長 有紀枝
理事長ブログ第27回「私のいちばん長い日、そして世界から寄せられた支援」
2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授(茨城県出身)
記事掲載時のプロフィールです
AAR理事長、長有紀枝のブログです。
後ほど皆さまにご報告することになりますが、AAR Japan[難民を助ける会]は、この度、佐賀県と深い関係で結ばれることになりました。その打ち合わせの過程で、佐賀県の岩永さんから、以前に大阪ボランティア協会の機関誌『ウォロ』2014年6・7月号(NO.495)に寄稿させていただいた拙稿へあたたかいメッセージをいただきました。
「実録・市民活動 私のいちばん長い日」というタイトルの原稿ですが、岩永さんは、国内で、インスリン依存型糖尿病患者(=IDDM)の方々へ支援活動を行うNPO・日本IDDMネットワークの事務局長を務めておられ、拙稿に、ボスニアでのインスリン依存型患者の方々への支援活動を言及したことから、ご連絡をくださったのです。
そのご縁を有難いと思いつつ、改めて読み返したこの原稿には、東日本大震災で、世界中から寄せられたご支援の数々とそれに応えようとした故・宮崎淳さんの思い出がつづられていました。
外務省の資料によれば、2011年3月11日の発災以来、海外からは163の国や地域、43の機関から支援が表明されました。欧米諸国や、アジアの近隣国からのご支援が中心をしめましたが、他方で通常は援助の対象となる途上国からも多くのお見舞いが寄せられました。
改めて、世界中の国々から、被災地に、そして日本に向けられたご支援を思い起こし、そしてそれがご縁でトルコにわたった宮崎淳さんを思い起こし、以下、ブログ用に改めた「私のいちばん長い日」を掲載させていただきます。
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日本のNGOによる国際協力に携わるようになって20年以上が経過しました。時間の流れともに、立場も変わり、今では現場に張り付いて自ら動き回るということも少なくなりました。
それでもなお、何年たっても忘れられない1日というものがあります。
紛争中のボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア人武装勢力に包囲されたイスラム教徒の飛び地ゴラジュデ。セルビア人勢力との数ヵ月にわたる交渉の末やっと許可が下りてインスリン依存型の糖尿病患者のためにインスリン各種と注射器や針のセットを持ち込めるはずのその日、全ての手続きと交渉を終えていたにも関わらず、チェックポイントで足止めされ物資の持ち込みを拒絶されました。すったもんだの末、注射器セットが入った段ボール箱のみを降ろし、チェックポイントの兵舎の横に積み上げました。インシュリンが入っていた小箱は座席シートの陰に私物とともに隠し、前線を超えてインシュリンのみを何とか隠して持ち込んだ日。
911米同時多発テロ直後のパキスタンのペシャワール。退避勧告が出ていたアフガニスタン国境近くのこの町に、当時まだ新人だった堀江良彰・現事務局長と留まり、地元のパートナー団体と流入するアフガニスタンからの難民支援に備えたものの、ひどい下痢と脱水症状に悩まされ、援助活動どころか滞在先の民家の階段を上がることすらままならなかった日などなど。記憶に残る現場は大変多いです。
しかしそれらは、今から思えば長くとも時間の感覚があった日々。時間の感覚そのものがなくなり、時間の経過が感じられなくなった経験が幾度かあります。
2011年11月10日とそれに続いた日々。この時の経験は、今でも通常の時間軸でははかることができないものです。
地震の被災者支援のため、AARが3人の職員を派遣していたトルコのバム地方を余震が襲い(それは余震ではなく、新たな巨大地震であったとも言われていますが)、職員が滞在していたホテルが倒壊したらしいという第一報が届いたのは、10日の早朝のことでした。
3名のうち1名は助成金の申請準備のために帰国した直後。残る2名が倒壊に巻き込まれました。1名は奇跡としかいいようのない状況下で無事に救出されたものの、残る1名、宮崎淳さんは、日本時間の同日夕方に救出されるが病院への搬送準備中にお亡くなりになられました。
宮崎さんのAAR入職は、東日本大震災がきっかけでした。志望動機には国際協力に対する熱い思いと、世界から寄せられた支援への感謝がつづられていました。
「東日本大震災の発生により、先進国のみならず、途上国からも支援が寄せられ、如何に世界が共助で成り立っているかを改めて実感させられることとなりました。東北地方を含め、世界で緊急の援助を必要としている人々に対して今の自分に何かできるかを考えたとき、これまで公共団体やNGOで行ってきた組織運営管理や広報・啓発活動の経験ならば活かせるのではないかと思うに至りました。私は大学院で紛争解決学を専攻し、かねてより平和構築の分野に関わっていきたいと思ってきました。今回の震災を受け、平和構築の意味を含めて、世界各地でより困難な状況にある人々を支援する活動に対する思いが更に強くなり、そうした活動を行っている貴会において、微力でも貢献したいと思い、志望致しました。平成23年6月8日 宮崎 淳」
宮崎さんの死は、その後予想もつかない形の余波と影響とをトルコに残しています。記念碑が立ち、書籍が出版され、ご家族のもとを多くのトルコの方々が訪れました。宮崎さんが生きていたら、あの後、そして今、どこでどんな仕事をされているでしょうか。
AARの事務所の壁に貼られた宮崎さんの写真は、来日したアフガニスタン人職員とともに今日も笑っています。
(2016年3月21日)