駐在員・事務局員日記

「私がAARを選んだ理由」岡山典靖-これから国際協力の分野を目指す人たちへ(16)

2017年02月06日  ラオス職員紹介
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執筆者

ラオス事務所
岡山典靖

2004年6月よりラオス・ビエンチャン事務所に駐在し、車いすの製造・普及、障がい者の収入向上、車いすバスケットボールの活動など、障がい者支援に従事。2011年東日本大震災、カンボジア水害、2013年フィリピン台風、2015年ネパール地震などの緊急支援にも従事。50歳、愛知県出身

記事掲載時のプロフィールです

AAR Japan[難民を助ける会]のスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第16回は、青年海外協力隊やNGOのネパール駐在、AARのラオス駐在員など、20年以上にわたり国際協力に携わってきた岡山典靖。支援にかける思いや、これからの国際協力を担う若者へのメッセージを聞きました。(聞き手:広報担当 長井)

釣りと魚が何より大好き

「協力隊に参加するまで、国際協力に関心はほとんどありませんでした」(2016年11月)

「協力隊に参加するまで、国際協力に関心はほとんどありませんでした」(2016年11月)

Q.子どものころから海外や国際協力に関心があったのですか?

いえいえ、まったくありませんでした。物心ついたときからとにかく釣りと魚が大好き、小学生のころから休みになれば、川や海へ釣りに行っていました。名古屋で育ったのですが、名古屋城のお堀でも釣りをしていました(笑)

そのまま大人になって、大学も自然と水産学部に進みました。 水産学部といっても、やっていることは幅広く、魚の生態の研究から、水産物の加工、漁業までさまざま。私は、魚の養殖や生態の研究を専門にやりました。卒業後も魚に関わる仕事をしたいと思い、水族館などを目指して就職活動をしていたところ、たまたま青年海外協力隊の募集ポスターを目にし、そこに「養殖」という職種があるのを見つけました。「これは面白そう」と思い、受験しました。派遣が決まったのはバングラデシュ。バングラデシュと聞いて、「アフリカだったかな~」と思ったほど、当時は海外への関心も薄かったことを覚えていますね。

協力隊・民間企業・財団を経て、NGOの世界へ

バングラデシュでは現地のNGOに派遣され、同国北部、インドとの国境に近い村で農村民によるインド鯉養殖の普及に取り組みました。魚は水から湧くものというくらい、放っておけば魚が得られるという感覚のバングラデシュの人たち。養殖の意味を理解してもらい、稚魚の放流、餌やりから収穫まで、一緒に池に入って汗を流しました。そうやって、現地の人と一緒に取り組むこと、それが私の国際協力の原点です。帰国後は一度民間企業に就職し、うなぎの養殖に携わりました。3年が経ち、協力隊時代の知人に誘われ、水産系のODA事業を行う財団に転職しました。日本の水産物の加工技術などを途上国へ伝える技術協力の業務です。東京事務局での勤務でしたが、ペルーや南アフリカ、モーリタニアを担当し、現場にも何度か足を運びました。やりがいもあり、待遇も良かったです。 そんなとき再び協力隊時代の知人から、NGOへの転職の誘いを受けました。ネパールで駐在員として農村開発に取り組む、というものでした。当時30歳。また海外の現場で働きたいという気持ちと、今の生活を捨てることに半年間迷いました。でも「やってみたい」という気持ちに勝てず転職を決意しました。

Q.NGOでの仕事はどのようなものでしたか?

主な仕事は、エベレストのふもと小さな村の開発。農業、保健、教育や住民の組織作りなど、生活の向上に繋がるさまざまな仕事を行いました。ここで何年か勤めるなかで、NGOの支援事業が生活を向上させる活動のきっかけとはなるが、その存在が余り長引くと依存を生み出す結果も招いてしまうなど、時にはジレンマも感じたりしました。

大好きな遊びは川遊び

川で遊ぶのが大好きだった子ども時代

村人と船に乗って漁をする協力隊時代(1997年、バングラデシュ)

村人と船に乗って漁をする協力隊時代(1997年、バングラデシュ)

初めての障がい者支援に挑戦

遠方に車いすを届けるため、長距離バスに乗せて運んでもらう仕組みを整えた(2009年6月)

遠方に車いすを届けるため、長距離バスに乗せて運んでもらう仕組みを整えた(2009年6月)

Q.その後AAR へ転職をした理由は?ラオスでの仕事はどのようなものでしたか?

新たな分野に挑戦したい、同じアジアでも東南アジアの方を見てみたい、という気持ちになり、AARのラオス駐在員募集を知り、応募しました。

2004年6月に赴任し、2011年5月までの7年間従事したのが車いすの製造・普及事業です。製造業が乏しいラオスでは、自転車の製造工場さえなく、障がい者・高齢者のための車いすを手にするのは難しい状況でした。AARは、年間数台の手作りで木製車いすを提供していたラオスの国立リハビリテーションセンターと共同で障がい者へ地元で作る車いすを提供する支援を行い、その事業のマネージメントが業務でした。

まず力を入れたのは、製造能力の強化です。工房スタッフの技術を向上させるため、日本から専門家を招いたり、スタッフをタイやカンボジアで研修を受けさせたりしました。次に、病院や協力団体を通じて、車いすを必要とする障がい者を募り、当初は首都近郊に限られていた対象地域をラオス全県に広げ、長距離バスの運転手に頼んで遠方に届ける仕組みも整えました。また、ラオスでは舗装されている道は少ないため、マウンテンバイクのタイヤを使い、悪路対応の車いすを開発しました。工房スタッフや現地スタッフとの試行錯誤の繰り返し。意見の違い、時には衝突もありましたし、私のラオスの文化への理解が足りないこともありました。でもそうした時間を積み重ねることで、理解・尊重しあいながら、仕事ができるようになりました。

無我夢中で取り組んだ車いす事業

車いすを届けた際は、その人の身体に合っているかしっかりと確認(2008年7月)

車いすを届けた際は、その人の身体に合っているかしっかりと確認(2008年7月)

車いすと合わせ、自転車のような機能を持つ手漕ぎ三輪車も主力製品の一つでした。あるとき、AARが製造した手漕ぎ三輪車を提供したおじいさんが、事務所を訪ねてきたことがあり、手には松葉杖がありました。「もし、誰か必要な人がいたらその人に渡してほしい。自分には手漕ぎ三輪車があるから」と、3時間三輪車を漕いで事務所に来たのでした。

車いすや手漕ぎ三輪車を提供したことで、仕事や通学が可能になったり、行動範囲が広がったりと、それまで家にいるしかなかった人たちの生活を変える支援ができたことは、本当に大きな喜びとなり、無我夢中で取り組みました。

AARの支援によって車いす工房は自立し、同センターの職員たちによって現在も車いすを提供するサービスが行われています。約3,000台の車いすを提供する中で、仕事がなくて家族に支えてもらうしかない多くの障がい者と出会いました。現在は彼らの自立の手助けとして、自宅で取り組むことができる生産・販売活動(キノコ栽培やナマズ養殖など)の支援に取り組んでいます。また、障がい者スポーツの分野では2006年頃から現在まで車いすバスケットボールの活動にも関わっています。

動機を常に意識すること、そして、継続は力になります

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「石の上にも3年、ですかね」(2016年11月)

Q.これから国際協力を目指す方々に何かアドバイスを

地雷対策、障がい者支援、難民問題、開発。専門分野はそれぞれですが、支援する側の多くの人間は、当事者ではない場合が多く、長年障がい者支援に関わってきた私自身も障がい当事者ではありません。また、恥ずかしながら、ラオスへ行く前から一生車いすのことをライフワークにしようといった大それた目標や動機があったわけではありません。私の場合は、日々障がい者の皆さんと関わり、車いすについて経験を積んでいく中で、次第に"自分が何をすべきか"が明確に見えてくるようになり、それと同時に動機も強まってきました。当事者ではない自分がどうしてこの問題に取り組むのか、という動機を意識し、高めていくことが大事だと思います。

また、できるだけ長く同じ現場にいて欲しいとも思います。長く続けることで、地域の人々や現地スタッフとの人間関係も深まりますし、時間をかけることで理解できることが必ずあります。結果的にそれが良い支援に繋がり、国際協力をしていくうえでの大きな力にもなると思います。

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