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6/20は世界難民の日 南スーダンの人に寄り添う

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AAR Japan[難民を助ける会]は現在、トルコでシリア難民を、パキスタンでアフガニスタン難民を、そしてケニアでは南スーダン難民を支援しています。今回は南スーダン難民への支援について、2013年までの4年間、南スーダンに駐在していたAARの角谷亮が報告します。

独立からわずか2年で内戦状態に

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やっとの思いで難民キャンプにたどり着いた家族。暑さと疲労のため放心状態でした(2014年2月4日 ケニアのカクマ難民キャンプ)

「私は、今ここにいるのが非常に残念です」。これが2014年7月、AARがケニアのカクマ難民キャンプに設置した学校の開校式での私の第一声でした。   
 AARは2006年より南スーダン(当時はスーダンの南部)のケニアとの国境に近い東エクアトリア州カポエタで、井戸や給水設備の設置、衛生啓発活動などを実施してきました。2011年に南スーダンはスーダンから念願の独立を果たしましたが、2013年12月、再び内戦が勃発。この内戦で、これまでに人口の5分の1に当たる約200万人が家を追われ、このうち約50万人は、隣国エチオピア、ウガンダ、スーダン、そしてケニアに難民として逃れています。私たちがカクマ難民キャンプに設置した学校は、この内戦で南スーダンから逃れてきた子どもたちのためのものでした。

抑えられない無念さ

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AARが難民キャンプに設置した学校の前で、避難中の子どもたちと角谷亮(右 2014年5月8日)

通常、開校式典では「子どもたちへの教育を支援できて嬉しい」など、喜びの言葉を伝えるのが礼儀だと知ってはいました。しかし、内戦直前の2013年まで4年間、南スーダンの人たちとともに生活し、支援してきた私にとって、それは難しいことでした。長い闘いの末に独立を勝ち取り、新しい国づくりに燃えていたはずの南スーダン人が同胞同士で争うようになり、故郷からケニアまで難民として逃げなければならなかった現実を目の当たりにしたときの私の思いは、「非常に残念」。ただその一言に尽きました。

変わらぬ生活が営まれているカポエタ

ただ幸いなことに、AARがこれまで活動してきた東エクアトリア州カポエタは内戦に巻き込まれず、AARのスタッフは南スーダン人含め全員無事でした。南スーダンでは人々が、来る日も来る日も戦いに明け暮れているように感じられるかもしれませんが、全土で毎日戦闘が起こっているわけではありません。実際、AARが活動しているカポエタの町では、私が駐在していたころのように毎日市場が開かれ、女性たちは村から運んできた薪やトウモロコシ、オクラといった食材を売り、ケニアの商人は自国から運んできた服や鍋などの日用品を店先に並べ、内戦前と変わらない生活が営まれています。AAR南スーダン事務所は、2013年12月の内戦ぼっ発以降、日本人駐在員の拠点をケニアのナイロビに移しましたが、毎日現地スタッフと30通を超えるメールと電話でやり取りをしながら、地域に安全な水を届けるべく支援を続けています。カポエタなどの安定した地域ならば活動は可能な状況であり、こうした地域にも支援が求められています。

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AARが井戸を設置した村の子どもたちと角谷亮(南スーダン・カポエタ 2013年3月8日 )

平和の芽を育てる

国際支援の現場では、戦闘の激しい場所や多くの避難民を出している地域に支援が偏りがちです。着の身着のままで自分たちの村を追われることになった方に、銃弾や雨風がしのげる安全な場所、そして生きるために必要な食料や医療を届けなければなりません。一方で、カポエタのように戦闘こそないものの、安全な水や医療などが手に入らないために、下痢などが原因で5歳の誕生日を迎える前に多くの子どもが命を落としている地域もあります。こうした地域でインフラ整備などを続けることは、ゆくゆくは地域の安定につながり、紛争の予防にもなります。ニュースにならない、忘れられつつある人々のことも見捨ててはいけないのです。これからも南スーダンの人たちに寄り添いながら、活動してまいります。

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 角谷亮

2010年4月よりスーダン南部(現・南スーダン共和国)カポエタ事務所駐在。大学卒業後、在外公館派遣員として2年半勤務。2007年11月から2010年3月までAARタジキスタン事務所駐在。(兵庫県出身)

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