ケニア:難民 それぞれの物語3 ~グロリアさん~
2018年1月、AAR Japan[難民を助ける会]の活動地であるケニアとザンビアを訪問した、広報部長の伊藤かおり。連載3回目は、3ヵ国を漂流し、ケニアに逃れてきた難民家族を紹介します。
ケニアのカクマ難民キャンプを訪ねて
グロリアさん(42歳)は、20歳を筆頭に8人の子をもつ母親です。迫害の経験や難民としての生活は、日本に生まれ育った私にとって、どこまでも想像をはるかに超えたものです。
しかし、グロリアさんの話は、現場に身をおいてさえどこか遠かった「アフリカの難民」という存在をごく身近なものに感じさせられて、心に残っています。この日、ケニアのカクマ難民キャンプ内にある中等校(日本の中学・高校にあたる)で、4年生のマリアさんに会いました。
この学校はAARの支援先のひとつです。グロリアさんの娘マリアさんとご家族に話を聞くため、学校で待ち合わせ、家に案内してもらうことになっていました。学校から家までは、スピードを落としているとはいえ、車で10分近くかかったでしょうか。砂嵐や強い陽射しをさえぎるものもなく、人通りも少ないこの道を、毎日歩いて通っているとは驚きでした。
家の前に広がる土地では、どこまでも広く何もないのをいいことに、子どもたちがグラウンドがわりにサッカーをして楽しんでいます。すぐ隣の教会からは、太鼓の音と男性の張りのある歌声が聞こえていました。
そんなのどかな環境のなか、出迎えてくれたのは、父親のフレッドさんと母親のグロリアさん。一家はコンゴ民主共和国の出身です。ビニールシートで作ったあずまやのようなところにいすを並べ、話をうかがいました。
命を狙われ3ヵ国を漂流
フレッドさんは2009年、家族を残してひとりで国を後にしました。仕事の関係で命を狙われるようになったためです。「個人的な安全の問題だ」ということですが、彼の母国では、紛争や凄惨な暴力事件がひんぱんに報道されていて、近年も難民の流出が続いています。
隣国にはまだ彼を知る人が多く危険だからと、コンゴからルワンダ、ウガンダを経由し、3日かけてケニアにたどり着きました。最初は首都ナイロビで家を借り、翌年、家族もケニアに呼び寄せました。当時は妻のグロリアさんと子ども6人の、8人家族です。下の2人の子どもはケニアに来てから授かりました。マリアさんは長女です。
ナイロビでは5年間、教会の仕事や、運転手、修理工など、できることは何でもして、がむしゃらにがんばりました。しかし、外国人ということで正規の仕事には就けず、物価の高いナイロビで家族を養うだけの稼ぎをどうしても得ることができません。かといって国に帰ることもできず、頼るあてもなく、彼は国連に願い出て、難民キャンプに入ることを選びます。そして2015年、彼らはカクマにやってきました。
コンゴでは店を経営していたのに...
「カクマでは住む場所が与えられ、月々の食糧配給に加え支援金も支給されます。燃料も定期的に配られています」
そうはいっても、現在の一番の課題は、やはり家計のことです。穀類以外の食料は支援金で買うことになりますが、これは「バンバチャクラ」と呼ばれる電子マネーの形で渡され、特定の店で肉や野菜などの食料のみと交換できる仕組みになっています。「カクマでは住む場所が与えられ、月々の食糧配給に加え支援金も支給されます。燃料も定期的に配られています」
「バンバチャクラで交換できる食料はわずかです。でも必要なのは食料だけじゃありません。娘を学校に行かせるためには制服もいるし、文房具もいります。だから交渉して食料以外のものも買わせてもらっています」その分、手に入る食料はさらに減ることになります。フレッドさんは、しばらくは国際支援機関で仕事をもらっていましたが、その契約が終了してからは仕事がなく、この支援金にすべてを頼っています。庭で鶏を飼うなどして、なんとかぎりぎりの生活を確保しているようです。
「ここでの一番のストレスは、働けないことなんです」と、妻のグロリアさんが口を開きました。「わたしは母国では自分の店を持っていました。古着を売る店です。誰かに雇用されなくても、自分でビジネスを興せます。ナイロビでも化粧品の販売などにチャレンジしたのですが、うまくいきませんでした。元手も十分ではないし、外国人ということで周囲からいろいろ言われたり......。難民キャンプのなかではほとんど仕事がなくて、ろくに働けません。私にはこれが本当に辛いんです」
ケニア人のスタッフが、わたしに耳打ちします。「コンゴの人たちは、男性も女性もとてもよく働くんだ。どっかの国の人とは大違いだよ。こんな働き者の人たちが仕事を持てず、家事をして後は座っているだけなんて、ものすごいストレスだと思うよ」
「とっても、とっても、疲れてしまいました」
それからグロリアさんは、堰を切ったように日々の辛さを語りだしました。
「女の子を育てていると心配事がたくさんあります。キャンプのなかは治安も心配。家から学校まではとても遠くて、娘をひとりで歩かせるわけにはいきません。だから毎朝5時半に家を出て、娘を学校まで歩いて送っていきます。帰りは夫が迎えに行きます。ちゃんと卒業してほしいし、娘もがんばっているけれど、親としてそれを助けるのも本当に大変なんです。卒業後は手に職をつけるか、キャンプ内の学校で先生になるとかして、家族を助けてくれたらと思っています。奨学金をもらってナイロビの大学にでも行けたらいいけれど、そのチャンスはほんのわずか。それに、一度ナイロビに行ってしまったら、戻ってくる人なんていません。何かいい解決法があればいいのだけど......」
そして、「もう疲れました。とっても、とっても、疲れてしまいました」と、声を震わせました。
難民の方たちに会うと、逆境のなかにあってもその明るさ、強さ、たくましさに驚くことがしばしばです。でもそうはいっても、いつ終わるとも知れないこの生活に、彼らが苦しんでないわけでは決してないのです。
もはや故郷には帰れない
しばらく沈黙が流れた後、AARのスタッフがマリアさんに聞きました。「マリアさんは、卒業したらどうしたいの?」
「奨学金をもらって カナダとかに留学したい。それで医者になって、家族を助けられるようになりたいです」奨学金を得て大学に進める人は、キャンプのなかではとても限られています。なかでもカナダなど第三国への留学のチャンスは、ごくごくわずかしかありません。それでも、なれるよ、もちろんなれるよ、とスタッフが言います。「あなたには、厳しい生活のなかでもこんなにも応援してくれる両親がいるのだから、期待に応えられるよう勉強がんばってね」
しかし、マリアさんが夢をかなえるその日まで、フレッドさん一家はケニアに留まるのでしょうか。いつごろ母国に帰れると思うかと問うと、フレッドさんは、「もう国には帰れないと思う」と答えました。「自分はもうすっかり年を取ってしまった。母国に戻ってまた新たに生活基盤を築くのは、この年では大変だよ。それに、子どもたちはとても小さいときからここにいる。ケニアの文化に慣れてしまった。特に言葉がね。国に帰っても子どもたちは母語を話せない。そうなると学校も仕事も難しい。だから、安全になっても帰らないだろう」
どんな努力をすれば、もしくはどんなチャンスをつかめば、彼らはこの暮らしから抜け出せるのか。いまのところまったく道筋は見えません。自分の才覚を生かした仕事ができて、その稼ぎをどう使うか自分たちの裁量で決めることができる。グロリアさんたちは母国で、そんな当たり前の生き方をしていたのでしょう。安全な場所で、住むところと最低限の食べ物が与えられても、それだけでは人は満たされません。彼らは決して、支援団体にそれ以上の何かを求めているわけではありませんでした。
ただ、人を苦しめるのは紛争や迫害の記憶だけではない、難民であろうとなかろうと、自分の人生をもはや自力でどうにもできないという無力感がもたらす苦しみは、私にも痛いほど伝わってきました。
※記事中の人名はすべて仮名です。
クーリエ・ジャポンで連載中のコンテンツを、編集部のご厚意により、AARのウエブサイトでも掲載させていただいています。 |
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 広報部長 伊藤かおり
2007年11月より東京事務局で広報・支援者担当。国内のNGOに約8年勤務後、AARへ。静岡県出身