AAR理事長
長 有紀枝(おさ ゆきえ)
理事長ブログ第21回「戦後70年の年を振り返って」
2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授(茨城県出身)
記事掲載時のプロフィールです
AAR理事長、長有紀枝のブログです。
2015年も残すところあとわずかとなりました。この1年、AAR Japan[難民を助ける会]へのご支援に心から御礼申し上げます。11月にラオスの山中で、業務中の現地職員が巻き込まれる交通事故があり、現在も療養中です。改めて、悪路の移動に関する安全管理や注意義務に思いを馳せる機会となりましたが、そのほかは大きな事故もなく、2015年を終えようとしています。
3月に開始したこのブログは、シリア難民支援で訪れたトルコ出張のご報告をした第20回目を9月に記して以来、3ヵ月も間が空いてしまいました。ご心配の声もいただきましたが、私は年相応の疲れはあるものの(笑)、元気でおります。大学で秋学期が始まって以降、この3ヵ月、外での講演や、またシリア難民の関係での取材も多く、また様々な原稿を書かせていただく機会もあり、なかなかブログを書く時間が取れませんでした。
皆さまにお伝えしたいこと、書きたいことは山とあり、ブログだからこそ発信できるメッセージもあります。この媒体を大切に来年も書いてまいりますので引き続きどうぞ宜しくお願い致します。
さて、今年最後のブログは、戦後70年やボスニア紛争終結20年の節目の年について、極めて個人的な取り組みや接点に関するご報告です。AARの理事長や大学の教員としての通常業務以外のところで、誰に頼まれたわけでもありませんが、以前から温めていた企画などをもとに、今年は、個人的に「一人70年プロジェクト」を密かに実施しておりました。
安保法制も大きく動いた今年、皆さまお一人おひとりが日本と戦争の問題を考える際の一つの材料になれば幸いです。
後藤健二さん殺害事件の検証について
戦後70年、そしてスレブレニツァから20年を強く意識して始まった2015年は、同時に「人間の安全保障」概念が世に出てから20年の年でした。1月20日、21日に立命館大学で『「人間の安全保障」の行方 - 20年の経験と課題から-』と題したシンポジウムが開催され、こちらにパネリストとしてお招きいただきました。その京都に向かう新幹線の車中で、後藤健二さんのシリアでの誘拐・拘束の事実を知りました。毎年いただく年賀状を今年は頂いていないのを、なんとなく不思議に思っていた矢先のことでした。
志を同じくする仲間として、そして、シリア難民支援をトルコから実施しているNGOの理事長として、その推移をただただ見守っていましたが、後藤さんが殺害されてほどなく、政府の検証作業に、外部の有識者一人として、想定外の立場から関わることになりました。
この検証報告書の全文を読まれた方も、あるいは報道で一部のみに接した方も、決して納得のいく結果ではなかったかもしれません。私自身は、自分の力不足と、答えの出ない問いの中で押しつぶされそうな思いをした時期もありますが、その気持ちの中で、立教大学にて、この検証を補完しようという立場からシンポジウムを企画しました。第14回のブログで書いた内容です。こうした問題に初めて触れる若い学生たちにとっては、大変好評な企画でした。しかし、本来の目的に関心を持って参加されたいわゆる「玄人」の方々には、決して満足や納得のいくものではなかったことも承知しています。再び、深い後悔の底に沈みそうになりましたが、この問題、つまり、シリア難民支援をめぐる様々な問題や、危険地における援助者の安全管理・危機管理の問題は、AARにとっても、また私自身にとっても、一切終了していない、現在進行形の課題です。後藤さんの事件が残したものと向き合いながら、引き続き細心の注意を払っていきたいと思います。
日本平和学会と国際法学会で向き合った戦後70年
今年は研究者として2つの学会でも、節目を意識する企画に参加しました。「敗戦後70年の地点で平和を再定位する」を大会の共通テーマとして、7月18、19日の両日、広島で開催された日本平和学会の2015年度の春季研究大会においては、私は企画委員として、「戦争の記憶をいかに継承するか」と題した部会を担当しました。
戦後70年、戦争や暴力の記憶の継承の重要性・必要性に異を唱える人はいないでしょう。しかし、私たちは、何を、どのように記憶し、伝えるのか。誰の証言をどのように聞くのか。語りえぬもの、記憶しえないもの、はどう語られ、記憶されるのか?そうした問題関心から、哲学者で東京大学教授の高橋哲哉先生、東京裁判の社会的インパクトについて論考のある元国連大学の二村まどかさん(現法政大学准教授)、NHKチーフ・ディレクターで、『記憶の遺産~アウシュビッツ・ヒロシマからのメッセージ~』などの戦争の記憶に関わる作品を多く制作してきた鎌倉英也さんを招き、戦争・暴力の記憶の継承について議論しました。
それぞれご発表のタイトルは、「『赦し』は可能か──戦争の記憶をめぐって」(高橋氏)、「戦争の記憶と国際刑事裁判──東京裁判が残したもの」(二村氏)、「『記憶の遺産』が問う現在――プリーモ・レーヴィと原民喜の言葉を手がかりとして」(鎌倉氏)。
私は企画者として、司会と討論を担当しましたが、この部会は、学会員のみならず、広く一般の広島市民の方々にも公開され、折からの安全保障法案とも相まって大変重要な議論が展開されました。
9月の18日から20日には、「第二次大戦終結70年と国際法の変容」 をテーマに、国際法学会の大会が名古屋で開催されました。こちらでは、「創立70年の国連と変容する法秩序」と題した分科会で報告の依頼を受け、「国連とNGO・非国家主体との交錯にみる変容と現在」と題した報告をさせていただきました。
この報告では国連が憲章第1条1項の目的に掲げる「国際の平和と安全の維持」に関連して2つの対照的な非国家主体を取り上げて議論を試みました。国際の平和と安全の維持に寄与する存在としての私たちNGOと、脅威を与える存在として、ISやアルカイダなどのNSA(非政府組織)です。
まず、通常兵器の規制をめぐる課題を、対人地雷禁止条約を例に、法の遵守過程において、NSAが引き起こす課題と、その対応をめぐる国連とNGOの活動を報告し、さらに現在シリアでNSAが対人地雷や即席爆発装置(IED)を多用し、一般市民に重大な被害がでている事態と、NGOと国連の対応を紹介し、3者の関係について論じました。また現在進行中の完全自律稼動型の殺傷兵器「キラーロボット」の予防的規制を取り上げ、その使い手としての国家、NSA、規制や廃絶を目指す国連やNGO、有志国の交錯と相克を検討し、さらに、紛争下の人道支援NGOと国連およびNSAとの関係を、シリアの人道危機を事例に報告しました。
30分という限られた持ち時間でかなり欲張った報告となりましたが、これらを踏まえ、今後も主権国家が国連の主たるアクターであることに変わりはないものの、2つのベクトルをもつ国家以外の主体が存在感を増している実態を再確認し、国民国家システムと国連が、NSA による攻撃を受け続ける現状を前に、国連の目的を支えるために欠かせない存在としてのNGOの正統性を国際法の中でどのように見出していくかが今後の課題の一つであると結論づけました。
朝ドラ「『カーネーション』に見る私たちの過去・現在そして未来」
2つの学会の間に挟まる形でしたが、8月27日に、より身近なところで、戦後70年を考えようという試みも企画しました。2011年の下半期に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説『カーネーション』を題材に、その脚本家・渡辺あやさんをお迎えした立教大学での公開講演会です。そもそも戦争というのは、私たち一人ひとりにとってどのような出来事であるのか、戦争の記憶が薄れていく中で、私たちは、戦争をどのように捉え、どのように未来につなげていくのか、稀代の脚本家である渡辺あやさんと参加者の皆さんとともに考える機会として企画しました。実はずいぶん前から、温めていた企画でした。
ご覧になっておられない方のために簡単に説明を加えますと『カーネーション』は、大阪岸和田を舞台に、デザイナー小篠三姉妹の母・小篠綾子さんをモデルにした一代記で、主人公の人生に重ね合わせ大正末期から、平成までの80年あまりを描いた作品です。岸和田の「だんじり祭り」を基調に、女性の生き方、服を作るという行為に込めた思い、親子関係、老いと死の問題などを扱ったドラマですが、同時に同じ比重で描かれたのが、「戦争」でした。日中戦争・太平洋戦争と男たちの出征・戦死、心を病む人々、空襲、原爆、戦災孤児の犯罪や「パンパン」となった幼馴染の姿、耐久生活などを通じて、戦中・戦後の混乱期を生きる人々の様子、戦争の加害と被害など、「普通の人」にとっての戦争が大変印象的に描かれました。
AARとの関係では、AARが障がい者の支援事業を行っている2つの事業地、ミャンマーとタジキスタンでも放映され、大変な人気を誇っているドラマです。まとめに時間を要しましたが、つい先日、その全記録を主催の立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科のサイトにて公開いたしました。
私は司会と聞き手をさせていただきましたがAARの活動を通じてのお話を沢山させていただいております。ぜひご覧いただければ幸いです。
スレブレニツァから20年
第17回のブログでも書かせて頂きましたが、終戦から70年を迎えた今年は、第2次世界大戦後の欧州最大の紛争とされる ボスニア紛争終結と、紛争末期にスレブレニツァで発生したジェノサイドから20年の節目でもあります。これを記念し、記憶するため、12月4日、難民を助ける会も協力し、立教大学にて「ボスニア・ヘルツェゴビナは今~デイトン和平合意・スレブレニツァから20年」と題したシンポジウムを開催しました。
バルカン現代史がご専門の東京大学名誉教授柴宜弘先生、『オシムの言葉』他サッカーと旧ユーゴ情勢に造詣の深いノンフィクション作家の木村元彦さん、ボスニアの平和構築専門家でJICA の橋本敬市さん、NHK報道局のディレクターでスレブレニツァ20周年を取材しドキュメンタリー番組を制作した吉楽禄さんをお迎えしました。
複合国家ユーゴスラビアの縮図といわれた多民族共存社会でありながら凄惨な紛争を経験したボスニアの、移行期をめぐる課題、和解や共生の実態、EU 加盟問題の影響などを議論することを目的に開催しましたが、折からパリで衝撃的な事件が起き、一層混迷が深まる中で、ボスニアの教訓から学びを引き出すことも目的としました。
シンポジウムでは、登壇者の方々から、次のような重要な指摘やご報告がなされました。紛争終結から20年、難民・避難民約220万人の未だ約半数が帰還できず行方不明者のご遺体の捜索も続く現況や、デイトン和平合意は紛争の終結には成功したが、国づくりという点では失敗し、きしみが出ているというご指摘。国家間の和解や融和策、謝罪と歴史認識は、政権次第で変動する。その中でいかに、国や政権主導ではない真の和解を実現するのか。ボスニアからコソボ、イラク、アフガニスタン、そして現在に続く空爆の流れ。3民族の融和のみに焦点があたる中、他のマイノリティにも目を向けることの必要性。紛争の傷跡が人々の心の中に未だ色濃く残る状況での、和解のための教育の在り方や共通副教材の現況。サッカーやスポーツが政治や紛争と色濃く関係する中での、オシム監督の苦悩と功績からの学びと教訓。
こうした議論に対し、会場からも多くの重要なご指摘や質問が出ました。デイトン和平合意は国際社会の代表(上級代表OHR)による強権的な信託統治のようという指摘に「あれだけの流血の後だけに仕方がないという思いと国家としての成長が見込めないという暗たんたる思い、それでも形だけでも統一国家を保ち流血を回避できていることを良しとすべきなのか」という感想を寄せられた参加者もおられました。
当日は、ボスニア・旧ユーゴ紛争に研究者やジャーナリスト、外交官や援助関係者として深く長く関わってこられた方々や、旅行者として思い入れのある方々、サッカーファンの方々、そして初めてボスニア紛争やスレブレニツァについて深く知ったという大学生も多数参加され、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争と、その後の20年の歩みから、今の日本の現状を前にして、何かを学び取ろうという必死さをひしひしと感じた講演会でした。
また当日は、防衛省の関係者の方々も多くご参加くださいました。ボスニア、そしてスレブレニツァは、前年に発生したルワンダとともに国連PKO、そして派遣部隊にとっても大きな課題を提供し続けていることを実感した出来事でもありました。
ハーグの国際刑事裁判の傍聴
このボスニアのシンポジウムに先立って、11月23日から3日間、オランダはハーグにある旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)で、スレブレニツァ・ジェノサイドの首謀者とされるラトゥコ・ムラジッチ元将軍(72歳)の裁判を傍聴してきました。明石康・元旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表が証言台に立たれたためです。学期途中に、明石さんの証言日程に合わせ、急きょ決めた出張のため、大学やAARはじめ、さまざまな皆さまにも、大きなご迷惑もおかけしてしまいました。しかし、過去の経緯からも、私の専門領域からもどうしても、行かなければならない出張でした。
ムラジッチ被告はボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人武装勢力の最高司令官として、人道に対する罪、戦争の法規慣例違反に加え、1995年7月に発生したスレブレニツァ事件でジェノサイド(集団殺害)の罪に問われています。およそ10日間で6千名を超えるムスリム男性が殺害され、ルワンダに続き、国際刑事裁判所で史上2例目のジェノサイドの有罪判決が出た事件です。
拙著『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(2009年東信堂)のあとがきに詳しく書いた事情から、私はスレブレニツァ事件前のムラジッチ被告と面識があり、その家族とも近しい関係にあります。9月のシリア難民支援のトルコ出張の帰路、ムラジッチ将軍の息子とほぼ20年ぶりに再会し、何の罪もない彼ら家族が置かれたこの20年の苦悩を驚きとともに聞かされてもいました。
そのせいだけではありませんが、私は、スレブレニツァの首謀者であろうムラジッチ元将軍に、説明できない親近感と哀れとを感ぜずにはおれず、ずっとその理由を、考え続けています。考えられる理由はもちろんあります。スレブレニツァの前年、医学部の学生であった愛娘が、父親であるムラジッチ被告の拳銃で自殺するという痛ましい事件が起きていること。戦後、二度の脳梗塞に倒れ、後遺症を引きずり、忠誠を誓った祖国から、EU加盟やEUからの援助と引き換えにいわば見放され、ハーグの地で収監される孤独な老人となったムラジッチ将軍の姿をこの目でみたこと。しかし、そうした理由だけではないのです。
私が事件前、ふと垣間見たムラジッチ将軍が誠実で家族思いの愛国者であったことが頭から去らないのです。彼は戦前から名の知られた犯罪者でも、ごろつきでも、いわんや殺人鬼でも、異常性格者でもなく、そして善悪の判断を放棄し命令に従っただけの人物でもありませんでした。優秀で誠実な誰からも信頼される軍人であり、模範的な国民でした。
そうした人物を冷酷、残忍、そして、残虐非道なジェノサイドの首謀者に変えるのが「戦争」なのだと思うのです。彼がスレブレニツァで、またその他の現場で実施し、命じた行為の残忍さは言語を絶しています。そしてその姿は、先の『カーネーション』の勘助さんにも重なるのです。
長くなりました。何か、3ヵ月間ブログを更新しなかったことのアリバイ証明か言い訳のような文章に読めたらとても申し訳なく思いますが、この1年間を振り返っておくことが必要だと思いました。
安保法制や自由な言論をめぐる空間について、そして安全管理について、書きたいことはありますが、それは年明けの回にまわしたいと思います。
シリアをはじめ、世界各地の難民問題に収束の気配は見えません。故・相馬AAR会長がよく口にしておられた、難民を助ける会のような組織がいらない世界はまだまだ先のようです。ですが、そのことに絶望するのではなく、日本のNGOとして何ができるのか、また自分自身に何ができるのか、考え、そして行動に移していきたいと思います。
皆さま、今年1年、この拙いブログをお読みいただき、ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。
(2015年12月28日)