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AAR Japan特別インタビュー 500年続く和菓子屋の使命とは 黒川 光博さん(虎屋会長)

2021年04月19日  特別インタビュー
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黒川会長が朗らかな笑みを浮かべている 後方の壁に大きな企業ロゴが見える

「とらやの羊かん」で知られる株式会社虎屋(本社:東京都港区)は、室町時代後期の創業を誇る超老舗企業である。日本を代表する和菓子屋と人道支援は意外な取り合わせかも知れないが、同社はAAR Japan[難民を助ける会]の前身「インドシナ難民を助ける会」が発足した1970年代から難民問題に関わり、今も国内災害の被災者支援にご協力いただいている。17代の黒川光博会長に虎屋が目指す社会的使命について伺った。

( 聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2021年4月7日にインタビュー)

コロナ禍で気付いた大切なもの

――新型コロナウイルスの感染拡大が収まりませんが、ご商売への影響はいかがですか。

黒川氏 2020年4月の緊急事態宣言に伴って、直営店や百貨店の店舗をいち早く休業し、一時は売上が例年の2割まで下がるなど、私が1991年に社長に就任して以来、最大の落ち込みになりました。今までに経験したことがない事態で、これほど影響が長引くとも思っていませんでした。売上だけを見れば、まさに100年に一度の危機と言えるでしょう。

その一方、コロナ禍で自分の時間が少しだけ増えて、虎屋が何のために商いをしているのか、改めて自問自答する機会にもなっています。私たち和菓子屋は季節感を大切にし、常に季節を先取りして菓子を作っており、お客様にもそのようにご説明しています。けれども、それが当たり前といいますか、いつの間にかルーティンになってしまい、本当に大切なものを見落としていたように思います。木々が芽吹いたり、色彩が微妙に変化したりする様を見て、なるほど先人たちはこの形、この色を描きたかったのか、あの菓銘の由来はこうだったのかなど気付かされたことがたくさんあります。

虎屋の歴代店主たちは、江戸時代に京都で発生した「天明の大火」、明治期の京都からの遷都に伴う東京進出、関東大震災、太平洋戦争など、大きな時代の変化にその時々対応してきたのだと思います。

私も10年前の東日本大震災をきっかけに、私たちの生活や企業活動で大切なことは何なのか、食品ロスの問題やSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みなど、それまでのように会社の成長を目指すだけではなく、何か違う価値があるのではないかと考えるようになりました。2015年から建て替え工事を進めた赤坂店は当初、高層の建物にする計画だったのですが、今の時代に求められているのは、心のつながりや温かさ、簡素さや自然体といった本質的な豊かさだと感じ、低層の建物に変更しました。

さらに、お客様の目的に合わせて、例えばご高齢の方や車いすの方にもご利用いただきやすい設えにするなど、さまざまなお客様にとって居心地がよく、ほっとしていただける店舗の設計にしました。長い目で見れば、このコロナ禍も社会が変わるきっかけになるでしょう。今は時代が何を求めているのかを見極め、次なる発展を考える期間なのかも知れません。

カンボジア難民の和菓子職人

――AAR初代会長の故・相馬雪香が1979年に「インドシナ難民を助ける会」を設立した際、発起人メンバーにお名前を連ねていただき、その後も当会の理事や特別顧問を務めてくださっています。きっかけは何だったのでしょうか。

黒川氏 実を言うと、それほど高邁な志を持っていた訳ではないのです。雪香さんの次男、仁胤(きみたね)君とは小学校以来の同級生で、雪香さんのことも子どもの頃から存じ上げていました。ご自分の考えをはっきり主張され、日英同時通訳の草分けとしても大変な能力をお持ちの方でした。

その雪香さんから「黒川さん、ちょっとやって!」と声を掛けられて、お手伝いすることになったというのが本当のところです。私自身、ちょうど東京青年会議所理事長(1980年)、日本青年会議所会頭(1982年)を務めた頃で、若手企業人として政治や社会に視野を広げなければならない時期でもありました。

当時はベトナム戦争終結後のインドシナ難民問題が日本でもクローズアップされ、弊社はAARの仲介で、1984年に来日したカンボジア難民のご夫婦、セン・サムウンさんとユーエン・ワンティーさんを社員として採用しました。ポル・ポト政権下で過酷な経験をした二人はひとり息子を連れて隣国タイに逃れ、来日して3カ月間、神奈川県大和市にあった難民の定住促進センターで日本語研修を終えたところでした。

今から思うと本当に愚問なのですが、初めての面接で「どうして和菓子屋を希望するの?」と尋ねると、「生きるために働かなければならないのです。仕事は選びません」という答えでした。

黒の重箱に色鮮やかな和菓子が映える

再現された江戸時代の「百味菓子」(虎屋提供)

後に日本国籍を取得した際、仙田佐武朗さん、美保子さんという日本名を付けさせてもらったのは私です。それぞれ和菓子の製造、包装・発送の部署に配属され、慣れない環境で仕事を覚えようと一生懸命に働いてくれました。

スーツ姿で笑顔溢れる仙田さん 症状のメダルを首にかけている

カンボジア出身の和菓子職人、仙田佐武朗さん。2019年の日本食生活文化財団主催「食生活文化賞」授賞式で(虎屋提供)

佐武朗さんは仕事熱心なうえに、手先が非常に器用で、工場の主任として和菓子作りを担い、技術指導でフランスに派遣されたり、日本の食文化の発展に貢献したとして「食生活文化賞」を受賞したりするまでになりました。定年退職後も嘱託として後進の指導に当たってくれています。

二人の甥であるユ・カンナラ君のことも忘れられません。重度の心臓病を抱えていた幼いカンナラ君は、AARが日本政府に働き掛けて「超法規的措置」で同じく1984年に来日し、全国から寄せられた義援金で初回の手術を受けました。再手術を受けるまでの数年間、部屋を貸してくれるアパートが見付からず、うちの社員寮にしばらく住んでもらったこともあります。

その後2001年に弊社の社員になったのですが、残念ながら2005年に26歳で亡くなりました。私が誇らしく思ったのは、職人たちも事務社員も彼らをカンボジア難民としてではなく、職場の仲間として自然に親しく接してくれたことでした。

被災者を励ます「とらやの羊かん」

――日本国内の台風や地震など災害時の緊急支援では、いつも救援物資として羊かんをご提供いただいています。被災者の方々にお配りすると、「とらやの羊かんだ!」とたいへん喜ばれます。太平洋戦争末期に空襲で赤坂の工場が焼け落ち、半分溶けて出荷できなくなった羊かんを近所で分け合って、泣き笑いしながら食べたという逸話を聞きましたが、御社の羊かんには人々を勇気付ける力があるようです。

黒川氏 いや、それは虎屋というよりも、疲れている時は甘いものを欲するからじゃないでしょうか。どういう状況にせよ、弊社の菓子を召し上がって喜んでいただき、心を和ませてくださっているのであれば、作る側としてこんなに嬉しいことはありません。

AAR職員が、避難所のスタッフに羊羹の入った段ボールを手渡している

西日本豪雨の被災地に「とらやの羊かん」を届けるAAR職員(2018年7月)

私たちは業績を伸ばすために何かするのではなく、本当に喜んでいただける商品を真剣に追求した先に売上があると考えています。例えば、咀嚼する力が弱くなられたご高齢の方から「羊かんが好きなのだけれど、硬くて飲み込みにくい。とはいえ、ペースト状では風情が味わえない」というお声をいただいて、「やわらか羊羹 ゆるるか」を開発しました。

これを店頭でお勧めしたところ、お買い上げいただいたお客様が後日、「何も口にできなくなっていた老親が喜んで食べました」と知らせてくださったことがあり、対応した社員は自分たちの仕事に大きな誇りを持ったようです。私たちの仕事が社会にどう結び付き、どのように役立っているかということが、社員の働く力になるように思います。

和菓子の新たな可能性

――ご高著「虎屋 和菓子と歩んだ五百年」(新潮新書)を拝読し、後陽成天皇以降の皇室や将軍家、政財界の要人など多くの歴史上の人物がお得意様だった事実を知って驚きました。一方で「御用のお客様でも町方のお客様でも(同じように)丁寧に接すること」という「掟書」の教えに、御社のご商売の真髄を感じます。和菓子の老舗として、お客様あるいは社会との関わりの中で大切にしているのはどんなことでしょうか。

モノクロ写真 虎屋店舗の前に社員数十名が並んでいる

1925年(大正14年)当時の虎屋。左端に配達用のフォード車が見える(虎屋提供)

黒川氏 あの掟書は江戸時代に奉公人向けに整理されたものですが、原本は室町時代末期に書かれています。これを読むと、商売の仕方や相手との接し方など、ビジネスに必要なことは何百年前の昔も21世紀の今も、いつの時代も変わらないというのがよく分かります。

弊社が大切にしている経営理念は「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」こと、和菓子屋として一生懸命、誠実に菓子を作ることに尽きます。私も社長就任以来30年間、そのことをずっと考え続けてきました。コロナ禍の最中の2020年6月、18代の光晴が社長に就きましたが、これからも虎屋の精神は変わりません。

他方、その理念以外に変えてはいけないものなどありません。時代が何を求めているかを常に考え、新しいことにどんどん挑戦していく必要があります。同業者の皆さんと話していると、「和菓子はもう終わりだ」とか「後継者がいない」という話になります。私たちのPR不足もあって、若い世代が昔のように和菓子を好まなくなり、私自身、和菓子は将来どうなるのだろうという不安を抱いた時期もあります。

そこで、若い人たちに和菓子の魅力を知ってもらおうと、2003年に六本木ヒルズに出店したのが新業態の「TORAYA CAFÉ 」(トラヤカフェ)であり、さらに「トラヤカフェ・あんスタンド」を青山や新宿に展開しました(注:2021年3月「トラヤあんスタンド」にブランドリニューアル)

あんを使ったパフェ、小豆とカカオのケーキなど、和と洋の素材の相性を大切にした新しい菓子を提供し、若いお客様から「あんのおいしさを初めて知った」「もっと和菓子を食べてみたい」という感想が寄せられるなど喜んでいただいています。

また、こしあんをベースに黒砂糖やメープルシロップを加えて、トーストに塗ったりヨーグルトに混ぜたりするタイプの商品「あんペースト」がオンラインショップでも評判になり、「おいしい菓子であれば、これからもお客様に求めていただける。和菓子はまだまだ行けるぞ」と新たな可能性を感じました。

このほか、2007年にオープンした東京ミッドタウン店(虎屋菓寮)にはギャラリーを設けて、和菓子をはじめ和の文化の素晴らしさを伝える企画展などを開催しています。

海外に和菓子文化を発信

――和食がユネスコ無形文化遺産に登録されるなど、日本の食文化への関心が高まっています。和菓子を含む日本の食文化を今後どのように発展させ、世界に発信していこうとお考えでしょうか。

黒川氏 弊社は和菓子を通して海外に日本の文化を広めたいという思いで、1980年にパリ店を出店し、おかげ様で昨年40周年を迎えることができました。最初はパリの街の美観を損なうとして暖簾を掲げることが認められなかったり、羊かんを見たフランス人のお客様から「これは食べ物ですか?それとも黒い石けんですか?」と聞かれたりもしましたが、仏語の商品説明を添えるなど地道にPRに取り組みました。

パリの一部の層ではありますが、少しずつ浸透して、ようやく軌道に乗ったのは15年経った頃でしょうか。和菓子は植物性の原材料を使うので、海外でも健康的なイメージがあり、見た目にも美しく、そして何よりおいしい。それは和食全般に通じるイメージでもあります。

シンプルななかでも日本の和が引き立つ洋装の建物

2020年に40周年を迎えた とらや パリ店(虎屋提供)

フランスの方々にもっと和菓子を知っていただくために、パリ店では和菓子教室を開いたりもしています。例えば小豆を煮る時に、職人が「ご自宅で作る時は炭酸水を使うと早く柔らかく煮えますよ」などと具体的に説明する訳です。そうすると理解がぐっと深まり、親しみも増します。

昨年は40周年を記念して、フランスのパティスリー「ピエール・エルメ・パリ」とコラボレーションしました。ピエール・エルメさんとは20年以上前から交流があり、また、虎屋はフランス、ピエール・エルメさんは日本で、それぞれ自国の菓子文化を伝えようと取り組んでいることが縁で企画が実現し、人気のフレーバー「イスパハン」を表現した小形羊かん、あんを使ったマカロンなど、双方の持ち味を融合した菓子が高い評価を受けました。

また、2019年にはニューヨークで弊社を含む和菓子店20数社によるイベント「YOKAN COLLECTION」を開催し、米国の有名パティシエともコラボレーションしました。

虎屋がパリに出店した頃、ワイン文化のフランスに日本酒を売り込む動きがあって、「なかなか難しいのでは」と見ていたのですが、長年にわたって関係者の方々が地道に取り組まれた結果、今ではパリのレストランのメニューに日本酒が載るほど受け入れられています。和食への関心が高まる中、時間をかけて地道にやっていけば、和菓子にも同じような可能性があるのではないかと思います。

もっとも、海外での和菓子の普及は虎屋が単独でできることではなく、業界全体で盛り上げていく必要があるでしょう。日本や海外のお客様においしい和菓子を召し上がっていただくこと、喜んでいただくこと。それこそが私たちが果たすべき使命だと考えています。

ひとこと 虎屋さんの太文字の暖簾を見る度に、平仮名を覚えたばかりの幼い弟が一文字ずつ指差しながら、「や!ら!と!」と得意気に読み上げた遠い日のことを思い出す。右横書きの暖簾はいつ頃、誰が作ったか不明なのだそうだが、「暖簾=ブランド」という文字通りの意味において、これほど知られた暖簾は他にないだろう。誠に余談ながら、柚餅子のように薄く切った虎屋の栗蒸羊羹は茶碗酒と意外に合います。(N)

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 中坪 央暁

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身

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