長 有紀枝
理事長ブログ第50回:震災から10年 ~ 東日本大震災と「人間の安全保障」(2)~ 神戸と東北をつなぐもの
2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。2010年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・立教大学社会学部教授。2019年10月より立教大学副総長(茨城県出身)
記事掲載時のプロフィールです
AAR理事長、長有紀枝のブログです。
昨年1月、阪神淡路大震災から25年、テレビでも新聞でも、25年を記念した特集番組や記事が相次ぎました。いずれも印象に残るものですが、その中の一つが、NHK BSで放送された、「しあわせ運べるように 阪神・淡路大震災25年 神戸が生んだ奇跡の歌の物語」 です。
阪神・淡路大震災直後の神戸で、自らも被災した小学校の音楽教師臼井真さんが作詞・作曲した「しあわせ運べるように」。その後も、国内外の被災地で歌い継がれ、人々を勇気づけてきた奇跡の歌として紹介されました。ご存知の方は多いと思います。
しあわせ運べるように(神戸オリジナルバージョン) 作詞・作曲 臼井 真 一、 |
「神戸」を「ふるさと」に変えたふるさとバージョンも、臼井先生ご自身の手によってつくられました。心打たれるドキュメンタリーでしたが、この歌が歌い継がれる被災地支援に関わってきた者として、とりわけ印象に残り、考えさせられた場面があります。
東日本大震災の被災地の方から「追悼行事で歌いたいが、"亡くなった方々のぶんも"の歌詞があまりに辛すぎる、この部分を変えて歌ってもよいか」、という問合せに対し、臼井先生が断られた、という場面です。「その部分は歌の肝だから、歌詞を変えるなら、申し訳ないが他の曲を使ってほしい」と言って。
臼井先生ご自身の回想でしたが、たとえ思い入れが強い歌詞であったとしても、東日本大震災で大切な人を失った方の切実な頼みを断れたのは、私は、臼井さん自身が被災者だからだと思ってきました。被災者でない人が作った歌だったら、そこで譲ったのではないか、と。その場面がとりわけ印象に残っているのは、私自身、被災地やあるいは紛争地に足を運びながら、被災者や難民の人たちに、より正確には、地元や現地で雇用した当事者の職員に対し、何か引け目を感じ、言うべきこと、言いたいことを言わずに口を閉じたり、譲ったりした場面の記憶がよみがえったからかもしれません。
あの番組を見てから1年、今年は、東日本大震災から10年の年です。
今、改めてあの時を思い出し、先日の東日本大震災と「人間の安全保障」(1)をつづった後に改めて思うことは、被災者同士だから断ることができた、という以上に、そこに人と人との対等な人間関係や信頼関係をみます。
支援する側とされる側、被災した人としなかった人。同じ被災地の中であっても、沿岸部と内陸部、被災の程度により、時に緊張した関係が生じがちです。しかし、一人ひとりの人間を大切にする「人間の安全保障」の視点から両者の関係を考えると、それは、卑屈になるのでも、遠慮するでもなく、また引け目を感じるでも、負い目を感じるでなく、また見上げることも、見下すこともなく、その上で、互いに思いやったり気遣ったりする対等な関係であるように思います。そうした、まっとうな、当たり前の人間関係を築いていければと考えます。
しあわせ運べるように(ふるさとバージョン) 作詞・作曲 臼井 真 二、 |
追記:余談ですが、阪神淡路大震災で、難民を助ける会と姉妹団体さぽうと21が、神戸で被災した方々、そして被災した外国人の支援に奔走している1995年の春、私は旧ユーゴスラヴィアに赴任中でした。1月の阪神淡路大震災、そして3月にはオウム真理教の地下鉄サリン事件があり、その様子は現地でも生々しく報道されました。そんな時です。ボスニアの友人や仕事仲間が大真面目に口にしたのは。
「ユキエ、日本はあぶない、危険だから、帰らないほうがいい、このままここに残りなさい」幾人もの友人知人にそう言われ、その気持ちをありがたい、と思いつつ、「戦争をしている国の人が何をいう」と、心の中で思わず、突っ込みを入れていたことを思い出します。東日本大震災の時も、多くの海外の方々が、私たちの身を案じてくれました。そして163の国や地域から支援が表明されました。