長 有紀枝
理事長ブログ第36回「難民・移民に関する2つのサミットを前に思うこと」
2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。2010年4月より立教大学社会学部教授(茨城県出身)
記事掲載時のプロフィールです
AAR理事長、長有紀枝のブログです。
安全管理の3回目の原稿の筈ですが、少し脱線します。
私事で恐縮ですが、昨年から飼いはじめた我が家の愚犬が1歳になりました。子どものころから実家には常に犬がいましたが、大人になって自分の責任で飼い始めた犬としては4代目になります。
20年近く、ずっと同じ犬種の犬たちと暮らしてきましたが、飼えば飼うほど、一匹一匹の性格の違いに驚かされます。飼いはじめの頃、「犬とはこういうもの」「この犬種はこういうもの」と勝手に決めつけていた性格や行為が、2匹目を迎えてから、それが犬一般の性格や行為ではなく、「この犬」特有の性格であり、癖なのだ、と気づきとても新鮮な驚きとともに喜びを感じたことをよく覚えています。今は実感としてわかります。人間一人ひとり個性も性格も異なるように、犬も一匹一匹異なるのだ、と。
そんな一匹一匹異なる個性の中で、もちろん共通項も沢山あります。
それが、家族との再会の時の喜びの表し方です。
しかし毎日毎日、その喜びぶりを目にするたびに、一体、犬の頭の中はどうなっているのだろうと疑問も感じます。海外出張で家を長く空けたとき、帰宅が大変遅くなった晩など、一緒にいなかった時間が長いときの、「熱烈歓迎」ぶりは理解できるのですが、ほんの短い時間、買い物に出て戻ったとき、何より毎朝、起きて再会したときに見せる喜びと興奮ぶりには日々驚きます。
一体、お前の時間の概念はどうなっているの? さっき別れたばかりじゃない。さっきまで一緒にいたことも覚えていないの?
そんな時にふっと、思うことがあります。「毎日、当たり前に繰り返される日常が当たり前ではないということを、もしかしたら犬は知っているのかもしれない」と。
東日本大震災で母親を亡くし、家を流された小学生の女の子が、「この世に永遠はないのだとわかった」とつぶやいていた姿を思い出します。ナチの占領下にあったワルシャワのゲットーで、朝見送った家族が、また夕方家に帰ってこれるかどうか、1日1日わからない中生き延びた人の手記を読んだことがあります(多くの友人や家族が戻りませんでした)。
そしてこうした恐怖は、今も世界で繰り返されています。シリアで、南スーダンで。あるいは当局による失踪などが深刻な地域で。
私は大学教員ですが、授業で「平和とは何か」について学生たちと議論する時があります。授業ですから、政治学的な定義ももちろんしますが、よりわかりやすく
「今日と同じ日が明日もまた来ると不安なく思えること」
「2週間後、1ヵ月後、1年後の約束ができること」
「朝見送った家族が、夕方、何事もなく無事帰ってくることが当たり前であること」
実際に、戦地で出会った人たちから聞いた話ですが、こんな話をすると、どんな学術的な定義よりも、すとんとすんなりと学生たちの心に響くようです。
来週、ニューヨークで各国首脳らによる人道問題に関する2つの会議が開催されます。9月19日(月)の、国連総会が主催する「難民・移民に関する国連サミット」、翌20日(火)の、オバマ大統領が主催する「難民に関するリーダーズサミット」です。
現在、世界で難民状態にある人の数は第二次世界大戦後最悪といわれる113人に一人。全世界で6,500万人を超えています。この中の多くの人々が、今朝会った家族と、夕方また会えるかどうかわからないような、あるいは1ヵ月後、1週間後どころか、明日の約束もできない生活を強いられているのです。
こうした人たちの命をつなぐために、私たちAAR Japan[難民を助ける会]が行っている人道支援や、難民の受け入れは絶対的に必要です。しかし、どれだけ人道支援をしても、どれだけ難民を受け入れても根本的な解決にはつながりません。
人道支援や難民の受け入れは、今現在の難民の人たちの命を長らえ、苦難をやわらげることはできても、戦争や紛争を終わらせることにはつながらないからです。
人道支援や難民受け入れは、絶対的に必要な作業です。しかしそれを、政治的な努力を払わない代償や言い訳にされるべきではありません。
難民・国内避難民支援の強化や難民受け入れの努力とともに、紛争の終結に寄与するような、日本政府の積極的な参加を望みたいと思います。