柳瀬房子 理事長退任のご挨拶
去る年6月10日、いつもご支援をいただいている日本ロレックス社(B.ベイリー社長)より、恒例の「時の記念日コンサート」にご招待いただきました。シタールの演奏を楽しみ、顔見知りの方々と親交を深め、ご紹介いただいたみなさまには難民を助ける会の宣伝(?)に相努めて参りました。
帰り際、明石康元国連事務次長(難民を助ける会理事)が、私の前に歩み寄られ「柳瀬さん、日本の国際協力のために30年近く、本当にご苦労様でした」と、ねぎらってくださいました。まったく予期せぬことでしたので、日頃はドライな私もちょっと胸がいっぱいになってしまいました。
60歳の誕生日を自ら定年と決め、この度、難民を助ける会の理事長を退任致しました。今日までの人生、その半分の歳月を、難民を助ける会と共に生きてこられたことに、感謝の気持でいっぱいです。ありがとうございます。
難民を助ける会のご協力・ご支援者のみなさま、相馬雪香会長をはじめ、役員、顧問そして日頃、事務局でご一緒しているボランティア、国内外のスタッフなど、ほんとうに多くの方々にお支えいただき何とか職務を遂行できたこと、改めて御礼申し上げます。
相馬会長と父(故 柳瀬 真)とのご縁で、会に関わったのは、設立準備委員会からでした。 実家の離れを、会の事務局と決めたか決めないかのうちに、ベトナムや、ラオス、カンボジアの出身者が訪れ、ジャーナリスト、研究者等々、「私も何かお手伝いしたい」と仰り、私の「非日常」生活は始まったのです。
毎日のように、募金の入ったダンボール箱が届けられました。当時の送金は、現金書留が主流。数百通単位でしたので、郵便局はダンボールに入れて配達していたのです。電話は、回線を何本増やしても鳴り止むことはなく、寝不足の日々が続きました。相馬会長の学習院時代のご学友をはじめ、ご近所やPTA仲間が、事務局ボランティアに駆けつけてくださいました。中には、30年経った今でも支え続けてくださっている方々がいらっしゃいます。活動は2、3年で終わるものと思っておりました。まさか30年近く続き、これからも…、と考えますとほんとうに感無量です。
難民問題は、ごく一部の学者や専門家、国際機関で働く方を除き、日本には関係のない「遠い国の出来事」でした。「かわいそう。何とかできないか、お気の毒」と思ってはいても、何もできないのが現実でした。相馬会長は当初から、「難民の方に失礼かも知れないが、これをきっかけに日本人が変わらなくちゃ。日本人の教育が必要です。日本人の心の開国が必要なのです」と、世界と日本の責務を常に訴えられ、私も育ててくださいました。
政治、宗教、思想を超えた中立な団体を作り、皆さまからお寄せいただく募金を、①早く活用する、②悪平等ではなく「良き不平等」を考える、③呼び水になる活動をする、④声を挙げられない人の声を聴くことを大切に、活動してまいりました。
時代が変り、助ける会も日本政府をはじめ、世界の国際機関と協力、協調しながら、活動規模や、内容の充実を図って参りました。 これからの会を担う方々には、脈々と伝えられてきた善意を受け継ぐ「日本のNGO」としての矜持を保ちながら、活動現場において思う存分活躍していただきたいと思っております。
支援を受ける側からも、する側からも「ありがとう」と言われて、難民を助ける会を通じ、私は何と多くの心の財産をいただいたことかと、感謝の気持ちでいっぱいです。
新理事長の長 有紀枝さんは、豊かな感性と、忍耐力と、探究心の旺盛な女性です。助ける会と共に成長した、信頼の置ける方です。天の配剤とはよく言ったもので、後任に彼女が就任したことで、助ける会の「看板娘」は相馬会長、加藤タキ副理事長と共に、長(おさ)理事長と、3人が揃ったことになります。会の活動がより充実した内容となって、皆様のご期待に添える「日本のNGO」として、発展してくれるものと確信しております。
私もまた今後も暫らくは、理事として参画いたします。新理事長には、私同様、いいえ私以上に、みなさまのご厚情を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
心からの感謝を込めてもう一度、申し上げます。ありがとうございました。