新理事長 長有紀枝 就任のご挨拶
この度 柳瀬房子前理事長の後任として理事長に就任いたしました長 有紀枝(おさ・ゆきえ)です。就任にあたり、一言ご挨拶申し上げます。
私と難民を助ける会との出会いは今から18年前、1990年の夏です。大学院を出て、外資系企業で働きつつ、当時専門にしていた先住民族にかかわる道を探したいと漠然と考えていた時に、難民を助ける会と出会いました。
五反田に開設していた「ゆうあい塾」で早速、ボランティアの家庭教師をすることになりました。「ゆうあい塾」は、日本語を教える「太陽塾」と並行して、高校受験、大学受験を控えた難民学生を対象とした難民を助ける会の国内事業です。カンボジアやベトナム難民の中学生、高校生に一般教科を指導しているうちに、日本で暮らす難民の方々の窮状を実感をもって知るようになりました。そして、その方々の困難な状況に、様々な方法で、具体的に応えつつ、日本政府に対しては、難民受け入れなどについて積極的な政策提言を行っている難民を助ける会の活動に魅せられ、翌、1991年7月からは、職員として勤務することになりました。
以来、2003年秋まで、カンボジア、旧ユーゴスラビア、アフガニスタン、チェチェンなどでの難民支援・障害者支援、そして地雷対策にかかわらせていただくと同時に、専務理事・事務局長として会の運営にも、微力ながら携わらさせていただきました。
2003年秋に退職後、東京大学大学院の博士課程に在籍し、1995年のスレブレニツァ・ジェノサイド(*1)について博士論文を書きました。1994年春から1995年11月まで、難民を助ける会の駐在員として、旧ユーゴスラビア各地に滞在し、現場近くに居合わせた経験が出発点となりました。
難民を助ける会は今年、創設30年目を迎えます。29年前、相馬雪香会長が、「困った時はお互いさま」「日本の善意の伝統を世界にも示そう」と自ら立ち上がり、柳瀬真初代事務局長(柳瀬房子前理事長の父)と二人三脚で始められた頃とは、NGOが置かれた状況も、大きく変わりました。当時は、宗教的な後ろ盾をもたない、一般の皆様の募金に支えられる組織が生まれたことすら奇跡的な時代であったと思います。
以前は、国際協力活動を行うことそのものが、たとえば、1991年にカンボジアに和平が成立した直後は、カンボジアで学校を再建したり、社会の底辺にいる方々に、政治、宗教、思想に中立な、不偏不党の立場で支援することそのものが、NGOならではの仕事であり、NGOのレゾンデートル(存在意義)でもありました。
しかし現在では、昨今、資金的には下降気味とはいえ、日本のODAは拡充し、カンボジアでは、企業や自治体が社会貢献の一環として学校建設に関わり、そしてイラクではコンサルタント会社や自衛隊も国際協力活動を行っています。
では、今、この時代にNGOとして活動する、というのはどういうことでしょうか。私たちNGOが行う活動は、他の機関や企業が行う活動とどこが違うのでしょうか。
難民を助ける会の原点は、支援活動を通じて、海外の難民だけではなく、日本人の心を開く、日本を世界の孤児にしない、難民を助ける会の活動を呼び水にして、日本の社会に国際協力の大きなうねりを起こす、ということです。
私は、まさにNGOの存在意義が問われる時代であるからこそ、難民を助ける会の原点、相馬会長が基礎を築き、柳瀬前理事長が守り、さらに大きな波にしてきた、この原点を受け継いでいきたいと思います。
どうぞ、柳瀬前理事長同様、ご支援ご協力賜りますようお願い申し上げます。
長 有紀枝(おさ・ゆきえ)
1963年東京に生まれ、茨城県で育つ。早稲田大学政治経済学政治学科卒業。外資系銀行に勤務後復学、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。外資系企業に勤務しつつ、1990年より難民を助ける会にてボランティアを開始、91年より、AARの専従職員となる。
旧ユーゴ駐在代表、常務理事・事務局次長を経て、専務理事・事務局長(00~03年) 。この間紛争下の 緊急人道支援や、地雷対策、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の地雷廃絶活動に携わる。
2004年より東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程に在籍し、07年博士号取得。06年7月より(特活)ジャパン・プラットフォーム(JPF)代表理事。東京大学大学院、青山学院大学大学院等で教鞭もとる。