ハイチ事務所
丸山 徹也
「前に進むために、忘れずにいよう。」大震災から2年のハイチ
2010年7月よりハイチ駐在。大学で建築を学び、卒業後ポルトガルと日本の建築事務所に勤務。家具会社勤務を経て難民を助ける会へ。(神奈川県出身)
記事掲載時のプロフィールです
2010年1月12日の大地震から丸2年が経ったハイチ共和国。東日本大震災から1年になろうとする日本。遠く離れた2つの国ですが、地震の被害から立ち上がりつつある国として、けっして無関係ではありません。ハイチの2年間を駐在員の丸山徹也が振り返ります。
2010年1月12日―ハイチ大地震
地震が起きた午後4時53分、アリスティドさん(当時25歳)は娘のダックスイーカちゃん(当時1歳)と家の中にいました。グドゥグドゥ(ハイチの人は地震の揺れをこう表現します)という音とともに建物が大きく揺れたそうです。揺れが収まり、妻のダッケンラブさん(当時19歳)や近所の人の安否を確認したあと、アリスティドさんは貴重品を持って大統領府前広場に避難しました。広場は人で埋め尽くされ混乱状態でした。布団もない中、1週間は路上で眠り、その後倒壊した家々から集めた木材、トタン板や布でテントを作ったといいます。
地震から2年たった現在も、アリスティドさん一家は大統領府前広場の避難民キャンプで生活しています。「地面がむき出しなので雨が降ると水が溜まり、水が引くまで待たなくてはいけません。」アリスティドさんはこのキャンプで生まれた次女、ウッドミーヤちゃん(1歳)を抱いて説明してくれました。この避難民キャンプには現在も1,500以上の家族が住んでおり、ウッドミーヤちゃんのようにこのキャンプで生まれる子も多いそうです。
2011年3月11日―東日本大震災
東日本大震災の日、難民を助ける会のハイチ事務所に駐在していた私は、ハイチ人の知人からのメールで目が覚めました。「日本で地震が起きたようだがお前の家族は大丈夫か?」。私は彼が何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。しかしニュースを見ると、壊滅した町、津波で流される車などの映像が繰り返し流れており、私は目を疑いました。日本の自宅に電話をしても繋がりません。遠いハイチの地にいて自分の国を助けることができない状況に、もどかしさを感じました。
しかし、多くのハイチ人が私の家族や日本の状況を自分のことのように心配してくれて、私の気持ちは変わりました。私はハイチの人に必要とされている、震災から立ち上がろうとするハイチの人たちのために、私にはここですべきことがある、と再認識しました。
2012年1月12日―ハイチ大地震から2年
2012年1月12日時点で、ハイチではまだ50万人以上の被災者がテントで生活しています。数ヵ月後に訪れるハリケーンの季節に備えて、テントで暮らしている人々はもっと安全な住居に移る必要があります。
2011年の9月ごろからポルトープランス市内に点在する避難民キャンプの撤去が行われてきました。キャンプから移動する費用として、一家族あたり20,000グルド(約35,000円)が支給されます。しかしこの金額では半年分の部屋を借りるのがやっとです。都市部に住めない人たちは、親戚の家に住まわせてもらうか、郊外の別のキャンプに移動するだけで、問題の根本的な解決には至っていません。
しかし暗いニュースばかりではありません。昨年5月のマーテリー新大統領就任以降、電気の供給が安定し、街には街灯が増え、被災後閉店していたお店が再開し始めました。瓦礫も少しずつですが撤去され始め、ゴミも定期的に収集されるようになっています。2010年の冬には想像できなかったクリスマスツリーやイルミネーションも、昨年末にはあちこちで見かけました。灯りに照らされた街を見ていると、少しずつですが復興が進んでいるなと感じます。
そして2012年3月11日―東日本大震災から1年
もうすぐ東日本大震災から1年になります。そしてハイチに震災2年後の日が来たように、日本にもその日が訪れます。震災2年後の日本はどうなっているのでしょうか。ハイチでも日本でも、復興への道のりは決して平坦ではありません。しかし覚えていてください。カリブ海に浮かぶ島国で、日本と手を携えてその道のりを歩んでいる人々がいることを。
An N Sonje Pou N Vanse.
ハイチクレオール語で「前に進むため、忘れずにいよう。」