TICAD開催中の横浜でシンポジウム:地雷問題の活動家がウガンダから来日
アフリカの未来を支えるために―私たちにできること
AAR Japan[難民を助ける会]は、6月2日、第5回アフリカ開発会議(TICAD V)公式サイドイベントとして、シンポジウム「地雷被害者・元少年兵が作るアフリカの未来~私たち市民に何ができるか~」を開催します。
地雷事故で片脚を失いながらも地雷被害者の支援のために国内外を奔走するウガンダのマーガレット・アレク・オレク氏の講演と、現在AAR南スーダン事務所スタッフとして活躍する元少年兵のジョセフ・ダリオのインタビュー映像を通して、よりよい故郷のために活動するアフリカの人々の想いをお伝えします。TICAD開催中の横浜へ、ぜひお越しください。
マーガレットさんからのメッセージ
2009年3月21日、AARは「地雷・クラスター爆弾をなくそう!子どもサミット」を京都市で開催しました(イオン1%クラブ・AAR主催、高島市共催)。マーガレットさんも来日し、ラオスとカンボジアから招かれた被害者とともに自らの体験を伝えました。また、日本の学生・生徒たちが、地雷・不発弾問題に対するそれぞれの決意や取り組みを発表しました。このときのマーガレットさんのスピーチをご紹介します。
「日本の条約署名は世界への最高の贈り物」私はマーガレット・アレク・オレクです。ウガンダ出身で、5人の子どもと3人の孫(うち2人は双子!)がいます。こんなに美しい日本という国に来られて、とても嬉しいです。2年前にも訪れる機会がありましたが、今回は2年前の訪問時よりもずっと喜びが大きいのです。それは、日本が昨年(2008年)の12月にオスロでクラスター爆弾禁止条約に署名したからです。その日は私の誕生日の1日前でした。私はこれまでにもらったプレゼントの中でも最高に嬉しい贈り物をもらったわけです!これは世界への人道的なプレゼントです。この場を借りて、来日する機会を与えてくれたAARに感謝申し上げます。 ここにいらっしゃる皆さんはもちろん、地雷や不発弾が、戦争で戦闘員を殺傷する以上に、一般市民を傷つけていることはご存じでしょう。この無差別兵器は紛争が終わっても残存し、罪なき人々、特に女性や子どもを殺傷し続けているのです。女性が家事のために畑や川へ出て行くと、そこには恐ろしい武器が眠っています。子どもはその旺盛な好奇心で、つい変わった形の物体を手にとってしまいます。そしてそれが爆発するのです。私はそうした犠牲者の一人です。地雷の犠牲者です。私は右足という犠牲を払いました。今は義足をつけています。それでも私はありがたいことに生きているのです! 42歳の誕生日の直後に襲った地雷事故約11年前の1998年12月22日、私が42歳の誕生日を迎えたばかりの日、私は地雷の事故に巻き込まれました。それは、ウガンダ北部のキトグムという駅から首都カンパラに戻る途中、グルという町に寄って、家族とクリスマスを祝おうというときに起こりました。私はキトグムの町には2ヵ月半しか住んでいませんでした。新しい仕事が見つかって子どもたちと移り住んだものの、内戦で危なくなったからです。私はこれ以上治安がひどくなる前に町を出ようと決心し、仕事も1週間休んでいました。 不幸にも、その日の夜明けに、私たちは地雷を埋めた反政府軍と顔を突き合わせることになりました。私が乗ったバスは出発して30分もたたないうちに爆発しました。バスのタイヤが地雷を踏んだのです。爆発音はタイヤがパンクした音のようでした。しかしその後銃声が聞こえ、私はこれが反政府軍の待ち伏せであったことを知りました。バスが止まると乗客はすぐに藪に身を隠しました。でも私は走れませんでした。爆発で右足を負傷したからです。私は走ろうとして初めて、自分の右足があるべきところに、ただの肉の切れ端があることに気づいたのです。 ひたすら死んだふり反政府軍の銃弾が飛び交う中、私はなんとか大破したバスから逃れて、道端の背の高い草の中に身を隠しましたが、そこへ真っすぐ反政府軍の兵士がやってきて、私の腕時計を奪いました。もう一人がそのすぐ後にやってきて、私の身につけているもので目ぼしいものがないとわかると、私の服を脱がそうとしました。彼は私のジーンズが欲しかったようです。血まみれだったのに! 私の心の声が教えました、絶対に眼を開けてはならないと。この兵士は私を4回もひっくり返しましたが、その間も私は死んだふりをし続けました。私が動かないと知ると、彼は私の傷ついた右足を銃の台尻でつついて、去って行きました。 政府軍の部隊が爆発音を聞いて現場にやってきました。しかし反政府軍は略奪品(私のハンドバッグも含め)を持って逃げ去った後でした。兵士が私を含めた負傷者を近くの診療所に連れて行ってくれましたが、そこでの治療はひどいものでした。あるものでなんとか応急手当てを受けた後、救急車もない中、80キロ先にある聖メアリー病院というミッション系の病院へ、牛を運ぶトラックに乗って行ったのです。病院にたどり着いたのは夜7時、爆発から9時間が経っていました。私は麻酔を打たれ、眠りに落ちました。 家もお金も仕事も友人も失った後に得たもの手術の後、2ヵ月間の入院を経て、私は退院しました。そして、障害者としての人生をスタートさせたのです。退院後、私は一人では何もできないことがわかり、なんでも人に頼るようになりました。家に戻っても、そこには誰もおらず、私の子どもたちは3つの家に散り散りになり暮らしていました。私は姉とその夫の家に9ヵ月間世話になりました。その間、リハビリも続けました。また、たくさんの難題にも直面しました。親として、まだ学齢期にいる子どもたちを養っていかなければならなかったからです。 けれども、同時にこの人生の厳しい現実は、私を強くもし、立ち直る力を与えてくれたのです!そして、ものごとの悪い面の中にも良い面を探すよう教えてくれました。治療のために病院に通う中で、同じ地雷被害者に出会い、お互いを励まし合うようになりました。ここで私は、患者同士がお互いの助け合いをどんなに必要としているかを実感しました。 地雷対策活動家として生きる辛く耐えがたい1年の後、私は社会復帰しました。そして2000年の9月、スイスのジュネーブで行われた地雷禁止条約の第二回締約国会議で、初めてICBL(地雷禁止国際キャンペーン)と出会ったのです。私は、地雷事故を生き延びた者として、祖国に残る何千人もの地雷被害者のために、行動し声をあげていくことが最善の道だと感じたのです。以来、私は対人地雷とクラスター爆弾の禁止のために活動を続けてきました。祖国ウガンダでは、ウガンダ地雷被害者協会(ULSA)を立ち上げ、代表を務めています。 障害とともに生きることで、私は多くを学びました。思いやり、忍耐、寛容、そして何よりも、自立することを。私はまた、すべてのできごとを、当たり前だと思わなくなりました。人生には悪いことよりも、良いことがたくさんあることあるのだと。それは、どんな物質的な豊かさにも勝るものです。生きている限り、希望があるのです! 私の話を終えるにあたり、ここにいる皆さん一人ひとりにお願いしたいことがあります。皆さんのできる範囲でAARや他の団体の活動を応援してください。また、まだ地雷とクラスター爆弾禁止条約に署名していない国が署名するように働きかけてください。未署名国は、ミャンマー(ビルマ)、インド、ラオス、ネパール、スリランカ、ベトナム、北朝鮮、韓国などの国々です。皆さん一人ひとりがAARと協力すれば、私たちは必ず目標を達成することができます。日本政府の皆さま、クラスター爆弾禁止条約に署名していただき、感謝いたします。ただ、(署名だけでなく)すぐに批准してください。ご静聴ありがとうございました。 |
【このお知らせに関するお問い合わせ】
担当:穂積・大久保
TEL:03-5423-4511