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津波支援は役にたったか?...スリランカ事後調査報告

2007年05月15日  スリランカ緊急支援
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津波の慰霊碑

津波で亡くなった人の慰霊碑

難民を助ける会では、2004年12月26日に発生したスマトラ島沖大地震によるインド洋大津波の被災者支援のため、津波発生の2日後からスタッフがスリランカの南部で緊急支援を実施。その後もIOM(国際移住機関)とJICA(国際協力機構)の助成も得て、復興支援として被災者30世帯の住居とコミュニティセンターの建設、地域住民への心のケアなどを行い、2006年8月末にすべての事業を現地NGOに引き渡しました。

その現場を2007年2月19~24日にかけて、東京事務局の紺野誠二、野際紗綾子が訪れ、支援状況をモニタリング(事後調査)しました。

心身障害児施設での再会

日本から送られたタオルを活用したよだれかけ

日本から送られたタオルを使ったよだれかけ。日本人のボランティアの方が現地でよだれかけに縫い直してくださいました。

「支援は本当に役に立っているのか?」募金をされた方は必ず抱く疑問でしょう。皆さまに代わって、それをこの目で確認するため、スリランカの支援現場を訪れました。

最初に訪問したのは、コロンボから車で30分の所にある重度心身障害児施設「プリティプラ子どもの家(Prithipula Infant Homes)」です。ここでは83人の障害児たちが暮らし、ドイツやオランダ、日本からのボランティアも訪れています。施設長のプシュパさん(女性)と、約2年ぶりの懐かしい再会を果たしました。

難民を助ける会は、以前ジャパン・プラットフォームの協力を得て、この施設にペットボトルの水と石鹸、タオルを配布しました。これらの物資は2004年10月に起きた新潟県中越地震で被災した長岡市に集まったものを、民間企業を通じてご厚意で提供してくださったものです。

当時、スリランカ駐在代表であった柴崎大輔から、「日本人のボランティアの方がよだれかけに縫い直してくださり、施設の子どもたちが使っています」との報告が届いていましたが、震災から約2年が経過した今、本当にタオルがよだれかけとして使われているのか、それを確かめたい気持ちがありました。

タオルはとても大切に使われていました。重度の心身障害児で、よだれが出てしまう子も少なくありません。その子どもたちには、この手作りのタオル生地のよだれかけがとても役立っていたのです。「スリランカでも買えるタオルを日本から送ってどうする」という声もあります。無駄のない効率的な援助する、という観点からすれば確かにその通りでしょう。でも、この施設でタオルを買いよだれかけに縫い直す余裕はなく、日本からのタオルかけが日本のボランティアの方の手でよだれかけに生まれ変わり、子どもたちの清潔が保つために役立っていることをこの目で見、苦労が報われた気がしました。

子どもたちが自分の差し出した手を、強く握り返してくれたときの嬉しさは忘れられません。

女性銀行とスリランカの教育熱

女性銀行で説明を受ける女性たち

女性銀行で説明を受ける女性たち。多くの人は子どもの教育費のために融資を受けて仕事をしたい、と語っていました

コロンボから、南部県ゴール周辺のハバラドゥーワ地区へ移動しました。

難民を助ける会では、被災者を直接支援したほか、スリランカの女性銀行への支援も行いました。女性が10人ほどのグループを作り、毎週5ルピー(約5.5円)ずつこの女性銀行に積み立てをし、お金が必要なときに低利子(1%)で銀行から借りるという貸し付け制度の普及を支援しました。最初の限度額は500ルピーですが、活動を長く続けていけば、借りられる額も多くなる仕組みです。この銀行はスリランカ中に166ヵ所の支店があり、津波被災後にはハバラドゥーワ地区のいくつかの村でも始まりました。ちなみに地元の高利貸しの利子は20%とのこと。

モランピティゴダという村では、積み立ても増え始め、お金を借りられる人たちがでてきました。ある女性は、500ルピーを元手にミサンガ(手芸の組みひも。腕などにつける)作りを開始。500ルピーで糸を仕入れると、大体105個作れます。それを仲買人に1個7.5ルピーで売ると、787.5ルピーの現金が手元に残ります。銀行にお金を返済しても287.5ルピー(実際には利子も銀行に払うのでもう少し減ります)が残るそうです。

「借りたり稼いだお金は何に使うのですか?」と尋ねると、多くの方が「子どもの教育」と答えました。スリランカの小学校は、学費は無料ですが、教科書やノート代、学校までの交通費などに当てるそうです。

スリランカでは、とかく子どもにお金をかけます。子どもへの期待がかなり高いことを実感しました。「なぜそこまで子どもの教育にお金をかけるのですか?」と問うと、「よく勉強して国を背負って立つような立派な人間になってほしいから」、「自分たちの親にも同様にしてもらったから」とのこと。スリランカの美しい伝統が、そこにはありました。

緊急支援として配布した生活用品は今…

難民を助ける会が配布した生活用品

難民を助ける会が配布したバケツ。ボロボロになっても洗濯物を入れたりお米を保管したり、大切に使われていました

難民を助ける会では、緊急支援として、ジャパン・プラットフォームと協力して行った生活用品(鍋、釜、食器などの台所用品とバケツ)の配布を行いましたが、それがどのように活用されたのか、津波の被災者に聞いてみました。配布したバケツには難民を助ける会のロゴシールを貼っておいたせいか覚えている人も多く、大切に使っているとのこと。早速見せていただいたところ、その使い道の広さに驚きました。

水をためておくため、または米を保管しておく入れ物、洗濯物入れ、洗濯して乾いた服を入れる物としてなど、用途はさまざま。使い込んでロゴシールがはげてしまっている家もいれば、丁寧に使って新品同様のものも。日本の皆さまの善意がきちんとお役に立っていることを確認できました。

伝統漁法の漁師さんに配布した鉄のポール

再建された漁協の建物

再建された漁協の建物。半壊だった建物も無事に再建されました

難民を助ける会では、ハバラドゥーワ地区にある漁業協同組合に、伝統漁法であるリティパンナ(海の浅瀬に突き立てた杭に腰掛けて魚を釣る漁法)のポール、網と、漁協の建物(倉庫でもあり集会もする)の支援を行いました。

今日は、その漁師の皆さんに、リティパンナについて話を聞きました。リティパンナとは、現地の言葉で「木によりて、魚を求む」という意味だそうです。釣りの最盛期は5月~10月なのですが、せっかく日本から来た私のためにリティパンナを見せてくれました。でも、ふと海を見ると難民を助ける会が提供したステンレス製のポールがありません。聞くと、「最盛期以外は家の倉庫にしまっている」とのことで、ちゃんと見せてくれました。そのまま海にさしておくと盗まれてしまうらしいのです。ちなみにリティパンナの足場であるポールは、木製では1本200ルピーし、もって半年だそうです。

釣った魚は仲買人に卸します。リティパンナで釣れるのは小魚なので、カレーに入れたり揚げ物にしたりします。その日は一匹だけ小魚が釣れました。わかさぎよりちょっと大きいくらい。揚げたらおいしそうです。

魚は津波の後、かなり取れなくなったと漁師の皆さんは口々に言っていました。漁師さんはほとんどが初老の男性ばかりで、後継者不足も深刻な問題のようです。

復興支援住宅での生活…障害と開発

インタビューする筆者

1世帯ごとにインタビュー。生活している全ての世帯にインタビューを行いました。(写真一番左が筆者)

難民を助ける会が、30軒の住宅再建を行ったアタニキタ地区へ移動。実際に生活されている方々のお話を伺いました。

この地域に引っ越してきた方々は津波の被災者。以前は海沿いの「ゴールロード」と呼ばれる幹線道路沿いに住んでいた方々ばかり。その後スリランカ政府の方針もあり、内陸に引っ越さざるを得なくなり、ここアタニキタに移住しました。しかしここは内陸で、庶民の足であるバスは一日に4本しか通りません。30世帯のうち3世帯は、やはりアクセスの悪さが理由で転出してしまいました。それでも、残る27世帯の家族は、新たな住居での生活をスタートさせていました。

全世帯を訪問しましたが、スリランカの人々はきれい好きなのでしょうか。どの家もきれいに使用されていました。設計上の都合でガラスを入れていない窓があり、雨風が室内に入ってくるため木でふさいでいるところがありましたが、それ以外の設備の満足度は高いようでした。

仕事を持つ人々は少なく、生計を立てるのは難しい様子。近所のタイヤ製造工場で働く男性が5人ほどいましたが、重労働で賃金も安いとのことでした。

赤ちゃんが生まれた家庭も4世帯ほどあり、生活が落ち着きつつあることが伺われます。被災した子どもたちにも明るさが戻ってきているようです。笑顔で私たちを出迎えてくれました。

ジュン・ノラさん

ジュン・ノラさん。津波で被災し、障害を負っています

一方で、障害を持つ方がいる世帯が数世帯ありました。生活は楽ではありません。交通の便が悪いので、病院に行くのも難しい状況です。津波で被災し障害を負ったジュン・ノラさん(72歳・女性)は娘さんとお孫さんと3人で暮らしていますが、自身は体が思うように動かせず、自分で車イスを動かすことも困難です。時々近所の方々が心配していろいろと手助けしてくれるそうです。

残念なことに、難民を助ける会が建設した住宅は、こうした車イス利用者を想定していなかったため、入り口などに段差があり、バリアフリーではありませんでした。

障害を開発の過程に組み入れようという考え方がありますが、開発に限らず復興支援においても同様です。上記のような失敗を繰り返さないためにも、提携団体に「障害」という視点も組み入れてプロジェクトを行ってくれるよう、今後は働きかけていく必要性を痛感しました。

住宅の出入口のところに、小さな仏像の入った祠(ほこら)を見つけましたこの住宅に住む人々が、道祖神を設けたとのことです。これから生きていく上でいくつもの困難が待ち受けているかもしれません。それでも、津波より厳しいことはないはずです。もし何かが起きても、きっとこの道祖神が人々を守ってくれる。そう願いながらアタニキタの復興住宅を後にしました。

2年の歳月

美しい海

海だけは穏やかでした

少なくともゴール周辺では復興はかなり進んだように見えます。所々に津波の爪あとは残っているとはいえ、2年前に見た衝撃的な姿に比べると、この復興のペースには目を見張るものがあります。ただし、これは目に見える範囲の話であって、人々の生活がどこまで回復したのか、心の傷が癒えたのかはわかりません。スリランカの北東部では政府軍と反政府ゲリラとの激しい戦闘が続き、復興も南部ほどには進んでいないと聞きます。

今回の出張で一番感じたスリランカの変化は、皮肉なことに、銃を抱えて街角に立つ軍人や警官の姿でした。2年前にはコロンボや南部ではこんな姿は見られませんでした。もちろんスリランカでは長い間内戦が続いていたことは知られています。けれどもその内戦も、津波という大惨事により収束したように見えました。少なくとも2年前には「災い転じて福となす」という空気がありました。しかし今はそうした空気は感じられませんでした。

空港へ向かおうとすると、道路が封鎖され、猛烈なスピードで政府高官一行の車が通り抜けていきました。封鎖を解かれた道路を人々が歩き始めました。一体いつまでこのような状況が続くのか?それを思うと少し心が痛む訪問でした。

詳細なモニタリング(事後調査)報告書はこちらをご覧ください。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 紺野 誠二

2000年4月より約1年間、旧ユーゴスラビアのコソボ自治州に駐在。イギリスの地雷除去専門NGO「ヘイロー・トラスト」へ出向し、地雷除去作業も経験。その後は東京事務局スタッフとして、主に地雷問題と啓発活動を担当。(茨城県出身)

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