「直江 篤志さんをおくる会」のご報告
9月15日(土)、「直江 篤志さんをおくる会」を国際文化会館(東京都港区)で開催しました。AAR Japan[難民を助ける会]ザンビア・メヘバ事務所駐在代表だった直江篤志さんは、休暇で訪れていたトルコでマラリアを発症し、7月25日(日本時間26日)にご逝去されました。
おくる会には、直江さんのご家族やご友人、支援者の皆さま、東日本大震災復興支援活動の中で直江さんとともに活動した福祉施設の方々やJICAの皆さまなどがご参列くださり、AARのボランティアや役職員、元職員なども国内外から駆け付けました。
AAR会長の柳瀬房子、メヘバ事務所の現地職員のリリアン・ナムトゥエ、東京事務局の粟村友美の3名が弔辞を読み、直江さんの支援にかけた思い、優しさやユーモア溢れるエピソードを紹介しながら、直江さんへの深い感謝の気持ちを述べました。また、ご支援者の皆さまをはじめ多くの方々から、ご弔電やメッセージが寄せられました。
会場には現地での様子や直江さん自身が撮影した写真を展示し、ザンビアや東北で撮影された直江さんの映像もご覧いただきました。約150名がご参列くださり、涙を流しながら、ときに笑顔で、各々の直江さんとの思い出を語り合いました。直江さんのお人柄が偲ばれる、とてもあたたかな会となりました。
ご参列くださった皆さま、直江さんの訃報に際しご弔意をお寄せくださった皆さまに心より御礼申し上げます。
弔辞
弔辞 難民を助ける会 会長 柳瀬 房子 |
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直江篤志さん 44歳のあなたが亡くなられて、もう2ヶ月近くになります。 季節は、猛暑から初秋へと移り変わりました。難民を助ける会、AARの役職員は、この間、あなたのことを思い出し、偲ばなかった日はありません。 思えば、あなたがこの世に生を受けて、4、5歳だったころ、インドシナ難民を助ける会が、設立されました。丁度、ベトナム、ラオス、カンボジアといったインドシナ半島の国々から、政変に伴う、急速な社会主義への移行と人権の抑圧を嫌い、多くの人々が自由で安全な場所へと、国を離れて海外へ向かいました。その数約160万人。想像を絶する危険を伴いながらも、希望を支えに、難民となって祖国を逃れたのでした。 AARは設立から満5年目に世界の難民問題に対応しようと、難民を助ける会と名前を変えました。そして最初に取り組んだのが、内戦と地雷を逃れて、隣国であるザンビアに避難したアンゴラ難民たちへの支援でした。 1984年 ザンビアのメヘバ難民居住地で活動がスタートしたのです。AARにとりまして、メヘバでの活動は、職業訓練、子どもの教育、医療などの活動を中心に、約20年間続きました。アンゴラの内戦終結により難民の帰還が始まり、そして2004年3月に一旦、活動を停止したのです。 しかし、それから15年を経た今でも、メへバには、様々な事情で、帰還できなかったアンゴラ人や、ルワンダ人がまだ1万人近く居住しており、さらに、コンゴ民主共和国、ブルンジ、遠くはソマリアなどからの新たな難民がすでに1万人ほども移動して来ました。そこで、AARはまたメヘバでの活動を再開し、駐在代表として期待を込めて直江さん、あなたに赴任していただいたのでした。 メへバの面積は東京23区と同じくらいの広さです。初期は、3分の1の地域でした。その中で、以前からの難民は、移転を強要されています。国の移住統合政策に翻弄され、大変不便な再開発地域で、ふたたび苦労を余儀なくされたのでした。 直江さん、あなたから最後にいただいた今年6月のレポートでは次のように記してありますね。 「昨年(2017年)6月AARのメへバ事務所で働くアンゴラ人職員はとても張り切っていました。彼は現地統合地区に土地を手に入れて家も建てました。1辺が200メートル以上もある広い土地。同じ敷地内には井戸だってあります。他の移住者より好条件です。しかし家を建ててから1年以上たった今も難民居住区に住んだまま一向に引っ越す様子はありません。僕は彼がなぜ現地統合地区に移らないのか、ずーっと気になっていて、理由を聞こうと思っていましたが、そんなことをいうと何だか暗にプレッシャーをかけるみたいで今になっても聞けません」 そして、あなたのレポートはさらに、 「元の居住区を追われた人々は、破れて、かろうじてつながっている衣服、底の剥がれた靴、ひび割れだらけの足、そして何よりも笑わない子どもたちと...続きます。生きる希望も何もない人々に、消え入りそうなろうそくの火を見ているようだ」 と続き、 「僕たちができることは、彼らのともす火を消さないように支えること」 と結んでいます。 AARはこれからも、彼らの、生きようとしている灯が消えないように、何とか活動を続けてまいりたいと思います。 あなたの先輩たちはメヘバで、いろいろなことをやってきました。 難民を助ける会は、他国のNGO、国際機関、そして日本政府の協力も得て、職業訓練、井戸を掘り、学校や図書館をつくり、リヤカーなどに一緒に取り組みました。 1985年から年1回、18回にわたりご支援くださった歌手の森進一さん、黒柳徹子さんが中心となって開催した「じゃがいもの会」チャリティコンサートの浄財で建設し、運営した「じゃがいもクリニック」。そして難民居住地での図書館、これは当時、首都ルサカのザンビア大学に次ぐ2番目の蔵書量を誇る図書館でした。日本中から英語の本を集め、足りない分はイギリスでも集めて補充しました。 私は、直江さんから、その建物は、今でも倉庫や集会場として役立っているとの写真を見せていただき、「是非メヘバに来てください」と言われて、そのつもりでいましたが、直江さんが亡くなられた今、すっかり気力がそがれてしまいました。 先日、お母さまのお便りに、「岡山で再会した息子は、苦しみから離れ、とてもいい顔をしていました。自分の志に向かって奔り、多くの仲間と知り合って充実の年月を重ねることができたことを、本人はもとより私たちも満足しております。大変お世話になりありがとうございます」と認めてくださり、思わず胸がいっぱいになりました。 それで良かったのか、もっと何か手立てはなかったのか。反省もしきりです。AARとして直江篤志さんという優れたリーダーを失ってしまったのです。 この40年の間、ザンビアでは、古賀茂さん、隈井美佳さんを失い、あなたを含め5人の大切な仲間が、海外での病気や事故で逝ってしまいました。 なぜ、「私ではなく、あなたが逝かねばならなかったのか」ということを常に記憶に刻み、その分かれ道で、ふと立ち止まり、それぞれが、自分の生き方を全うしましょう。 そして、私どもは、マラリア対策、危機管理にはまだまだ多くの宿題が残っている現実に直面してゆかねばなりません。 東日本の被災地支援や、東京事務所で、私が見た、あの含羞を帯びたあなたの笑顔は、いつまでも私たちの胸に残るでしょう。安らかにお休みください。どうぞこれからも会の活動を見守ってください。直江篤志さん、ありがとうございます。 |
弔辞 ザンビア・メヘバ事務所職員 リリアン・ナムトゥエ(Lillian Namutowe) |
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メヘバ事務所を代表して、直江さんにお別れの言葉を述べたいと思います。 直江篤志さん、私たちはまだあなたが休暇の途中にいるかのように感じており、あなたが私たちのもとから去ったという悲しみをどう表現していいのか、言葉が見つかりません。 あなたは、7月3日に戻ってくるよ、と言って休暇に入りました。 でも、それがあなたと交わした最後の言葉になってしまいました。それから数日後、あなたがトルコの病院にいて、話せない状態であることを聞きました。 いつも直江さんが口癖のように言っていた言葉で、「No」を意味する現地の言葉「Awe」という言葉も、聞けないのだと思いました。 直江さんは、メヘバにいたころ、よく住民とコミュニケーションをとっていました。元難民のアンゴラ人とザンビア人が住む地域で、彼らの交流を促すためのレクリエーションイベントを実施したとき、あなたは私たちがやったことのない新しい競技(飴食い競争/障がい物競争)を提案してくれましたね。参加した人たちも私たちもみんな、とても楽しんだことを覚えています。 また、井戸から汲んだ水の運搬が楽になるようにと、リアカーの製作を提案してくれたこともありました。 私に対しては、カメラの使い方を教えてくれましたね。そのレッスンの初日に、少なくとも300枚は写真を撮るように、と、あなたは私に言いました。そこで私は負けじとそれ以上の枚数の写真をとり、それをあなたに見せると、「リリアン、これは撮りすぎです」と、私をみて笑って言いました。その日から、私を「カメラウーマン」と呼ぶようになったことを思い出します。 あなたは、メヘバに住むアンゴラの元難民や、移り住んだザンビアの人びとの生活がよくなるようにと、とても熱心にそしてポジティブに仕事をなさっていました。あなたは決して多くを話す人ではありませんでしたが、あなたのような、社交的で理解のある人は他にはなく、われわれスタッフの父であり、叔父であり、また兄や友達のような人でした。 ザンビアの人びとの生活を変えたあなたの努力は、ずっと忘れられないものとして生きていくのだと思っています。私たちスタッフにとっても、あなたが残した功績は本当に大きいものでした。 私たちと一緒にいてくれてありがとう。ずっと忘れません。安らかにお眠りください。 ありがとう。ありがとう。 |
弔辞 東京事務局 ザンビア事業担当 粟村 友美 |
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直江さん 送る会の開催にあたり、謹んで直江篤志さんへのお別れの言葉を申し上げます。 直江さん、今日ここで弔辞を読まなければと考えただけで、私はこのところ毎日泣いてしまっていました。直江さんがこの様子を見ていたら、「粟村さんにそんなしんどいことはさせられないので、僕が代わりにやりますよ」と、なんだか本末転倒なことを言ってくれたんじゃないかと思います。 直江さんはいつもそういう人でしたね。ほかの人が大変な思いをするくらいなら、自分が引き受けようと、いつもしてくれていました。ザンビアの事業でも、私が東北の事業を少し手伝っていた時も、その場にいる人の中では大体直江さんがいつも一番仕事を抱えていて忙しいのに、いつも口癖のように「じゃあそれ僕やりましょうか」と言ってくれました。東京本部で仕事をしているとき、いつも遅くまで、背筋をぴっと伸ばしてキーボードをたたいていました。残業中でも、声をかければ絶対にこちらを振り向いて、うん、うんと聞いてくれました。直江さんがいてくれる日は残業していてもあまり苦じゃありませんでした。 私がルサカに駐在員として赴任してすぐの頃、現地にいた駐在員が新しいメンバーばかりで、業務が回らず不安ばかりでした。直江さんはそれを心配して、すぐに2か月の長期出張に来てくれました。ちょうど直江さんのお父様が体調を崩されていた頃で、ルサカのことは心配しないで、帰国してくださいと何度も話したけれど、大きなイベントや業務を抱えていたチームのメンバーのことを心配して、予定していた出張期間が終わるまでずっと一緒にいてくれました。休みの日には私たちに美味しいものを食べさせたいと言って、スーパーで豚骨をわざわざ分けてもらって、スープからラーメンを作ろうとしてくれました。結局鍋ごと焦がしてしまって大変なことになりましたが、それでみんなで大笑いしたことで、すごく気が休まったのを覚えています。直江さんの優しさと、何もかもを笑いに変えてしまう朴訥としたユーモアに、あのころどれだけ救われていたかわかりません。 メヘバに駐在員として赴任してからは、また違う一面を見せてくれましたね。直江さんはうわべだけを取り繕うような支援や、仕事の仕方に対してはとても厳しくて、そういうことをしようとする人には、たとえ現地行政機関のカウンターパートであってもはっきりとそれは違う、と伝えていました。そして、支援対象である元アンゴラ難民の方たちに対しても、時には厳しい励ましの言葉も伝えていました。同時に、元アンゴラ難民の人たちの苦しい境遇やさみしさをじっと見つめて、深く理解しようとしていましたね。多くは語りませんでしたが、直江さんが彼らの今後を本当に心配しているのはとてもよく伝わってきました。 直江さん、私は、直江さんみたいな優しく、温かく、楽しい同僚を持って本当に幸せでした。メヘバにいても、どこにいても、直江さんは毎日のように私たちの話題に出てきます。それはこういうことがあったからではなく、ずっと前からいつでもそうでした。世界中の駐在事務所で、いつも直江さんのことをみんなが思っています。こんなにみんなに親しまれているスタッフは、直江さんのほかにいないんじゃないでしょうか。 直江さんがこれまでくれたすべての思い出に、心から感謝しています。直江さんがやりかけたこと、私たちはちゃんとやり遂げたいと思うので、直江さんはしっかりそれを見ていてください。そういう形で、私たちとずっと一緒にいてください。 |
メヘバ事務所では、直江さんの意向で導入された「No late award」というシステムがあります。出勤時に1秒でも遅れずに来たら月約500円が給与に加算される仕組みです。
雨季で出勤が遅れることを懸念した現地職員が、雨季の時期は遅刻を考慮してくれと直江さんに相談しました。(ザンビアでは雨のために出勤が遅れる人ががくさんいます)。直江さんは、彼に「雨季だろうが関係ない。仕事にプロ意識を持て」と、それだけ伝えました。その後、職員は雨に撃たれそうな日は早めに家を出るなど工夫をし始めました。
メヘバ事務所では、現地職員が遅刻するケースはほとんどありません。仕事への意識を向上させ行動変容を促したこのエピソードは、直江さんの大きな業績です。(メヘバ事務所駐在員 後藤由布子)