東日本大震災:薄れぬ記憶、戻らぬ故郷
人と人とをつなぐ活動
2011年3月11日に発生した東日本大震災から6年が経とうとしています。しかし、今なお避難生活を余儀なくされている方は約13万人にも上っています(復興庁:2017年1月発表)。AAR Japan[難民を助ける会]は2016年度も引き続き、被災者の孤立防止や体力維持、ストレスの緩和を目指して「マッサージ&傾聴」「手工芸教室」「昼食交流会」などを64回実施。1201人の方に参加していただきました。
岩手県では大槌町で活動を継続しています。大槌町は、津波で市街地全体が流され消失する甚大な被害に見舞われました。6年という長い時間が経過しましたが、未だ半数以上の町民が仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。公営住宅も徐々に完成していますが、津波で壊滅状態となった地区では、住宅建設の前提となる盛土工事や高台造成の目途がやっとたった状況で、町民全員が仮設を出て「自宅」に移動できるのはまだ2年先という状況です。
これだけの時間が経ってもなお、津波に襲われたときの壮絶な体験の記憶に苦しむ方もたくさんいます。「当時は自宅の2階に避難していて、『助けて』と言いながら目の前を流されていく隣のおばあさんと目があったの。でもどうすることもできないでしょう...」と話す80代の女性。娘たちはリフォームした自宅に戻りますが、女性は当時のことを思い出したくないと、自宅ではなく2年後に完成する公営住宅に行くことを決めました。また、仮設を出て公営住宅に引っ越すことができたものの一人で暮らす別の女性は、「とても寂しく、津波のことを思い出すと寝られない」と訴えます。
そんな辛い記憶を抱えながらも、AARが実施している仮設の談話室での交流活動に参加すると、「こうして仲間とお話しする機会がとても楽しみなの」と笑顔を見せてくださいます。こうした交流の場は、仮設を出た方と残っている方がつながる場にもなっていて、被災者の方々を少しでも癒し、被災者同士のつながりを保つために必要な活動だと改めて感じています。
懸念されるコミュニティの分断
福島では、南相馬市、川俣町、二本松市、三春町、葛尾村、いわき市といった原発事故避難者が多い地域の仮設住宅などで活動を行っています。現地では復興公営住宅が完成ラッシュを迎え、また多くの放射能汚染地区で避難指示が解除されて、仮設住宅を退去する方が増加し、まさに大移動の真っ只中にあります。一方でまだ公営住宅が完成していない方や、住宅資材や人材不足のため自宅の再建が遅れている方は仮設住宅に残らざるをえない状況にあります。仮設を訪れると、取り残された方々の不安そうな表情が印象に残る一方、真新しい復興公営住宅の集会場には足を運ぶ人が少なく、交流の少なさが気にかかります。移住や帰還による、6年間仮設住宅で築き上げてきたコミュニティの分断や、自宅に戻る高齢の親と避難先に移住する子の世代間の分断という事態があらわになっています。
戻らぬ、戻れぬ故郷
福島県では今年3月末、帰還困難区域(地図中ピンクで示された区域)以外のほとんどの地域で避難指示が解除されますが、傾聴活動では、どこにも行き場のない怒りや悲しみの声が多く聞かれます。
浪江町から南相馬市の仮設住宅に避難しているある女性は、避難指示が解除されても浪江町に帰還する人はほとんどいないと指摘、自身も避難先にそのまま移住するつもりだといいます。「誰だって住み慣れた故郷には帰りたい。でも、原発事故で嘘をつき続けている政府や東電が信用できない。あの放射能の黒い土嚢袋が置きっぱなしの風景を見たら帰る気持ちも萎える」。また、同じく浪江町から二本松市の仮設住宅に避難している80代の女性は怒りを抑えて静かに語りました。「まだ仮設に来る前、避難所で東電の幹部が『必ず放射能を全部掃除して元の故郷に戻しますから』と約束していたことをつい昨日のことのように覚えている。よくも口先だけのことを言えたものだ」。
同じく3月末に避難指示が解除される川俣町山木屋地区から避難している男性もこう話します。「放射能の入った土嚢袋の横で米を作っていいよって言われたってなあ。売れると思っているのかな?福島の田舎の良さ、きれいな水とそれが生み出すお米、山の恵みの山菜、木の実、川魚、キノコをいただくという生活は補償金じゃ買えないんだよね」。故郷に戻り機械を購入するなどして農業を再開するためには1億円もの多額の費用がかかるといいます。「そうまでして農業をやるって人はいるのかな?まして帰るのは高齢者ばかりでしょ」。
避難者の数は減っても...
被災者の方のお話を伺うと、放射能汚染区域への帰還が解除されることによって数字の上では避難者が減少する一方で、「世代間の分断」「帰還地区の高齢化と人口流出」「住民不在の帰還政策」「放射能問題と農業再建」など1年前に叫ばれていた問題は解決どころかむしろ悪化し、それに加えてコミュニティが分断されていく現実がみえてきます。
このように問題山積の状況ですが、これからも新たに移住した先、または取り残された仮設で被災者が孤立しないための「つながる」支援を継続し、皆さんとともに希望の光を手繰る努力をしていきたいと思っています。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
仙台事務所 大原 真一郎
製造メーカーでの勤務を経て、2011年8月より現職。仙台を拠点に岩手、宮城、福島の被災地に毎日のように足を運び、復興支援を行う。宮城県仙台市出身