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ケニア:難民 それぞれの物語2~オワールさん~

2018年06月01日  ケニア緊急支援
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2018年1月、AAR Japan[難民を助ける会]の活動地であるケニアとザンビアを訪問した、広報部長の伊藤かおり。連載2回目は、14年間避難生活を送る、男性を紹介します。

テントの中に座り、オワールさんと、AARの雨宮が笑顔で話す様子

オワールさん(右)と話す、AARウガンダ駐在員の雨宮知子(撮影日はすべて、2018年1月14日)

快活で頼りがいのある、まさに脂がのった時期を迎えた青年。それがオワールさんの印象でした。彼はケニア北西部に2016年に新設されたカロベイエ難民居住区で、地域のリーダーをボランティアで務めています。「カロベイエに来たのは去年(2017年)で、それまではダダーブ難民キャンプにいたんだ」。ダダーブは東部のソマリア国境近くにある、ケニア最大の難民キャンプです。一時は30万人が暮らしていましたが、2016年、ケニア政府がキャンプの閉鎖を発表し、難民の帰還や、ここカロベイエに移す政策を打ち出しました。彼は妻と4人の子どもとともにカロベイエに移ってきました。「ケニアに来たのは僕が23~4歳の頃で、まもなく40歳だから、難民になってもう14年だ。難民として生きるのは簡単なことじゃない」。

オワールさん、あなたの身に一体なにがあったのですか?

「長い話だよ。説明するのは難しいな。本当に長い話なんだ」

突然、職場を武装勢力に襲われ...

アフリカの、ある国。当時23歳のオワールさんは、政府機関に勤め、結婚して一人息子と3人で暮らしていました。「ある日、職場に銃を持った集団が現れて、そこにいた男性を次々殺し始めたんだ」。それは突然の出来事でした。必死で逃げ出し、すぐさま国境を越えました。武装した男たちの服装や、標的となった人たちの所属を考えると、それがどういう勢力の仕業で、国内に留まることが自分にとってどれほど危険であるかを、瞬時に悟ったからです。妻と子どもとは隣国で落ち合いました。しかしその隣国も内戦状態だったため、さらに逃げ続け、ケニアのダダーブ難民キャンプへとたどり着きました。

それから14年。「国の状況がどうなっているのか、情報を得ようがないからわからない。ただ、今でも危険だと思う。国に残っていた父親も、4年前に殺されてしまった」。彼の母国は情報統制が厳しく、公の発表やインターネットで得られる情報からは、彼の身の安全を確かめる術はありません。情報は、彼の母国から新たに逃れてきた人から集めるのだと言います。「父に何が起こったか...。神様にしかわからないよ」

広大な土地にたたずむ、ビニールなどで作られた家

カロベイエ難民居住地内のオワールさんの家。近所にはまだ、学校や病院などはありません

職を得て、生活を築いた難民キャンプが閉鎖に

ダダーブ難民キャンプに来てからは、新たに3人の子どもに恵まれました。苦労の末、NGOが運営するキャンプ内の小学校で教師の職も得て、難民という境遇ながらも、精一杯生活を築いていました。ところが2016年、ケニア政府は、世界最大規模とも言われていたダダーブを含む、複数の難民キャンプを閉鎖するという方針を突如示しました。理由は治安の悪化です。当時ケニア国内では、ソマリアを拠点とする過激派組織アルシャバーブによるとされるテロ事件が相次いでいました。ダダーブはソマリアとの国境に近く、ソマリア難民が多く住んでいることから、テロの温床になっているとみなされてしまったのです。ケニア政府はソマリア難民の母国への帰還を進めると同時に、ソマリア人以外の難民の、国内の別のキャンプへ移し始めました。オワールさん一家はその流れを受け、カロベイエに移されたのです。依然として混乱が続くソマリアへの帰還に多くのNGOなどが反対の声を上げたことなどから、現在はダダーブの閉鎖は中断されていますが、数万人が帰還や移動を余儀なくされた後でした。

「キャンプの移動は希望したわけじゃない。受け入れるしかなかったんだ」。オワールさんは異国でゼロからやっと築いた生活基盤をまた根こそぎ奪われ、カロベイエにやってきました。

工事などで使用する手押し車に子どもが乗って遊んでいる様子

子どもたちは楽しみを見つけ出す名人です。一見何もないような環境のなかで、元気いっぱい遊んでいました

過酷な人生を支えるもの

「カロベイエに来てからは仕事が見つからない。ここを見てよ。学校もない。病院もない。すべて造り中だ。僕はどんな仕事だってするさ。教員でも、なんでも。でも今は仕事自体がほとんどなくて、でも人はいっぱいいるから、ひとつの仕事に大勢が申し込む。全然チャンスがないんだよ。地域リーダーを務めているけど、それもボランティアだ」周囲の人たちとはうまくやっている、とオワールさんは話します。ここには同じ国出身の人だけでなく、いろんな国の人たちが混じって暮らしています。「ひとたび難民になれば、みんな兄弟姉妹。僕たちは同じ『難民』というアイデンティティなんだ」

しかし、できることなら、難民キャンプなどではなく、別の第三国に移住したい。それが望みだといいます。「日本でもどこでもいいんだ。許可さえおりれば、明日にでもね。でもその機会はまだ僕には訪れていない」。

母国には帰りたいですか?

「故郷は故郷だからね。でもまだ帰れる時じゃない。まだ自分たちにとって平和じゃないんだ。恐怖だよ」

オワールさんと活動を共にしているAARの兼山優希が声を上げました。

「オワール、あなたは......、いつも、そう、ハッピーでフレンドリーで......、そんな厳しい人生を歩きながら、どうしてそんな風にふるまえるの? 何があなたを支えているの?」

AARはカロベイエで、難民やケニアの地域住民とともに、コミュニティセンターづくりを行っています。オワールさんはこの活動の中心的な存在で、兼山も頼りにしている存在でした。ここにいる誰もが苛酷な体験を背負っていることを理解していても、彼の体験を初めて聞き、思わず問い返さずにいられませんでした。

オワールさんは一瞬考えた後、傍らにあった小さな本を私たちに見せました。聖書でした。「それはぼくがクリスチャンだからだよ。人生で何が起こるか、神のみぞ知る、だ。もっとも大事なことは、我慢強くあることだ。起こることにはすべて意味がある。いつか神様がその意味を教えてくれるさ。僕は以前は日本人なんて知らなかった。でも今こうして君たちがここにいる。ある日、ある時、何かを得ることができるってことを、僕は知っている。それが何かはわからないけど。我慢強くあることだよ。大変な時は聖書を読むんだ。そうすると強くなれる。聖書が全てだよ」。

両手に持った聖書を見つめるオワールさん

「聖書が心のよりどころだ」と話すオワールさん。どんな苦難に遭っても、信仰が彼の希望と明るさを支えてきました

将来は...

「将来についてはどう考えていますか?」

彼は静かで明るい口調を変えずに答えました。「未来は暗闇の中だ。いつ母国がよくなるのか、いつ死ぬのか、誰にもわからない」。

それからしばし沈黙した後、考えを巡らせるように少しずつ言葉をつづけます。「奨学金をもらって留学ができれば、一番いいかな。環境を変えられるからね。国際社会がそれを助けてくれればうれしいけれど......。子どもたちの将来? 僕の人生より、よくなるよ。だけど、外を見てくれよ、何もないだろ。ダダーブには小学校も中学校もあって、子どもたちも通えていたけど、ここにはまだ何もない。学校も教師も医者も、もっともっと必要だよ。だから未来は暗闇だと言ったんだ」

「教師をしていたのだから、家であなたが教えればいいんじゃない?」「そうだよ、近所の子も集めて教えたらいいよ」。一緒に話を聞いていたAARのスタッフたちから、励ますように次々と声が上がりました。ああそうだ、教師の経験もあるし、知らない者同士の中でもすぐに人望を集める人柄もある。彼が教えれば、たくさんの子どもたちが恩恵にあずかるだろう。しかし笑みを絶やさないオワールさんの口から返ってきたのは、今度は、「......すべてがボランティアなんだよ」という小さなつぶやきだけでした。

オワールさんは、自分や、子どもたちの人生を少しでもよくするために、きっとどんなことでもやるでしょう。これまでそうしてきたように、これからも。でもその強さをまわりが彼に求めるのは、酷なことだとこの時気づきました。

何度も何度も、築いてきたものを奪われて、そのたびに立ち上がってきたオワールさん。その強さに頼るのではなく、彼の少しでも助けになる活動ができたら。そう思いながら、カロベイエを後にしました。

壁はレンガを積み重ねて作られます。屋根はまだ木の骨組みしかありません

AARの支援で建設中のコミュニティセンターを案内するオワールさん(左端)。どこにどんな施設をつくるか、難民や地元住民らとワークショップを重ねました

クーリエ・ジャポンで連載中のコンテンツを、編集部のご厚意により、AARのウエブサイトでも掲載させていただいています。

クーリエ・ジャポンの記事はこちら

【報告者】 記事掲載時のプロフィールです

東京事務局 広報部長 伊藤かおり

2007年11月より東京事務局で広報・支援者担当。国内のNGOに約8年勤務後、AARへ。静岡県出身

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