ラオス:母子保健事業の2年半の成果と課題
ラオスのポンサリー県は、西を中国、東をベトナムと国境を接している最北の県です。15の少数民族が暮らしており、それぞれ固有の言語を持っているため、同じポンサリー県出身でも民族が違うとまったく言葉が通じません。首都からも800km以上離れていて、インフラ整備が遅れていることもあり、医療機関へのアクセスがとても悪い地域です。
そんな同県で新生児や妊産婦の命を守るため、AAR Japan[難民を助ける会]が母子保健事業を始めて約2年半が経ちました。少しずつ母子保健について理解する人が増えてきたと感じる一方で、すぐに変わることは難しいと思うこともあります。また、事業に関わるさまざまな関係者の成長が見え、とてもうれしく思うこともあります。今回は、一緒に活動に取り組む地域の3名の紹介を通じて、活動の成果と課題をお伝えします。
「赤ちゃんを助けられるようになってうれしい」 シーペンさん(医師)
シーペンさんは、ポンサリー郡病院で小児科、眼科、耳鼻科を担当している医師です。ベトナムやラオスで医療を学び医師となり、そして今でも上の学校に行きたいと希望している向上心あふれる人です。AARが新生児のケアについての研修を実施した際には講師養成研修に参加してくれ、実際の研修では講師補佐として、学んだ知識と技術を丁寧に研修生に伝えていました。
AARは活動の1年目、ポンサリー郡病院に保育器を提供しました。医療機器会社が使用方法の研修を行ったものの、長い間対象となる新生児がいなかったため職員が使用方法を忘れてしまい、しばらくは使用されませんでした。その後、ほかの病院の小児科医から指導を受け、保育器の使用が可能になりました。シーペンさんはそんなときに小児科で働き始めました。2年目には5例の低体重児の症例があり、シーペンさんも新生児のケアを担当しました。ラオスのほかの地域にくらべ、特に寒いポンサリーでは新生児の保温は重要で、「保育器を使用して、お母さんの胎内に近い環境を提供できるのは、赤ちゃんの成長の大きな助けになっている」と話しています。
小児科の看護師長も、「心臓病などの大きな合併症のある子は難しいけど、体重が少ないが合併症のない子は以前に比べて元気に育って退院できるようになったし、中国に行く必要もなくなった」と話しています。5月にポンサリー郡病院で生まれたプッサパーくんは、生まれた時の体重が1,400gでした。両親は元気に育ってくれるのかとても心配だったと言います。お父さんは「シーペン先生が頻回に見にきてくれ、夜でも多いときは10~15分おきに見にきてくれました。体の向きを変えてくれたり、ミルクの飲ませ方や体をきれいにする方法など、彼女が丁寧に教えてくれました。シーペン先生は自分の子どものように世話をしてくれました。保育器が無かったらどうなっていたかわからない」とうれしそうに話してくれました。病院職員のケアと保育器のおかげで3週間後には母乳をしっかり飲めるようになり、退院していきました。2ヵ月たった今は3kgまで体重場増え、手足もしっかりしてきました。シーペンさんは、「小さな赤ちゃんでも助けられるようになってうれしい。元気に退院していく姿や、予防接種の際に元気な姿を見るのが楽しみ」と言います。
小さな赤ちゃんが一生懸命生きようとし、病院がそれを支える。元気に退院していくことで、赤ちゃんの家族がうれしいのはもちろんですが、病院職員も自分たちのケアによって無事赤ちゃんが退院できたことが自信となり、働く糧となっているそうです。
「伝統儀式より、ヘルスセンターへ行くべきよ」カンマニーさん(コミュニティーヘルスワーカー)
バンサイ村のコミュニティーヘルスワーカー(村人に医療についての知識を伝えるボランティア)のカンマニーさんは、AARが開催した研修で、出産の危険性や妊婦健診の必要性など、母子保健に関する知識とそれを伝える方法を学びました。彼女はとても熱心に勉強し、研修が終わって村に戻った後は定期的に研修で学んだことを村の人に伝えていました。バンサイ村は人口200人弱の小さな村で、カンマニーさんは村の妊産婦さんや子どものことをよく知っています。
2017年の9月下旬、カンマニーさんの家の裏に住むサーウさんに陣痛が始まりました。陣痛が始まった際にはサーウさんは自宅で出産しようと思っていました。サーウさんは初めての妊娠で、推奨されている4回の妊産婦健診を受け、ヘルスセンターでの出産は無料であることを知っていました。しかし、特にそれまで問題が無く、周りの妊婦も自宅で出産しているため、自分も自宅での出産を選択したことは自然なことでした。ところが、陣痛が始まってから1日たっても生まれません。サーウさんの家族が無事に出産するためのラオスの伝統儀式を行おうと準備を始めたことを聞きつけたカンマニーさんは、「儀式よりヘルスセンターに行くべきよ」と家族と本人を説得し、4kmほど離れたヘルスセンターにサーウさんを送りました。サーウさんはそれからほどなくしてヘルスセンターで元気な女の子を出産しました。「ヘルスセンターで産んでよかったわ。とても安全だと感じました。次の子も、自分と子どもの安全のためにヘルスセンターで産むわ」と話してくれました。
しかし、その後残念ながらサーウさんは産後健診を受けずに過ごしてしまいます。1ヵ月間は自宅で休むという村の習慣から外へ出ませんでした。村でのヘスルセンター職員による母子保健サービスが出産後8日目だったため、ヘルスセンター職員が自宅を訪問し、母子の状態を確認しました。2回目の産後健診を受けるようにヘルスセンター職員から説明がありましたが、結局、母子ともに問題がないからと受けませんでした。
このように妊婦健診に対しては地域住民への知識が広まり、受診する人も増えてきています。また、出産時にコミュニティーヘルスワーカーが聞きつけてヘルスセンターに行くように促すことで助産専門技能者による出産も少しずつですが増えてきました。しかしながら、出産後は母子ともに健康だと安心してしまうのか、産後健診を受ける人はまだまだ少ない状況で、地域住民への健診の必要性をさらに伝えていかなくてはと思う今日このころです。
恥ずかしがり屋さんから、頼れる先輩へ ワンペさん(助産師)
ワンペンさんは当会がポンサリー県で事業を開始した後に対象のヘルスセンターに新卒で赴任した助産師です。ラオスの助産師は、日本のように看護師の勉強をしてから助産の勉強をするわけではなく、看護の勉強はしていません。ヘルスセンターの職員は、ワンペンさんのほかに同じ新卒の助産師と看護師のヘルスセンター長がいますが、ワンペンさんも外傷や内科の患者を診なくてはいけません。
ワンペンさんは赴任当初とても恥ずかしがり屋で、研修で発言を促されても後ろに引っ込んでしまうような人でした。村での地域住民に対する健康教育でも緊張して途中で何を言ったら良いのかわからなくなり、同僚の助産師に代わってもらったりすることもありました。一方で、ヘルスセンターを訪問し、研修で学んだことを実践できているかを確認する際には、分からないことを積極的に聞いてきたり、勉強が必要な点をノートにとったりする努力家でもありました。
そんなワンペンさんも村でのお産に呼ばれれば、機材を持って駆け付けます。ときには分娩が長引いて母子ともに危険な状態に陥ることもあります。そんなときは自分が何とかしなくてはなりません。母子を助けるために県病院の産科の先生や隣のヘルスセンターの先輩に電話で連絡し、助言を受けながら対処をします。そういった経験の積み重ねが、ワンペンさんの助産師としての自信と責任感を養い、成長させてくれているようです。
先日、このヘルスセンターに新しい職員が2名配属になりました。ワンペンさんは、新しい職員がヘルスセンターでの仕事を責任を持ってできるように計画を立てて指導をしています。新しい職員は、「丁寧に指導してくれるので安心できます」と話しています。ワンペンさんが新人職員の教育を通して、どのように成長していくのかが楽しみです。
今後も地域の保健・医療に関わる人者たちとともに
AARは、県内の病院やヘルスセンターに不足している医療機器を供与するとともに、さまざまな研修を実施してきました。これらの活動を通じて、地域で4回以上の妊婦健診を受けた妊産婦の割合は、事業開始前は4.7%に過ぎなかったのが、34.4%に増加しました。また、ヘルスセンターでの分娩率は、22.2%から32.7%に増加しています。
成果はしっかりと確認できている一方で、供与した医療機器の故障時の対応や、研修で学んだことを日々の業務に活かしきれていないという声もあり、まだ課題は残されています。これまでの行った活動の定着と課題解決のため、今後も地域の医療者たちとともに、活動を続けてまいります。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
ラオス・ポンサリー事務所 安藤 典子
看護師として10年間大学病院に勤務した後、青年海外協力隊に参加しラオスで2年間活動。帰国後、病院勤務などを経て2012年1月よりAARへ。東京事務局勤務後、2012年10月から2014年6月までシェンクワン駐在、2015年10月からポンサリー事務所駐在。岐阜県出身