ハイチ事務所
中村 啓子
ハイチ:ブードゥー教と「死者の日」
2011年6月よりハイチ駐在。大学卒業後、金融機関にて5年間勤務。その後、アメリカの大学院で途上国における農村開発などを学ぶ。帰国後、難民を助ける会へ。趣味は音楽鑑賞。神奈川県出身。
記事掲載時のプロフィールです
難民を助ける会が2010年の大地震以来支援を続けているハイチ共和国。フランス語が元になった「ハイチ・クレオール語」が使われ、人種的にはアフリカ系が大多数を占めます。そのハイチで浸透している宗教が、「ブードゥー教」です。ゾンビ映画で聞いたことがあるかもしれませんが、実際はどんなものかご存知ですか?
ハイチの「ブードゥー教」とは?
ここハイチは、カリブ海の文化とアフリカの文化、そして旧宗主国であるフランスの文化が混じりあい、独自の発展を遂げた国です。その性格は、この国の宗教にも表れています。統計では人口の8割がカトリック教徒とされていますが、同時に国民の2人に1人が「ブードゥー教」を信仰しているともいわれます。ブードゥー教とは、ハイチがフランスの植民地であったころ(17世紀後半からハイチ独立の1804年まで)に、奴隷貿易でハイチに強制連行されたダホメ王国(現在のベナン)をはじめとする西アフリカの人々の信仰と、カトリックの信仰とが、ハイチで習合して成立したといわれる宗教です。教義や経典はなく、様々な精霊を信仰します。
ハイチの首都、ポルトープランスにある児童養護施設「救いの手」。難民を助ける会は、地震で大きな被害を受けたこの施設で、新しい仮設施設の建築を支援してきました(活動ニュース「児童養護施設と理学療法センターが完成しました」)。
この施設は、親のいない家庭や貧しい家庭の子どもたちが暮らす場であると同時に、ブードゥー教の寺院としても使われています。建物の中心には、震災前から、ブードゥー教の儀式に使われる大きな柱(「ポトミタン」と呼ばれます)が立っています。「救いの手」は2010年1月の地震で大きな被害を受け、難民を助ける会が建物の再建を支援することになりました。その際、施設長のアンドレ・ジョゼフ・イスマイートルさんが望んだことは、このポトミタンを取り壊さずに残すことでした。難民を助ける会ではその意思を汲み、柱を残したまま、損壊した建物を撤去し、再びその柱を取り囲むように新しい施設を建てました。
新しくなった建物で祝われた「死者の日」
今年の11月1日、私たちハイチ駐在員は、「救いの手」で開かれた、ブードゥー教の「死者の日」の儀式に招かれました。
「死者の日」という習慣はカトリックにその起源があります。カトリックの教えでは、死者は天国に入る前にしばらく罪の浄化を受けなくてはならないとされており、この浄化の期間が短くなるよう祈りをささげるのがカトリックの死者の日です。
ブードゥー教の死者の日は、このカトリックの習慣がハイチで変化したものと考えられています。11月の1日と2日、信者はお墓参りをし、先祖に花やお酒を供えるとともに、家族や友人同士で集まり、「ゲーデ」と呼ばれる死と性の精霊たち、そしてその長である「バロン・サムディ」(「土曜男爵」)をたたえます。
夜9時、新しくなった「救いの手」の建物の中で、震災を乗り越えた柱「ポトミタン」を囲んで、死者の日の儀式が始まりました。施設長のアンドレさんが、儀式の司祭として、白い衣装に身を包み、マラカスを手に登場しました。同じように白い服の女性信者が柱の周辺に集まり、太鼓の音に合わせて踊り始めます。ポトミタンは、精霊が下りてくる「よりしろ」になると考えられています。司祭はときおりラム酒を口に含み、ゲーデの好物と言われる唐辛子のソースをあたりにふりまきます。踊りは2時間以上続き、信者の中には恍惚状態となって(「精霊が憑依した」と言われます)、倒れそうになる人も出てきます。
宗教儀式というと私はもっと厳粛なものをイメージしますが、今回私が参加したブードゥー教の死者の日は、太鼓のリズムが鳴り響き、信者ではない私たちのような人も大勢集まって、一緒にお祝いをする楽しいものでした。新しい「救いの手」が、子どもたちの施設としての役割を果たすだけでなく、寺院として地元の人々に大切にされていることを嬉しく思うとともに、その土地の文化を尊重した活動の重要性を実感した夜でした。