ラオス・シェンクワン事務所駐在
林 曜子
不発弾とともに生きるラオスの人々
2010年12月よりラオス駐在。大学でフランス語とフランスの植民地政策を学ぶ。航空会社などを経て、在外公館に勤務。困っている人に直接届く支援がしたいと、帰国後難民を助ける会へ。趣味はトランペット、スキー。(愛知県出身)
記事掲載時のプロフィールです
ラオスはインドシナ戦争中に大量の爆弾が落とされた、世界で最も深刻なクラスター爆弾汚染国です。難民を助ける会は、ラオスの中でも不発弾事故が多く発生する北東部のシェンクワン県で、事故が起きたときのために、村人への応急処置の研修を実施したり、救急セットを配付するなどの活動を行っています。また、今秋からは不発弾の危険性について知ってもらうための教材の開発も予定しています。
今回は、駐在員の林曜子が不発弾と暮らす人々の様子をお伝えします。
日常に潜む不発弾の恐怖
もしもあなたが道で緑色に光る玉を見つけたら、どうしますか。子どもなら、触ってみたり、手にとって投げてみたり、持ち帰って家族や友人に見せようとするでしょう。
私のラオス人の友人ウォンさん(27歳)は、10歳のとき学校からの帰り道、きれいに光る緑の玉を見つけました。それは不発弾の一つ(ボンビー:クラスター爆弾の中にある子爆弾)でした。不発弾が危険だということは学校の先生から聞いていましたが、本物を見たことはありませんでした。まさかこんなに美しい色をしたボールが爆弾とは思わず、家に持ち帰りました。幸いその玉は爆発せず、お父さんに叱られただけで済んだのです。
ラオスではインドシナ戦争中に200万トン以上の爆弾が投下され、大量の爆弾が不発弾として残っています。戦後35年経った今でも不発弾の爆発による事故が絶えず、被害に遭った人が毎週のようにシェンクワン県の病院に運ばれてきます。先月も、ウォンさんのいとこが農作業をしているときに不発弾が爆発し、顔やお腹を怪我する事故に遭っています。
家の塀、鳥小屋から花壇、灰皿にまで
この国にどれだけ大量の不発弾があるかを、難民を助ける会が活動するこのシェンクワンの町にいると実感できます。日常生活の中でも、砲弾の残骸をたくさん見かけます。よくあるのが砲弾の残骸で作られた家の塀。難民を助ける会事務所の隣に住む大家さんの家の塀に使われていたり、町のレストランの塀、また村に行けば隣家との境に置いてあったりします。他にも、貯蔵庫や鳥小屋の支柱に使われていたり、学校の鐘や花壇、灰皿にまで使われていたりします。
不発弾と闘うラオス人たち
一方で、不発弾と闘い続けるラオス人たちがいます。先日、不発弾の処理をする団体の活動を見学する機会がありました。私が見学した除去チームは、全員女性だけで構成されていました。果てしなく広大な土地をくまなく歩き、地中に埋まる不発弾を一つひとつ探します。その姿はとてもたくましく、頼もしく見えました。私が訪問したその日は、学校の校庭ほどの広さの土地から、数十個のボンビーが見つかりました。この町に、いかにたくさんの不発弾が残っているのかを思い知らされました。しかし、やっと見つけたボンビーを爆破処理しても、半年もの間続く雨季になれば、またこの土地一帯が大きな池になり、他の土地から新たなボンビーが流れ込んでしまうそうです。この除去活動が、地道で気の遠くなるほどの作業であることを実感しました。
35年前に終わった戦争の負の遺産との戦いが、ラオスでは今もまだ続いています。