ザンビア:難民が難民でなくなること
ザンビア北西部州のメヘバは、国内最大の難民居住区の1つ。2002年に約30年続いたアンゴラ内戦が終わり、ザンビアに身を寄せていたほとんどのアンゴラ難民が帰還しました。しかし、さまざまな事情で同国に残ったアンゴラ人が1万人近くいます。そうした元難民と地元住民がともに暮らす「現地統合地区」でのコミュニティ形成支援について、ザンビア駐在員の直江篤志が報告します。
「戦争が終わったと聞いたとき、はじめはアンゴラに帰ろうとしました」
草木が生い茂る、何の変哲もない広大な森。その中にぽつんと立った赤土の干しレンガの家が、強い日差しをさえぎり、真っ黒な影を落としていました。家主は50代のアンゴラ人女性。軒下で低い丸太の腰掛けに座り、淡々とした表情で話しました。
「でも、30年以上経った今、私が生まれ育った場所には家族も家も、何も残っていないだろうと、とどまりました。そのまま住み慣れたザンビアに残った方がいいと思いました。現地統合政策で土地がもらえるというので申し込んで、ここに住み始めました」
ザンビア北西部州メヘバには難民居住区があり、それに隣接して、過去に難民として入国したアンゴラ人とルワンダ人、そして新天地を求めるザンビア人が混ざり合って暮らす現地統合地区(Local Integration Area)と呼ばれる特別な場所があります。ザンビア政府と国連は、2014年より、難民のステータスを失っても在留を希望するアンゴラ人とルワンダ人のために土地を準備し、母国のパスポートの発給と永住許可を与える政策を始めました。
「難民」でなくなったことで、失ったもの
彼女の土地は、昔住んでいた難民居住区から10キロほど離れ、一見しただけでは周りに人が住んでいるのかどうかすら分からない、世間とは完全に隔離された場所です。移住のために国連が支給したのは、家屋用のトタン屋根と、それを支える柱2本。2014年、彼女は3人の子どもとともに住み慣れた難民居住区を離れ、ここで新しい生活が始まりました。まずはテントを張って仮住まいをしながら、森の草を刈り、木を切り倒して整地しました。そして、敷地の赤土を掘り起こして干しレンガを作り、家を建てました。さらに、くわで耕して畑を作り、自給のためのトウモロコシやキャッサバを植えました。生活に必要な水は、毎日4回、歩いて30分ほどの場所にある井戸に汲みに行きます。
難民居住区から出た彼女はもう難民ではなく、永住を許可された一般のアンゴラ人と同じです。彼女が移って来たばかりのころは周囲に誰も住んでおらず、不安を感じることもありましたが、今ではほかの家族の移住も少しずつ進み、同じ井戸を使う人同士で井戸周辺をきれいにしたり、外で農作業をしているときに近所の人と顔見知りになったりして、少しずつですが、人付き合いをするようになりました。
彼女が昔住んでいたメヘバ難民居住区には今、コンゴ民主、ブルンジ、ソマリアなど、2000年代に入ってからやって来た「現役の」難民たちが1万人ほどいます。しかし、現地統合地区への移住政策が始まって4年以上経った今も、難民居住区に残っている「元難民」のアンゴラ人やルワンダ人は難民の数と同じくらいたくさんいるのです。
それには理由があります。1世帯につき5万平方メートルの土地が与えられるとはいえ、数十年住み慣れた家を手放し、これまで築いてきた隣人同士の友情や絆を断ち切り、歩いて数時間もかかる、遠く離れた場所に移り住まなければならない。移る先は彼ら自身が感傷を込めて「bush(ブッシュ)※」と呼ぶうっそうとした森です。
難民が難民でなくなるのは、ときに残酷です。
※bush:未開拓地
「世界難民の日(6月20日)はメヘバのアンゴラ人が集まって出し物をやるんです」
昨年(2017年)の6月20日の直前、AARのメヘバ事務所で働くアンゴラ人職員はとても張りきっていました。彼は現地統合地区に土地を手に入れて、家も建てました。1辺が200メートル以上もある広い土地。同じ敷地には井戸だってあります。ほかの移住者よりも好条件です。しかし、家を建ててから1年以上経った今も難民居住区に住んだまま、一向に引っ越す様子はありません。僕は、彼がなぜ現地統合地区へ移らないのかずっと気になっていて、理由を聞こうと思っていましたが、そんなことを言うとなんだか暗にプレッシャーをかけるみたいで、今になっても聞けていません。
元難民の、寂しそうな目に映るもの
世界難民の日当日、難民居住区の中心地、36番通りにある小学校の校庭で記念イベントが開催されました。ルング大統領が来るという情報も流れ、居住区内のデコボコになっていた道路が直前になってきれいに整備されていました(結局大統領は来なかったのですが、道路がきれいになったことは喜ぶべきことです)。内務省難民局をはじめとする各省の関係者やUNHCRをはじめとする国連関係者、そしてAARも招かれました。
その来賓席に向けて、「現役」の難民のグループたちは母国の誇りを背負い、国旗をモチーフにした民族衣装を身にまとい、山羊皮で作った太鼓の音とともに陶酔した表情で踊りや歌を披露しました。若者のグループたちは国籍や伝統にとらわれずお揃いのTシャツを身に着けて、重低音の効いた流行りのラップミュージックに合わせて踊りました。会場の周りにはポップコーンやドーナツ、揚げサツマイモや茹で落花生を売る露店もたくさんやって来て、賑わいを見せていました。
イベントは終わりに近づきましたが、結局、「元難民」のアンゴラ人の出番は用意されていませんでした。彼らはやはり、もう難民ではなかったのです。張り切っていたアンゴラ人の職員は大勢の観客の中に立ち、「現役」の難民の生き生きとした姿をさびしそうな表情で眺めていました。
それどころか、イベントの最後の方には政府関係者から「元難民」は早く現地統合地区へ移るようアナウンスがありました。
消え入りそうな火を、せめて灯し続けられるように
難民になど、誰だってなりたくなかったはずです。でも、難民が難民でなくなると、もう特別扱いはされず、また新たな疎外感に苦しむことになります。
ビリビリに破れてもかろうじて繋がっている衣服、底の剥がれた靴、ひび割れだらけの足、真っ黒な指、そして何よりも、笑わない子どもたち。難民居住区でも目することがない光景です。現地統合地区に住む人たちと話していると、その表情から悲壮感も、怒りも、また喜びも肌に伝わってきません。彼らの視線はどこかあさっての方向を向いていて、心にぽっかり穴が空いているような、それでいて風で消え入りそうなロウソクの火を見ているような、儚い印象を受けるのです。
彼らは難民ではなくなりました。そして新たな生活の場を手に入れました。でもそれは、嬉しい始まりでも、悲しい始まりでもないのです。僕たちができることは、彼らの灯す火を消えないように支えることだと思います。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
ザンビア・メヘバ事務所 直江 篤志
2017年3月より現職。企業に6年間勤務した後、米国の大学に留学。その後、青年海外協力隊に参加し、理数科教師として2年間ザンビアに赴任。帰国後2011年10月AARへ。趣味は海外長編小説を読むこと。岡山県出身