうか。
また、旅行でもなんでも良いので、海外に目を向けて欲しいと思います。途上国で生きる人々と自分との距離が縮まれば、自分に何ができるだろうかと自然に考えるよ うになります。そして、知るだけでなく、一歩を踏み出して欲しいです。自分も最初の一歩を踏み出すまでに、いろいろ試しました。セミナーに出たり、本を読んでみたり、人の話を聞きに行ったり。そういう積み重ねが、今の自分につながったと思うので、ぜひ皆さんも自分なりの国際協力のやり方を見つけて欲しいと思います。
大学卒業後、日本赤十字社に約5年勤務。その後、国際協力の現場を希望しAARへ。2011年3月より2013年9月までタジキスタン駐在。2013年10月よりミャンマー・パアン事務所駐在。趣味はジョギング。神奈川県出身
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