ザンビア:「心配してくれる人がいたからがんばれた」エイズ遺児たちのその後
人生をあきらめてしまう前に
HIV/エイズが猛威をふるうアフリカのザンビアでは、エイズにより親を亡くした子どもが約60万人いると言われています(国連エイズ合同計画2013)。エイズ遺児は多くの場合親戚に引き取られますが、親戚の家も経済的に余裕がないためその子どもの分の学費や制服代などを払えない、また親戚一家の労働力の一部として仕事を手伝わざるをえないなどの理由で、学校に通えなくなることが多いのが現状です。また、親を失ったことで深い悲しみにあっても親戚宅でそれを吐き出せない、また引き取られた先の家族とうまくいかず将来への希望を失うなど、精神的な理由で学校に通えなくなる子どもたちも多くいます。
教育を受けられないためにその後の職業の選択肢も狭まり、犯罪に走ったり、女の子は望まない妊娠をし、それがHIVの感染リスクをより高めるという悪循環が生まれています。そこでAAR Japan[難民を助ける会]は、2004年よりエイズ遺児の就学を支援しています。学費や制服、学用品の提供といった就学に関わる支援のみならず、心のケアも重視し、困難な環境でも子どもたちが学校に通い続けられるように努めています。これまでに100人を超える児童を支援し、現在は23名を支援しています。その中の2名、サロメとセシリアは、成人してAARザンビア事務所で昨年4月から働き始めました。
「私と同じ境遇の子どもを助けたい」サロメ・テンボ(21歳)
父は私が11歳のとき、母は私が15歳のときに他界しました。以来、きょうだい4人暮らしです。両親の死後は4部屋ある家の2部屋を他人に貸し、その収入で生活していました。また、ときどき教会からも食べものをもらいました。 私が11歳のときにAARの就学支援を受けはじめました。今は姉が結婚して家を出たため、兄夫婦と弟と住んでいます。警備会社に勤める兄と私が一家の大黒柱です。学生時代は、友人が励ましてくれたり、足りない学校の教材を写させてくれるなどして助けてくれました。 今はAARで働き、学校の「エイズ対策クラブ」担当として、クラブの生徒たちがHIV/エイズについて学び周囲の人へ伝える活動を支援しています。 将来は、AARが私にしてくれたように、自分と同じようなエイズ遺児が教育を受けられるよう支援したいです。専門的な知識を得るため、AARで働きながら学校に通い、心理学や社会福祉などの社会学を学んでいます。 |
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「夢は看護師になること」セシリア・チペタ(21歳)
私が6歳のときに父が亡くなってから、祖母と母と私ときょうだいの8人暮らしです。母は体が悪く歩くこともできないため、長女の私が家計を支えています。私は小学校4年生のときからAARの支援を受けて、高校を卒業することができました。勉強、特に数学が大好きで、小学1年生から高校卒業まで風紀委員を務めました。 AARに入職当初はわからないことだらけでしたが、少しずつ慣れてきました。周囲の人たちが私を支えてくれるので、とても仕事がしやすいです。自分の仕事が患者さんのためになっていると思うとやりがいを感じます。 将来の夢は看護師になることです。AARが支援しているクリニックの看護師長さんのようになりたいです。 |
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日本の皆さまのやさしいきもち、届いています
サロメは努力家で、自分の夢を叶えるために働きながら、 少ない給料の中から学費を捻出して大学へ通っています。セシリアも、家族を経済的に支えるため一生懸命仕事をしています。2人を見てあらためて思うのは、気にかけてくれる存在がいると、子どもはきちんと育つということです。それが、たとえ血のつながった家族でなくても。
最後に、2人から日本の皆さまへのメッセージをご紹介します。これからも、エイズで親を亡くした子どもたちが教育を受け夢を実現できるよう、引き続きご支援をいただければ幸いです。
「日本の皆さん、私に教育を受ける機会を与えていただきありがとうございました。皆さんのおかげで今の私があります。支援がなければ、今、夢を叶えるため働きながら学校に通うこともできなかったでしょう。本当にありがとうございます。」(サロメ)
「AARの活動を支えている皆さまへ感謝いたします。これからも世界中で私たちのような問題を抱えている人々へ手を差し伸べてくださると嬉しいです。」(セシリア)
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
ザンビア事務所 櫻井 佑樹
大学卒業後、民間財団に勤務したのちイギリスの大学院で平和学を学ぶ。パキスタンでのNGO勤務を経て2012年8月よりAARへ。東京事務局でタジキスタン事業などを担当し、2013年10月よりザンビア駐在。二児の父(千葉県出身)