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「創立40周年記念対談:これまでの40年に寄せて」

2019年10月30日  
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AAR Japan[難民を助ける会]は来月11月に創立から40年を迎えます。2019年6月22日、日本プレスセンタービル(東京都千代田区)にて、2019年度通常総会と記念イベント「40周年の集い」、懇親会を開催しました。「40周年の集い」での会長 柳瀬房子と理事長 長有紀枝の二人が40年を振り返った対談の内容をお届けします。

「インドシナ難民を助ける会」の設立準備委員会

長:1979年11月24日に難民を助ける会の前身である「インドシナ難民を助ける会」が創立されました。その創立の前から支えて来られた柳瀬さんに、当時のお話やこれまでの活動について伺い、40年を一緒に振り返らせていただければと思います。それでは、まず創立当初のことについてお聞かせください。

総会当日にステージで対談をする柳瀬会長と長理事長、椅子に座って2人とも笑顔

40年をふりかえるAAR会長の柳瀬房子(左)と理事長の長有紀枝(右)(2019年6月22日)

柳瀬:今から41年前に「インドシナ難民を助ける会」の設立準備委員会が動き出しました。当時は、社会主義になったインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)から大勢の難民が国を逃れていました。ベトナム人はボートピープルとなって海を渡り、ラオス・カンボジア人は隣国タイの難民キャンプに逃れていました。

当時の日本の対応は、外務省は欧米からの外圧もあり、人道的な観点からも、インドシナ難民を受け入れたいという方針でした。しかし実際に日本の入管業務をおこなう法務省は、具体的に運用できる法整備がされていない。主務官庁は何処になるのかも決められていない、従って予算もない。難民政策と言いながら予算がない以上政策ではない。仮に入管業務はクリアしても定住についての方針も何も決められていない。という理由で簡単には受け入れられないという判断でした。

その後メディアや海外からの後押し、世論もあり、ようやく日本が難民条約に加入したのは81年でした。しかし条約に加入していない時期に、日本はインドシナ難民を受け入れていました。いま改めて考えると、条約未加入の時期から受け入れていたことは、当時この仕事に携わられた方々の働きによるものです。大変なご苦労だったと思いますし、素晴らしいことでした。

相馬雪香先生と早稲田大学総長の村井資長先生が設立の発起人代表となり「インドシナ難民を助ける会」は1979年11月に発足いたしました。労働運動家の滝田実さん、私学連盟会長の堀越校長、和菓子の老舗 虎屋の黒川光博さん(日本青年会議所全国会頭)、上智大学のヨゼフ・ピタウ先生、聖心女子大学長の相良惟一先生、吹浦忠正(日本赤十字中央女子短大助教授、現AAR特別顧問)をはじめ多くの方々が関わって下さり、スタートしました。私は、たまたま父がその発起人の1人で活動をお手伝いさせていただくことになりました。

しかし、発足直前まで、場所も、人も、お金もない状況でした。準備委員会に代理で出席していた私は、会議の場から自宅の父に電話し、状況を説明しましたら、「じゃあうちの離れを使ったらいいよ」と言われたことで、実家の離れに事務所を開設することになりました。

長:相馬先生が、「難民のために色々な活動をしたいけれどお金も場所も人もない」というときに、お金や場所を提供したのが柳瀬家だった、と私は伺っております。

柳瀬:場所と電話番だけで、お金は...。「よく難民を助ける会を作ってくださいましたね。」という声がたくさんありましたし、いろいろな方が事務所にお手伝いにきてくださいました。場所ができると人が集まる。そしてお金も集まる。そうやって、スタートいたしました。

難民キャンプで大勢の子どもたちと柳瀬現会長

タイ、カンボジア国境の難民キャンプにて柳瀬。事務局長になって最初の海外視察、子どもたちは栄養失調で、みんなお腹が膨らんでいた。(1981年4月17日)

5つの約束ごと

長:当初、「インドシナ難民を助ける会」としてAARはスタートして、最初に支援をした難民というのは、ベトナム・ラオス・カンボジアから日本に来られた方でした。当時のインドシナ難民支援を始める際にお考えになっていたことを聞かせてください。

柳瀬:まず団体をつくるときに、5つ約束ごとを決めました。

1つ目は「政治家を発起人にいれず、政治思想的に中立であること」。こういった活動をするにあたり、中立であることは絶対あり得ないのです。しかし、ならば両方の意見をきいて両方側の手伝いをすればいいんだ、と話していました。

2つ目は、「お金をいただいたら、とっておかず、支援のために早く使う」。募金をくださる皆さんは、「大変な状況にある方たちにすぐ支援しよう」とお金をくださるわけですから、そのお金は早く支援に使おう。

3つ目は、「平等はやめよう」です。全てを平等にはできっこありません。100万円を難民100人に分けたら何にもできないけれども、100万円っていうお金を目的別に少数の方の支援に活用するのであれば、それなりのことができる。だから自分たちにご縁があった方の自立のために使いましょう。

4つ目は、「インドシナ難民を、大変失礼な言い方ですが、"利用"させていただいて、日本の若者を育てましょう」

最後に5つ目が、「インドシナ難民の教育を支援しよう」今この人たちに教育支援をしなかったら、私たちのやっている意味がない。難民が一番求めたのは自由です。自由に学びたい、自由に働きたい。そこを応援しようと決めました。

そんな5つの約束でスタートいたしました。これらは海外の活動でも規範としながら活動しました。

前を向く力に、圧倒された。

長:教育支援のお話がありましたが、AARはインドシナ難民に奨学金の支援をしておりました。そうした活動には、「学校に行けるような"強い人たち"を助けている」という批判もありました。例えば、「もっともっと大変な状況にある、食べることもできないような難民の人を助けるべきだ」というようなものがありましたが、柳瀬さんが仰られていた、"悪しき平等よりもよき不平等"というものがまさに現れているな、と思いました。当時、教育を受けた難民の方々が、今AARの理事もしてくださっていますし、それぞれ国に帰ってさまざまな活躍をされています。

 

柳瀬:それは本当にありがたいことだと思います。私はもともと難民のことを全く分からなかったので、「どういう人たちだろう?」と思っていました。ところが、出会ったインドシナ難民たちが本当に素晴らしい方々で、困難を乗り越えて日本に来て、1からではなくマイナスからのスタートです。それでも前を向く力に、圧倒されました。なんて素晴らしい人たちなのだろうと。その多くがいま、自立され日本や世界で活躍する人材になっています。そのうち、お1人おひとりをまたご紹介できればいいな、と思っております。皆さまからの寄付をきちんと使わせて頂けた結果と、ホッとしています。

 

「何か自分もできることがないか」という想いを集めて

長:当時、公的な助成金制度は全くないなか、皆さまからのご寄付とチャリティコンサートで集めたお金で奨学金も出していました。このコンサートを考え付いたのも、ずっと陣頭指揮をされていたのも柳瀬さんでした。

柳瀬:発足から10年間は、全て皆さまからのご寄付で会を運営いたしました。チャリティコンサートだけではなく、ありとあらゆる場を捕まえて募金活動をしていました。「日本人は1憶1千万人人口(当時)があるのだから、1人1円出せば、1憶1千万あつまるじゃない!」といって募金活動をはじめたら本当に1憶1千万円の募金が集まったんです。

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インドシナ難民支援のため募金活動を行う創設者の相馬雪香前会長(左端)

「1円なら集められる!」と、1円玉を山のように事務所に届けてくださったり、コンサートは、「自分も一緒に楽しんで難民を助けることができる!」と、たくさんの方が集まってくださったり。設立した1979年の年末、12月31日には、現在も協力していただいている野村生涯教育センターの方たちが、小さなお子さんを連れて「クリスマス会で資金を集めた」と事務所に来てくださいました。

会の活動は、少しずつ人が集ってくると思っていましたが、とんでもない。次の日から電話が鳴りっぱなしで、事務所に人がどんどんきて、寝る時間がないくらい賑わっていました。毎日のように段ボール1~2箱分の現金書留が送られてきました。今のように銀行送金とかインターネットでポンっという募金ではなく、1人ひとりの思いがお手紙に綴られていました。それぞれの「何か自分もできることがないか」という想いを集めて、この会がスタートいたしました。

またAARにはいつも、経理や庶務を手伝ってくださる方が必ずいました。相馬先生の同級生の方々も事務所に通ってきて、きれいな字で会計を締めてくださいました。また、同時期に事務所のそばに銀行が支店を開設してからは毎日、その銀行の行員の方が2~3名事務所にきてくださり、段ボールの中の封筒を全部空けて、金額をメモしてお金を持っていってくださいました。そういったボランティアの方々が、しっかりお金の管理をしてくださったことが今のAARの一番の基礎になっています。

"ベトナムコンピュー隊"

長:AARの支援者データベースを作ってくださったのも、事務所の近くの東京工業大学の学生さんでした。今、理化学研究所におられる方ですが、ご自分の脳を最大限に使って作ってしまわれたデータベースなので、だれも直すことができず、しばし大変な思いもしましたね。(笑)でも、それがAARのご支援者の方々の情報を管理する基礎になっていますね。

 柳瀬:データベースは、東京工業大学の日本の学生さんたちと一緒に、当時奨学生のベトナムの学生さんたちが作ってくれました。"ベトナムコンピュー隊"という名前を付けておりました。毎晩のように夜通し作業をしていた彼らに、私の母はご飯を食べさせ、次の日の朝になるとまだ事務所にいる、という日が何日も続きました。連日連夜、事務所に泊まり込みのような状態で、「いい加減にしたら、体を壊すし」と私は母にしょっちゅう叱られておりましたけれども。

難民に育てられたピアニスト

長:もう一度、チャリティコンサートのお話を。ピアニストの中村紘子先生は長くコンサートを担ってくださっていました。ジュリアード音楽院に留学されていたときに、教わった先生方が難民だったご縁もあったと伺っております。

柳瀬: ロシア革命時に亡命してきた難民の方々が、ジュリアード音楽院の恩師に多くいたということで、「自分は難民に育てられた、難民って本当に素晴らしい人たちだ」ということを何度も仰っておられました。それがきっかけでAARを長く応援してくださいました。

ピアニストの中村先生と来場したお客様たち

中村紘子さん(中央)とご婚約前の皇后陛下(小和田雅子さん、左から2人目)。ベトナム難民として来日し、AARの奨学金を受けて医師になった渡邊玉蘭(トラン・ゴク・ラン、紘子さんの右隣)チャリティコンサートの打ち上げにて。1991年9月11日(東京藝術劇場にて)



またバイオリニストの天満敦子さんなど、いろいろな方が長年応援してくださっております。森進一さん、森昌子さん、黒柳徹子さんらが毎年1回開催した「じゃがいもの会」も17年間AARの主催でした。ステージ以外のすべてを担当しました。

ほかにも、応援してくださった方々がたくさんおられます。例えば、静岡県浜松市のクリスチャン・コワイアは教会を中心に祈りのコンサートを継続され、千葉県我孫子市のめばえ幼稚園のママさんコーラスの皆さんは、絵本『地雷ではなく花をください』の歌をつくってコンサートをしていただきました。また、チャリティバザーを続けてくださる東京都港区の頌栄女子学院の方たち。このような活動に大変感謝しています。コンサートをすることで、「あ、自分たちもなにか一緒にやれば、寄付ができるのだな」、「一緒にやってみよう」というふうに、それぞれがそれぞれの立場で活動してくださったことが本当にありがたいです。

『地雷ではなく花をください』の誕生秘話

長:AARの地雷廃絶キャンペーン絵本『地雷ではなく花をください』でAARを知ったという方がたくさんいらっしゃいます。

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絵本『地雷ではなく花をください』にサインをする会長の柳瀬。累計発行部数61万冊を超え、純益による地雷問題の活動は現在も継続中。



柳瀬:カンボジアでは、1990年代になると和平協定が結ばれて難民は避難していた難民キャンプから故郷に帰還しました。しかし、戻ると自分の畑には地雷が埋められていました。大勢の子どもたちや普通の農民が地雷の被害に遭ってしまうといった深刻な状況にありました。対策をするにあたり、当時の東京事務所は、「国境防衛のための地雷問題にはあまり関わらず、被害に遭った人の支援をしましょう」と言っていましたが、AARの現場では「(地雷自体を)何とかしなくちゃならない」とずっと言っていました。そこは長さんの方が詳しいので、話してください。

長:AARはずっとカンボジアで戦争の後遺症として、障がい者になった方々への支援をしていました。しかしよく見てみると、戦争が終わったあとにも効力を持ち続ける地雷の被害を受け続けている方々がいた。障がい者支援をしていくなかで、地雷の除去そのものにも関われないか、という話をしていました。そんなとき、柳瀬さんが、「いいこと考えたの!」と、絵本のアイディアをお話しくださいました。絵本という手段を通して、皆さんに地雷の問題を知ってもらうだけではなく、実際に除去を行ったり、地雷の回避教育を行ったりするための、お金も集めることができるというアイディアでした。

柳瀬:絵本という発想を理事会に諮りましたら、大反対をうけました。

「絵本なんか売ったってお金が集まるわけない、純益がでるなんて考えられない」、「絵本っていうのは、5年10年経って、やっと1万部とか5万部になるようなものだ」って。でも私は、「絶対売れる」と。まず、絵本を読んでくださるお母さんや子どもたちから、こういう活動を知ってほしいと思いました。絵本作家の葉祥明さんとはちょうどその前に知り合っていて、AARのイメージキャラクターであるサニーちゃんを作ってくださっていました。葉先生に頼んでみましょう、と。

長:この絵本は歌詞になったり、劇になったり、全国に広がっていきましたね。出版から20年以上たって宝塚のお話もありました。

柳瀬:2年前の10月、宝塚歌劇の花組で『ハンナのお花屋さん』(植田景子:脚本・演出)という、この絵本がベースになった公演を約20日間してくださいました。絵本を初めて知った人も、当時のことをよく知っている人にもご覧いただいて、喜んでくださいました。

長:柳瀬さんは常に、「愛のポシェットをおくる運動」であったり、「ルワンダにセーターをおくる運動」、「コソボに愛のセーターをおくる運動」など、日本にいながらできる貢献の方法をいろいろ提案されていました。

カンボジアでポシェットを手渡す男性と受け取る少年、後ろには大勢の子どもたち

カンボジア「愛のポシェット運動」で、日本の子ども達からのプレゼント(文房具や日用品)が入ったポシェットを手渡した。AARの大勢のボランティアが参加。



柳瀬:何か一緒にできることを考えながら、皆さんに応援し続けていただいたのです。例えば、2ヶ月で準備をして、ホテル・ニューオータニの宴会場で2日間のチャリティバザーを開催し、1千万円の収益を上げたりもしました。ですが、ボランティアの方々は、私と同じ団塊の世代が多く、だんだん年齢を重ねてくると、一緒にそういう無茶ももうできなくなってしまいましたね。

チャリティーバザーでステージ上に出品されたドレスがならんでいる。数名がステージにおり、スーツを着た男性がオークションをしている。

国連機関、外務省などの協力を得てホテル・ニューオータニにて行われたチャリティバザー(1994年2月24日)



今の事務局の人たちも、新たな知恵を絞って「自分が関わって何かしたい、一緒にお手伝いしたい」、という想いを持ってくださっている方たちに対して、その気持ちを汲み上げる方法を考えることも、とっても大事なことかなと思います。

令和の時代へ

長:AARは、昭和にでき、平成を経て令和の時代になりましたが、チャリティコンサートには上皇上皇后両陛下が東宮(皇太子・皇太子妃)の時代からずっとご来臨を賜っています。

柳瀬:両陛下はじめ多くの皇室の皆さまも「お役に立つようでしたら歓んで」と仰って頂いて感謝しております。さまざまなかたちでお心に懸けていただき有難く思います。これからも応援していただける活動を続けましょう。

コンサート開演前に座席で話をする上皇上皇后両陛下と長理事長

チャリティコンサート開演前にお話しされる上皇上皇后両陛下と長有紀枝(左)、日本ロレックス社長 ブルース・R・ベイリー氏(右)日本ロレックス社には特別協賛として、長年にわたりご協力いただいている。(2016年4月)(撮影:岡本隆史)

だれ1人欠けても40周年につながっていない

柳瀬:私は自分自身がとくに得意なことがあるわけではありません。その代わり、「若い人たちにいろんなチャンスをあげて育てよう」と、相馬先生が仰っていたことがとても心に残っております。私は何もできないけれども、AARに関わったことによって大きく育っていった人がたくさんいて、それはAARがなければできなかったことです。これまでずっと活動を支えて下さったご協力者のみなさまはじめ、事務局のボランティア、スタッフ、海外に派遣している駐在員など、誰一人が欠けてもこうやって現在のAARの活動の40周年に繋がってないと思います。

お一人おひとりの皆さまに支えられて、これから45年、50年とAARの活動が必要とされなくなるまで続けていくのではないかと思います。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

長:よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

(注:肩書は当時)

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