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水は命...パキスタン大地震被災地で給水システムの復旧を

2006年10月26日  パキスタン緊急支援
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2005年10月8日にパキスタン北部で発生し、4万人近くの死者を出した大地震。難民を助ける会は、地震発生直後からスタッフを現地に派遣し、緊急支援物資の配布などを実施。その後も定期的に現場を訪れ、必要とされる支援を行ってまいりました。今回は、地震で破壊された村の給水システムの復旧支援事業の進捗状況を確認するため、紺野誠二事務局員が現地入りしました。

生活に不可欠な水を一日も早く

2005年10月のパキスタン大地震への支援から数えて、通算3度目のマンセラ入り。

今回の訪問の目的は2つ。まず、住友財団、毎日新聞社会福祉事業団、民主党そして日本の多くの皆さまからのご支援で実施している、被災地での給水システム復旧支援プロジェクトの進捗状況を確認すること。

そして、今後の支援についてパートナー団体であるNCHD (National Commission for Human Development) と話し合うことである。

日本では、蛇口をひねればジャーと出てくるのが当たり前の水。しかし、そんな水道設備がないパキスタンの山奥での給水システムの破壊は、彼らの生活には致命的だ。飲み水、家畜に必要な水、炊事、洗濯…。そればかりではない。パキスタンに住む多くのイスラム教徒にとって、毎日の生活に根ざしたアラーへのお祈りには、必ず水で身体を清める。そのためにも水は不可欠なのだ。

村人たちはどうやって水を確保したか

給水システムが破壊された中、水の確保は大切な問題だ

村のどこで水を確保したか、地図を描いてもらう

ジャビッド氏との半年ぶりの再会を喜んだ後、ともに事業を行う被災地へ。支援を行う4つの村のうち、2村を訪れた。

まずは、地震直後に緊急支援として仮住居建設のためのトタン板を配布したバタン村だ。ここは、標高1,000~1,100mほどの山の急斜面に人家や畑が点在する。

今年2月のモニタリングで訪れた際、破壊された給水システムの復旧を村人から強く希望され、支援を実施することになった。このプロジェクトが完成すれば、この村の3地区、68世帯110家族が清潔な水を手に入れることができるようになる。

バタン村では、住民主導ですでに給水委員会ができていた。我々にできることは給水システムの設置であり、その後の維持管理はバタン村の仕事。なぜならシステム自体が村の財産になるからだ。各家庭によって額は違うが、月に10円~20円の積立を始めたという。まだ銀行口座は開いていないので、できるだけ早く口座を開いて預金したいという。

村人たちに地図を描いてもらいながら、彼らがこれまでどのように水なしでしのいできたかを聞いた。それによると、4~5月は雨水を貯めて使用。8月はモンスーンにより3ヵ所にできた湧き水や小川などの水場まで、往復30分~1時間半ほどかけて水汲みに行っていたとのこと。ただし、9月にはその水場は枯れてしまうので、お金のある人は車で30分近く離れたガリ・ハビブラの町まで水を買いに行くが、ほとんどの人は往復の交通費が払えないのでできない。

この村で、継続的に清潔な水を確保することが難しく、給水システムの設置が急務であることが、あらためて分かった。

水くみは重労働

「2006年8月10日完成」の文字が彫られている

難民を助ける会が支援して完成した貯水タンク。これで女性や子どもの水くみの負担を減らすことができます

バタン村で話を聞いたあと、小川沿いに作られた貯水タンクまで、けもの道を行く。往復1時間。日光は容赦なく照りつけ、汗が滝のように流れる。主に女性と子どもが水汲みに従事しているが、男でも厳しい仕事だと実感する。

5フィート(約1.5メートル)×5フィート×5フィートの小さな貯水タンクに、やっとのことでたどり着く。タンクには、「2006年8月10日完成」、と誇らしく記してある。中にはすでに水がいっぱい入っていた。なんだか嬉しくなった。あとは村までの水道を引く作業と、村の中に作る貯水タンクができるのを待つだけ。

村人曰く、「パイプさえ届けば、10日もあれば完成できるよ」とのこと。給水システムが完成すれば、女性や子どもたちの水くみの負担は激減する。完成が待ち遠しい。

水不足が引き起こす対立

多くのみなさまからのご支援を得て、前述の村以外でも給水システム整備を検討できることになったため、まずは候補地の一つ、プーレ村へと向かう。

この村、幹線道路に距離的には近い場所にあるのだが、ものすごい山の上に立っている。すさまじい山道で、すぐ横は崖。大型の四輪駆動車ではサイズが大き過ぎて通れず、小型の車に乗り換える。2日前に車が横転して、3人が亡くなったとか。

貯水タンクの一部が壊れ、現在は村の一部にしか水が供給されていない

ブーレ村の住民たちから話を聞く紺野事務局員(左端)

20分ほど山道を上り、やっと村に着く。この村は12の地区からなり、350家族が住み、地震による被災で90%近くの住宅が全壊または半壊したという。最近建て直しが済んだばかりの家の前で、村人たちから話を伺う。

この村の給水システムは20年前に村人たちがお金を出し合い作ったものだが、今回の地震で貯水タンクやパイプの一部が壊れてしまったとのこと。現在も少しは水が流れているが、村のいくつかの地区への配水をストップせざるを得ない状況だという。

こうした状況が続けば、生活が苦しくなるだけでなく、村の内部での人間関係にも悪影響を及ぼしかねない。世界では、水をめぐり対立も生じている。

“紛争予防”や“平和構築”などという大げさで難しい表現が専門家の間では使われるが、大事なことは、こうして水をめぐり対立を引き起こしかねない中で、必要とされる支援を行なうこと。それにより、村人同士がお互い仲良くやっていけるよう、当会がその手助けをできれば嬉しい。

給水システム設置事業のもう一つの候補地、マイダン村も訪れた。村の規模は、現在は震災前より大きくなっている。なぜなら山奥のゲデル村が完全に崩壊してしまい、ゲデル村の人が一斉に引っ越してきたからだそうだ。この場合、難しいのは古い住民と新しい住民の人間関係だろう。難民を助ける会が、インド洋大津波の被災者支援のためスリランカで実施していた住宅再建でも、旧住民と新住民との関係で頭を悩ませたことを思い起こした。

大地震から10ヵ月を過ぎて

水の入ったつぼを頭の上に乗せた女性

今日も村の女性たちはつぼに入った重い水を運ぶ

2005年10月8日の大地震から、早いものでもう1年。日本ではまったく報道されなくなってしまった。月日の流れと、人々の関心の移り変わりの早さを感じる。NCHDのジャビッド氏によれば、マンセラに一時期100近くもいた国際機関やNGOも、現在は20~30だという。

約半年ぶりの被災地訪問で、住宅の復興は進んでいた。まだトタン屋根の家に住む人も多数いたが、なんとか暮らしているようだ。テントではあるが、学校もいたるところにある。

しかし、元の生活に戻ったかと問えば、そんなことはまったくない。少なくとも給水の面ではまだまだ支援が必要である。難民を助ける会は、すでに地元にネットワークもあり、実績十分なパートナー団体NCHDと、今後も協力して給水システムの整備を実施していく。一人でも多くの住民の負担を減らすことができれば、と思っている。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 紺野 誠二

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