トルコ地震:犠牲祭にあわせ、被災地で牛肉を配付しました
日本時間の11月10日未明(現地時間11月9日夜9時過ぎ)、トルコ東部でマグニチュード5.7の地震が発生し、難民を助ける会のスタッフ2名が滞在しているホテルが倒壊しました。 内1名、近内みゆきは無事救出されましたが、宮崎淳は、大変残念なことに、ワン市内の病院で死亡が確認されました。職員一同、宮崎淳さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。 以下の報告は、11月9日夜8時前(現地時間)に近内みゆきからメールで送られてきたものです。 |
イスラム教のお祭りに合わせて牛肉を配りました
トルコでは今年、11月6日から9日にかけて「クルバン・バイラム」(犠牲祭)が行われました。この時期は、イスラム暦の12月の10日目から4日間、神にいけにえを捧げるとして、裕福な人が牛や羊などを買い、その肉を貧しい人々に分け与えます。日本で言うお正月に近い雰囲気で、官公庁や企業をはじめ、街の商店などもほとんどが休みになります。人々は故郷に帰り、家族や親せきらとともにこの日を祝います。ヨーロッパなど海外で生活する人も次々と戻って来るため、飛行機もバスも大混雑です。
私たちは年に一度のこの時期に、トルコで活動していることをひとつの縁と考え、牛1頭を購入し、地震で被害を受け、先の見えないテント生活を余儀なくされた人たちに配ることにしました。
前日の夜、畜産農家を訪ね、オーナーの勧めで、200キロの肉がとれるメス牛を買うことに決めました。配付当日の午前中に専門業者に食肉処理と袋詰めをしてもらい、車に乗せ、ワン市郊外のテント生活者の多い地域を複数訪れました。トルコ東部は出生率が高く、子どもが5~8人いる家庭も珍しくありません。そのため、各家庭に4キロ、計50世帯に配ることにしました。
「バイラムヌズ クトゥル オルスン!」(バイラムおめでとう!)
この日は、至る所でこの言葉が聞かれました。私たちも、こう声をかけながら、トルコ赤新月社が配った白いテントや、自前でこしらえた青いビニールシートのテントを一軒一軒回りました。訪ねてきた人にお菓子を配るのも犠牲祭の習慣の一つです。わたしたちも肉と一緒に、あめ玉やチョコレートを入れた袋を持っていき、子どもたちに好きなだけ取ってもらいました。訪問先で、わたしたちもたくさんのお菓子をいただきました。
肉を受け取った人は何度も、「ありがとう」とお礼を述べてくれ、男性の中には、胸に片手を当て「ありがとう」を意味するジェスチャーをしながら受け取ってくれる人もいました。トルコの人々は客人をもてなすことをとても大切にしています。テント生活をしている人であっても、「どうぞどうぞ、寒いから中に入って」と声をかけてくれました。
支援を受け取った人々の声
デラル・トゥゲルさん(20歳)は、「まだ余震があり、毎日が不安。今は収入がなく、お祝いができないと思っていたけれど、日本の皆さんのおかげで今夜はこれを食べることができます。本当にありがとうございます」と話し、ダムラ・アスランさん(16歳)は、「政府の支援がなかなか来なかった。世間はお祝いムードだけれど、ここには来ないだろうなと諦めていたのでとってもうれしいです」とほっとしたような表情で話してくれました。
地震で自宅が倒壊し、5人の子どもと妻とともに、自宅から500メートル離れた所でテント生活をしているアブドゥルケリン・トゥゲルさん(40歳)は、「これを見たら子どもが喜ぶよ!おいしいごちそうを作ってやろう」と、肉の入った袋を大切そうに握りしめて帰って行きました。
トルコでは食事の際には必ず、日本のフランスパンを短く、太くしたようなパンが出てきます。この地域の人々は、肉を小間切りにし、野菜などと一緒に炒め、パンに挟んで食べることが多いそうです。
外国から支援活動にやって来たNGOが、犠牲祭に牛一頭を配るというのは珍しいらしく、私たちの活動は、トルコ最大の国営通信社「アナドル・アジャンス」(アナトリア・エージェンシー)に取り上げられ、ここから配信を受けた全国のテレビや新聞などで紹介されました。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 近内 みゆき
難民を助ける会プログラム・コーディネーター。2011年10月より東京事務局勤務。大学時代に東西を結ぶ要衝に位置するトルコに興味を持ち、大学院ではトルコのEU加盟や移民問題などを学ぶとともに、トルコ、北キプロスで現地調査を行った。記者として新聞社に5年半勤務した後、難民を助ける会へ。(福島県出身)