ミャンマー:人生を変える学校
2011年に民政に移管してから、経済発展が目覚ましいミャンマー。しかしその恩恵は必ずしもすべての人々に行き届いているとはいえません。 とりわけ障がいのある人は、2014年の統計によるとミャンマー国内に約231万人いるといわれていますが、85%以上が就労できていない状態にあります。 「障がいは前世での行いが悪かった報いだ」といった偏見があり、また公的な支援制度が未整備なため、社会参加の機会に乏しいのが現状です。 AARではこうした状況を改善するため、障がい者のための職業訓練校を2000年に開校。これまで15年間にわたり約1,350人の卒業生を社会に送り出してきました。
学費は無料、教員も半数以上が障がい者
開校当初は、需要が高く、わずかな資金でも開業できることから「理容美容」と「洋裁」の2コースからスタートしました。現在では「コンピューターコース」も設けており、1学期(3ヵ月半)に各コース約15名、年間3学期で合計約130名の生徒に技術を指導しています。また、卒業生の一部を対象とした上級コース、店舗経営コースもあり、ここで生徒たちはより高度な技術や、店舗経営に必要な接客や会計のノウハウなどを学ぶことができます。学費は無料で、経済的に困窮した障がい者に広く門戸を開いています。また、指導に当たる教員の半数以上が生徒と同じく障がい者であることも大きな特徴であり、強みです。
25歳で大きく変わった人生
洋裁コースの教員として働くチョー・ナイ・トンさん(34歳)は、ポリオの後遺症で13歳のころから歩くことが難しくなりました。松葉づえもなく、学校までは家から1時間も歩かねばならないため、中退せざるをえませんでした。兄や姉が使わなくなった教科書を使って自宅で勉強し、料理や掃除を手伝う毎日。外出することはほとんどなく、月に1~2回、親戚の家へ出かけるだけでした。そんなチョーさんの人生は25歳のとき、大きく変わりました。自宅で叔母が服を仕立てるのを見て洋裁に興味をもったチョーさんは、AARの訓練校の存在を知って応募し、見事合格したのです。「ミャンマーでは障がい者が勉強したり、職業技術を学んだりする機会は限られているので、応募してみようと思いました。入学したときには、障がい者の職員が多いことに驚き、自分もがんばって技術を身につければ働くことができると励みになりました」。入学するまではミシンを使ったことすらなかったチョーさんですが、猛勉強のすえ、採寸・裁断・縫製の技術を身につけて自分で服を仕立てられるようになりました。そして卒業して1年間、自宅で叔母の仕事を手伝った後、訓練校の教員として働き始めました。「子どものころの夢は先生になることでした。夢を叶えることができてとても嬉しいですし、今の仕事が大好きです。私も障がいがあるので、生徒が経験してきた苦労に共感できます」。
全寮制で社会性が磨かれる
チョーさんが夢を実現できたのは、この学校が全寮制であることも大きな理由でした。地方出身者に対しては入学時と卒業時の往復の交通費も学校側で負担しており、通学が難しい遠隔地からも生徒を受け入れています。また寮で共同生活を送ることによって、それまで社会参加の機会に乏しかった障がい者たちが社会性を身につけることもできます。寮では週1回、訓練生同士でリーダーシップやチームワーク、自己管理などについて話し合い、皆の前で自分の考えを発表する機会があります。また、毎日授業の前には朝礼があり、障がいや食生活、健康などについて話を聞くことができます。チョーさんは言います。「新しく知ることばかりで、これまでよりもずっと視野が広がりました。卒業生の多くが就労できているのは、ここには技術以外にも、社会に出て働くために必要なことを学ぶ機会があることが理由の一つだと思います」。
中退でも、働いた経験がなくてもチャンスがある
チョーさんは今後もここで教員を続け、障がい者を支えていきたいと考えています。「ミャンマーには能力があっても働くことができない障がい者がたくさんいます。この職業訓練校では、私のように障がいがあり、学校を中退して働いた経験がなくても、働くために必要なことを学び、就労へつなげることができます。私にとっては、洋裁技術を習得できただけではなく、以前よりも自信を持つきっかけにもなりました。障がいがあってもできることはたくさんあることを伝えたいです」。
技術と自信を身につけて社会に羽ばたくチョーさんのような人がひとりでも増えるように。AARは引き続き職業訓練校のカリキュラムや就労支援を充実させていきたいと考えています。学校がこれからも存続できるよう、ご支援をお願いします。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 木下 聡
2014年1月からAARに所属。相馬事務所での福島支援事業担当を経て、同年10月から東京事務局にてミャンマー事業を担当。「MADE IN JAPANの思いやりをミャンマーへ届けます!」宮城県出身