ザンビア:難民 それぞれの物語4 ~ギブソンさん~
2018年1月、AAR Japan[難民を助ける会]の活動地であるケニアとザンビアを訪問した、広報部長の伊藤かおり。連載4回目は、半世紀にわたり難民として暮らす男性を紹介します。
難民問題が報道されるのは、多くの場合、紛争などが勃発して大量の難民が発生したその時に限られます。難民支援に関心が集まるのも、報道があった時に限定されざるをえません。しかし、ひとたび難民になった人が、そうでなくなる日を迎えるまでに要する期間は、平均で17年。中には、数十年も難民であり続ける人も珍しくありません。報道されなくなってからが圧倒的に長いのです。ザンビアのメヘバ難民居住地で出会ったのは、そうした人たちです。
5歳から難民として暮らす
56歳になるチングンベ・ギブソンさんは、アンゴラの出身です。「ザンビアに来たのは1966年。5歳の時だよ」。実に半世紀もの歳月を、メヘバで難民として生きてきました。今は地域のグループリーダーを務めており、周囲から厚い人望を寄せられています。66年と言えば、内戦はまだ始まっていません。家族に一体何があったのでしょうか。「何がって、戦闘だよ。アンゴラはずっと紛争が絶えなかったんだ」。
ギブソンさんの生まれ故郷、アンゴラは、1960年代から宗主国ポルトガルからの独立をめぐる武力紛争が活発化し、1975年に独立を果たすや否や、今度は長い内戦に突入しました。終結したのは2002年。40年にもおよぶ紛争に、ようやく幕を閉じました。その間に周辺国に逃れた難民は45万人、そのうち20万人がザンビアへ。1971年に開設されたメヘバは、同国にいくつか設けられたうちの最大の難民居住地です。多いときは4万人以上のアンゴラ人が避難生活を送っていました。ギブソンさんの家族は、独立を巡る戦闘が激化し始めた時期にザンビアにやってきたことになります。
そのザンビアも、イギリスから独立したのは1964年です。東京オリンピック開催の最中のことで、開会式では英領北ローデシア代表として入場した選手が、閉会式ではザンビア共和国の代表として真新しい旗を掲げて話題になりました。アフリカ各国が植民地を脱しようとしていた、輝かしいとも不安定ともいうべき時代、独立間もないながら、ザンビアは地域の安定をはかろうと、アンゴラをはじめアフリカ各国からの難民を積極的に受け入れていました。
AARがメヘバでの最初の活動を始めたのは1984年です。井戸を掘り、橋を作り、診療所を開設し、職業訓練やマラリア予防など、ここで人々が少しでも安定した暮らしができるよう、支援を続けました。最後の活動は、アンゴラに帰還する人々のための地雷回避教育でした。戦争中に夥しい数の地雷が埋められたままのアンゴラに、人々が戻っていくからです。内戦が終結し、帰還を希望した人々を乗せた最後のバスが出るのを見送り、2004年、メヘバでの活動を終えました。
しかしこの時、帰還を望まない人、できない人もいました。ギブソンさんたちがそうです。
「アンゴラに帰ろうとは思わなかったよ。内戦が終わった時には親も親せきもみんな亡くなっていたから、自分たちの家族だけ帰っても、ほかに誰も知ってる人がいない。だから自分が育ったザンビアに留まったんだ」。同様に帰還を望まない人たちは1万人に及びました。私が話を聞いた「元難民」の人たちは、みな同じ理由を語りました。アンゴラには誰も知る人がいない、住み慣れた、生活の基盤のあるザンビアで暮らし続けたいと。ギブソンさんはほとんど物心つかないうちにザンビアに来てここで育ち、結婚して8人の子どもをもうけました。その内、3人はアンゴラへの「帰還」を果たしました。1人はザンビア国内の別の場所に、残り3人がいまもメヘバに暮らしています。
ザンビアでの新たな生活
母国で命の危険があるからこそ、難民としてザンビアに住むことを認められていたギブソンさんたち。しかしザンビア政府および国連は、母国の紛争が終結しても残留したいという約1万人の「元難民」の事情を理解し、彼らの定住策を講じます。メヘバ難民居住地を2つに分け、ひとつを現時点で難民の資格を持つ人たちのための居住地に、もうひとつを、「元難民」のための居住地にするという施策です。まずは母国のパスポートを付与した上で1世帯ごとに5ヘクタールの土地を提供し、在留許可を得るまでの法的な道筋をつくりました。これは世界の難民受け入れ政策の中でも画期的なことです。一方でザンビア政府は、難民を受け入れているザンビア人自身、特に首都から離れた地域の貧困解消という、大きな課題も抱えていました。そこでこの地域を、「元難民」だけでなくザンビア人の希望者も住める「統合エリア」として、国際的な支援を受けながら地域全体の開発を進めていくというプランを打ち立てたのです。
「統合エリアにすでに土地はもらっている。これからあの土地を切り拓いて、家を建てるんだ。時々行って、少しずつ住める環境を整えているよ。ただ、ここからは片道歩いて3時間かかるから、なかなか進まないんだ。本当はもちろん、住み慣れたここに居続けたい。政府に掛け合ってはいるんだがね......」
統合エリアの土地は、一部は元々住民がいたとはいえ、ほとんどが未開拓の土地です。雨季になればジャングルのように木々が生い茂り、住宅地としても農地としても、まったく整備はされていません。
ギブソンさんの親の世代がメヘバに来た時、同じように手付かずだった土地を自分たちで切り拓き、土地を耕して農作物を育て、生活ができるように作り上げていきました。ギブソンさんもその土地で一家が食べる分の農作物を作り、そのほかにレンガと炭をつくって売ることで現金収入を得てきました。しかし、今後もザンビアに残ろうとすれば、これらすべてを置いて統合エリアに移り、また一からやり直さねばなりません。高齢者だけの世帯も、女性だけの世帯も、同じです。さらには地域の人間関係もゼロから作り直しです。近所の人たちを相手に商売をしていた人は、新たな、まだ閑散とした土地で、新しい顧客を開拓することになります。
学校や交通機関、市場などが未整備な中...
「学校がすごく遠くなってしまうのも、問題のひとつだ。統合エリアにはまだ学校がほとんどないからね。難民居住区の中にある学校にわざわざ通わないといけない子どももたくさんいるんだ」。
過去、統合エリアに難民が住んできた時代には、私営の小さな学校がいくつかありましたが、ここが難民居住地でなくなってからは支援も打ち切られ、ほとんどが閉校状態です。学校だけでなく、交通機関や市場といった社会インフラは、まだ全く未整備です。「だから土地を移りたがらない人が多いんですよ。早くインフラを整えないと」と話すのは、AARザンビア駐在員の直江篤志です。一度は終了したメヘバでの活動ですが、AARは残ったアンゴラの人たちの再定住支援のため、2017年に活動を再開。今はまず、住民の命に直結する、水衛生の支援をしています。「井戸を整備するのも大事だけど、その井戸を地域の人たちが大切に使って、壊れたら自分たちである程度の修理ができるような仕組みを作らないと意味がない。ただ、統合エリアは人間関係もこれから作っていかなければならないし、元難民の人たちはもう難民としての支援は受けられず、この厳しい生活環境で相当な自助努力が求められている。そこが難しんですよ」。難民ではない、普通の住民としての暮らしを作っていくのもまた、苦労が伴います。
「アンゴラに帰った子どもたちとは、時々電話で話をするよ」。お子さんたちにとっては初めて足を踏み入れる「母国」です。「生活については、子どもたちが詳しく話をしないので知らない。いつもみんな、『うまくいってる』と言う。もし困ったことはないかなんて聞いたとしても、それしか言わないさ」。お互いの選択を尊重しようということか、自身の選択を受け入れる努力なのか、お互いに覚悟はもう決まっているのでしょう。
それでも、「自分はアンゴラ人だと思っている」とギブソンさんは語ります。「これからもザンビアで暮らしたいし、市民権も得たいけれど、アンゴラ人であることに変わりはない。両親がアンゴラ人だからね」。メヘバに住むのは多くがアンゴラ人ですが、ルワンダ人やコンゴ人など、アフリカの様々な国の難民がともに暮らしています。「いろんな国の人がいるけれど、トラブルはないね。どこの国の生まれかなんて関係ない。私たちは"難民"としてひとつなんだ」。
一見あまりにのどかで、周囲の村に溶け込んだ居住地の風景からは、彼ら「元難民」の苦労を感じ取ることは容易ではありません。30数年前の難民発生時と違い、国際的な注目も、支援も、ほとんど集まってはいません。その中で、元難民とザンビア人との統合、低開発地域の発展・自立という壮大なゴールに向かって、住民も、支援団体も、地道な歩みを進めています。
クーリエ・ジャポンで連載中のコンテンツを、編集部のご厚意により、AARのウエブサイトでも掲載させていただいています。 |
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 広報部長 伊藤かおり
2007年11月より東京事務局で広報・支援者担当。国内のNGOに約8年勤務後、AARへ。静岡県出身