東京事務局
北朱美(きた あけみ)
「私がAARを選んだ理由」北 朱美 これから国際協力の分野を目指す人たちへ(20)
臨床検査技師として病院に勤務した後、タイで公衆衛生を学ぶ。帰国後、AARへ。ザンビア事務所、ミャンマー事務所、パキスタン事務所駐在を経て、2017年5月より東京事務局勤務。長崎県出身
記事掲載時のプロフィールです
AAR Japan[難民を助ける会]のスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第20回は東京事務局・支援事業部マネージャーの北朱美です。ミャンマーやパキスタンでの駐在経験や、これからの国際協力を担う若者へのメッセージを聞きました。(聞き手:バングラデシュ・コックスバザール事務所駐在 中坪央暁)
国際協力を目指していた訳ではありません
-AARに入職するまでの経歴を教えてください
大学を卒業し、兵庫県内の病院に臨床検査技師として3年間勤務した後、タイの大学院に留学して公衆衛生を専攻しました。留学先にタイを選んだのは、たまたま知人が紹介してくれたからですが、アジア・アフリカの留学生たちと一緒に1年半、各国の保健事情や政策を学んだことは大きな刺激になりました。修士論文では、バンコクの街角に置かれた水の自動販売機の水質と衛生状態の関連について調査しました。肝心の調査結果は......忘れました。
子どものころから世界の人々が何を食べ、どんな暮らしをしているのかに興味があって、テレビ番組の「世界ウルルン滞在記」を欠かさず観ていましたが、国際協力を目指していた訳ではありません。留学から帰国して就職先を探す際、せっかく学んだことを生かしたいと思って、NGOにいくつか応募しました。最初に返事をいただいて面接を受けたのがAARでした。
障がい者の自立をサポート
-ザンビアへの短期派遣を経て、ミャンマーに3年間駐在されましたね。
はい。AARヤンゴン事務所は当時、障がい者の職業訓練校の運営とCBR(Community Based Rehabilitation)と呼ばれる「地域に根差したリハビリテーション」支援を実施していました。職業訓練校には洋裁・理容美容・コンピュータ(PC)の3コースがあり、ポリオ後遺症や聴覚障がいがある人、先天的に腕がない人、地雷被害者など、全国から集まった20~30代を中心とする男女合わせて約45人が全寮制で3カ月半、訓練を受けます。私は駐在した2012~2014年は、訓練コース運営の傍ら、最初の年に教室の改築、2年目に研修内容の拡充と職員(指導員)のスキルアップ、3年目は修了生の就労サポートに力を入れました。
ミャンマーは2011年に歴史的な民政移管があり、社会的にも経済的にも変化が生じていた時期です。訓練校では企業と連携した就労支援として、例えば洋裁コースに工業用ミシンを導入して技術研修を行ったり、理容美容コースは調髪に加えてネイルやマッサージなど新しいサービスを導入したり、少しでも修了生の就労率を上げる工夫をしました。
CBR支援事業は、ヤンゴン近郊の貧しい地区に住む障がい者がコミュニティの中で自立して生活していけるように、職業訓練校とリンクした成人の生計活動のサポートのほか、障がい児の就学支援に取り組みました。生計活動では、例えば訓練校の取り組みを踏まえて、洋裁店や理容店、あるいはPC技術を生かした印刷屋の開業支援を行いましたが、そうした小さなビジネスの儲けを元手に石けん製造・販売に乗り出す障がい者グループが生まれるなど、成果を上げました。就学支援では身体障がいがあり、通学を諦めていた子どもたちのために学校側と協議し、難聴の子どもを教室の前列に座らせるなど、ちょっとした工夫をすることで通学できるようにしました。
ミャンマーでは障がい者に対する差別や排斥はそれほど目に付きませんが、「何もできない人々」と思われがちです。訓練校の修了生たちは「自分で稼いだおカネで家族を支えられるようになる。周囲に何かしてもらうだけでなく、自分が家族やコミュニティに貢献できることを知って人生が変わった」と一様に自信を持つようになります。障がい者向けの職業訓練施設は同国で他にあまり例がなく、3カ月半の共同生活は、訓練生たちにとって生まれて初めて自宅以外で仲間と過ごす機会でもあり、年3回の修了式はいつも涙、涙のお別れになりました。
現地にいてこそ見えてくる現実
-ミャンマーから直接パキスタンに転任でしたね。
はい、2015~2017年にイスラマバード事務所に駐在しました。AARはアフガニスタンと国境を接するハイバル・パフトゥンハー州で、水・衛生分野の支援を行っており、私が学んだ公衆衛生を生かせる事業でした。アフガニスタン難民の居住地域の学校や近隣の公立小学校を対象として、教室の整備や机・いすの提供に加え、トイレや手洗い場の建設、井戸の掘削、手洗いの励行の衛生啓発に取り組みました。40年来居住するアフガニスタン難民が通う学校、地元パキスタン人の子どもが通う学校が半々だったでしょうか。とてもかわいい子どもたちでしたが、衛生啓発で校内の清掃をしたとき、集めたゴミを敷地の外にそっくり捨ててしまったんです。掃除とはそういうことだと思っていたのかと思います。困ったような微笑ましいような複雑な気持ちでした。
現地に長く滞在してこそ初めて垣間見える人々の本当の姿にも接しました。学校の教員など女性の自宅に招かれた時、彼女たちが人前で被っていたブルカを家に着くなりさっさと脱ぎ捨て、取り繕わない素顔を見せてくれたことがあります。また、イスラム社会の習慣のせいで女子教育が遅れているような先入観を私自身持っていたのですが、親たちから「本当は娘に教育を受けさせたいが、登下校時の安全への不安、学校の衛生環境の悪さもあって、学校に通わせるのをためらっている」という話を聞かされ、認識を改めたこともありました。これも駐在しなければ分からなかったと思います。
より効果的な支援を目指して
-現在は東京本部でスーダン事業を担当されていますが、どんなことに気を配っていますか。また、AARの良さや、NGOを目指す若い人たちへのメッセージを。
駐在員として、日々の業務を通じて現地スタッフに自分のスキル、支援の考え方などを伝えられたと思う半面、自分たちが取り組んだ支援事業が本当にその地域や人々の役に立ったのかは、すぐに答えが出るわけではなく、時間が経って分かってくることも多いと思いました。
日本に戻ったのは、私たちが実施している支援事業にどれだけ効果があるのか、客観的に検証してみたいと考えたからです。そこで本部事務局のM&E(モニタリング・評価)チームに加わり、AARが世界各国で行っている同種の事業を横断的に分析・検証しています。例えば昨年は、パキスタンやスーダンなどの水・衛生改善事業について、効果を測るための指標が活動地によってどう違うのかを比較し、より有効な指標や事業設計を検討しています。
AARで長く働き続けているのは、常に周囲の人たちに助けられてきたおかげです。それぞれに何らかの志を持った職員が多く、それがAARの雰囲気を創っているのだと思います。NGOの仕事は書類作成や会計業務などが多いので、海外での活動を目指す場合も、そうした社会人としての基礎を身に付けておくと良いですね。英語も多少は必要です。もうひとつ大切なのは、現地の人々、周囲の人々に謙虚に接する姿勢でしょうか。