ザンビア:地域づくりは自分たちの手で!―「元難民」が再び立ち上がるまで
国際社会から注目の集まる政策、その実態は
「私はもう年寄りだ。何十年も難民として、難民居住地に暮らしてきた。突然、あなたはもう難民ではないから、支援はできないと言われて、いったいどうやって暮らしていけばいいんだ」
2017年4月、私たちはメヘバ元難民再定住地で、住民の方々を訪問し、生活状況について話を聞かせてもらっていました。メヘバ元難民再定住地は、ザンビア政府による元難民現地統合政策の対象地です。そこでは、長年内戦が続いたアンゴラや、大虐殺の起こったルワンダからザンビアに逃れ、数十年にわたる時を過ごした「元難民」と、ザンビア人の共生が目指されています。元難民に滞在許可と、ひと世帯あたり5から10ヘクタールの広大な土地を与え、さらに同数のザンビア人にも同じエリアに土地を与え、元難民とザンビア人がともに地域社会を築いていくことを目指す画期的な政策として、この取り組みは国際社会からも注目されています。
しかし、私たちが話を聞かせてもらった元難民の人々の表情から、一番多く読み取れたのは戸惑いでした。憤りをあらわにした人もいます。現在メヘバ元難民再定住地に暮らす元難民のほとんどは、ザンビアに逃れたあと、メヘバ難民居住地で数十年暮らした人々です。難民居住地側は、長年の国際機関の支援もあり、いまや普通の農村の姿と変わりありません。長く暮らす難民は、テントなどの一時的な住まいではなく、レンガ造りの家に住み、必要に応じて自らの手で建て増し、畑も耕してきました。しかし、2012年、13年に相次いでアンゴラ人、ルワンダ人の難民資格が停止したことにより、長くザンビアに留まってきたアンゴラ人、ルワンダ人は「難民」から「元難民」となり、難民居住地に留まることはできなくなったのです。
2014年には元難民現地統合政策が策定され、元難民のために、メヘバ難民居住地の南側半分を切り分けた「再定住地」が、新たな居住の場として用意されました。しかし、その再定住地は、これまでほとんど人が住んでいなかった未開の地。再定住地に移住することとなった人々は、これまで数十年にわたり生活基盤を築いてきた居住地を離れ、再び一から住居を建て、畑を耕し、生活環境を整えなければならなかったのです。水も、教育も、保健も、難民居住地側に比べはるかに低い水準の地で、です。
AARは、1984年からメヘバでアンゴラ難民の支援を行っていました。2000年代に入り、大部分のアンゴラ難民が母国に帰還したことから、メヘバでの活動を終え、首都ルサカ近郊での活動に注力してきました。しかし、2015年頃にこの元難民の置かれた苦境が明らかになり、数度にわたる状況調査を行ったのち、2017年から、メヘバ元難民再定住地の住民のためのコミュニティ形成支援を開始しました。
難民でなくなり再びすべてを失って
繰り返しになりますが、メヘバ元難民再定住地は、草木が生い茂り、道や井戸、学校、クリニックなども未整備で、住む人はほとんどいない土地でした。そこに元難民やザンビア人が、メヘバ内外のさまざまな場所からばらばらに移住してくることとなったのです。そのため、たとえ隣り合う土地区画に引っ越してきた人々でも、お互いのことは全く知らず、交流の機会もありませんでした。アフリカの農村社会では多くの場合、チーフ(首長)と呼ばれる地域の伝統的なリーダーを中心にコミュニティがまとまり、人々は支え合って生活しています。お金がなくて食べ物が手に入らない時や、病院に行かなければならないのに交通手段を用意するお金がない時には、近所の人同士で互いに助け合うことで、貧しいながらもなんとか暮らしているのです。
しかし、再定住地に移住した人々は、これまで暮らしてきたコミュニティから切り離されるため、そうしたセーフティネットを活用することもできません。私たちが調査で世帯を回っている間も、「ここ(再定住地)に引っ越してきたはいいが、隣にどんな人が住んでいるのかもわからない」といった声や、「具合が悪くなったとき、周りに知っている人がいないので助けを呼ぶことができなかった」といった声が聞かれ、孤立している世帯がとても多いことに驚きました。
また、ザンビアの農村では一般的に、たとえば井戸が壊れたときには、それを使うコミュニティがお金を出し合って修理をする、という共助の仕組みがあります(機能しているかどうかは村によりますが)。学校がない村で、地域の住民が協力してレンガを焼いて学校の建物を作り、教員の給与を出し合うコミュニティスクールを立ち上げることもあります。そうした地域による自助努力は、親や祖父母、曽祖父母、さらに前の世代から続く「ご近所のつながり」が基盤となっていることが多いのです。そうしたつながりは、移住がはじまったばかりのメヘバ元難民再定住地にはありません。しかし、難民として数十年にわたり支援を受けてきた元難民の人々が、これからは自分たちの力で生活を立てていくには、ともに歩む仲間が欠かせないはずです。こうした理由から、AARでは、コミュニティのまとまりを作り出し、住民たちが生活改善に向けて取り組む基盤となる、社会関係づくりに取り組むことにしました。
地域づくりのために行動すべきは誰?
AARがコミュニティ形成の事業を始めてすぐの頃、活動の一つとして行った地域交流イベントの後で、住民の人々と意見交換のためのミーティングを開きました。その際に、「AARはなぜ、何もくれないのか。AARのプロジェクトに参加しても得がない」「イベントに参加しても食事も出ない、Tシャツ一枚くれない。これではイベントに人は来ない」との声が、何人もの住民からあがりました。
確かに私たちのプロジェクトは、住民の方にとって、すぐに何かが手に入るような事業ではありません。日本でいう町内会のようなグループ(自助グループ)を作り、そのグループ単位で、グループに所属している世帯が困っていることや、グループ全体の課題を解決するために話し合い、町内会費のような、自分たちの地域の課題を解決するための集金をグループとして行ってもらう。また、グループの中に、井戸の点検を担当する井戸管理委員、地域の衛生改善に取り組む衛生啓発委員、井戸が故障した際に修理を行う井戸修理工という役職を置き、このそれぞれの委員にこの地域の水衛生状況の改善に日々協力して取り組んでもらう。こうした、住民の皆さん自身の活動を通じてメンバー同士の交流を深め、信頼関係を築いてもらうことを目指す、という事業です。
住民の皆さん、特に難民としての暮らしが長い元難民の人々にとっては、行動すべきが支援団体であるAARではなく自分たち、という支援の形は珍しかったのかもしれません。また、当時はAAR以外の団体の多くが活動を終了し、撤退していた時期でもありました。住民の皆さんは、自分たちが支援から取り残されてしまうのではないかという不安を抱え、それをぶつける場もないため、行き場のない思いが積もり積もって、先のような不満の声につながったのだろうとも思います。
難民に対する支援はもう受けられず、自分たちの力で再度一から生活基盤を築いていかなければならない厳しい状況を、受け入れることはさぞ難しかったであろうと思います。魔法のように突然すべてを理解してもらえることはなくとも、少しずつ少しずつ時間をかけ、対話をしていくしかないのだと感じました。
徐々に生まれる信頼関係、協力体制
そうした住民の皆さんの心持ちが、少しずつ変わってきたな、と思ったのは、事業を始めて1年と少しが経過したころです。それまでの活動で、研修などを通じて、自助グループの皆さん自身で協力し合い、生活を良くしていくことはできるのだ、というメッセージを伝え続けてきました。グループの定期ミーティングを開くよう住民の皆さんを促し、開かれるたび必ずAARのスタッフが参加するようにし、「皆さん自身でミーティングを開くことはとても重要で、意義のあることなのだ」と言葉と態度で伝え続けるようにしました(必ず参加はするのですが、極力口を出さず、ミーティングが滞った時だけ違う視点を提案したり、アドバイスをしたりするように心がけていました)。
それを続けるうち、当初はミーティングもAARの主導、と考えていた自助グループの人たちが、自分たちでミーティング日程を決め、一戸一戸のメンバーの家庭を回って参加を呼びかけたり、積極的に話し合いたい内容を提案してくれたり、という姿が見られるようになってきたのです。水管理委員は、ギラギラと刺すような日差しの中を自転車に乗り、それぞれ20分以上も離れた井戸をいくつも回って点検し、何か問題があればすぐにグループリーダーに報告し、対応を考えるようになりました。
衛生委員も各家庭を訪問し、トイレを使うことが感染症を防ぐためにどれだけ大切なのかを伝えたり、井戸の周りに自主的に家畜除けの柵を設置したり、ということを始めました。高齢のためにトイレが作れない、と困っている世帯があると知り、グループのみんなで協力して作ろう、と決めたグループもありました。現金収入が乏しい中、少しずつお金を出し合ってすべてのグループがグループ資金を貯め、井戸が壊れた際にはその資金から部品を買って修理もできるようになりました。事業期間中に、グループの集めたお金で、グループの井戸修理工の力だけで20基もの井戸を修理できたと知った時は本当に驚き、もう一度記録を数え直してしまったくらいです。井戸修理工担当の現地スタッフの誇らしげな顔も忘れられません。住民の皆さんが徐々に作り上げていく信頼関係・協力体制を伝えるエピソードは、ここでは挙げきれないくらいの数になったのです。
もちろん、人間関係が深まることは、助け合いの基盤ができることでもあり、同時に揉め事が起きることにもつながります。日本でも、どこの町内会にも揉め事の一つや二つあるのではないでしょうか。あるグループでは、いくつかの家庭で共有して使うべき水運搬用リヤカーのタイヤを、とある一家が外し、自分の自転車に付け替えて使ってしまっている、というトラブルがありました。揉めるのは怖いからAARが仲介してくれないか、と、AARの事務所まではるばる相談に来てくれましたが、ここでAARが手を出してしまっては、何事もグループの力で協力して解決する、という精神に反します。心を鬼にし、表面はにこやかに、グループの皆さんで解決できる方法を一緒に考えましょう、と切り返します。「う、やっぱりそう来たか・・・直接来れば心も動くかと思ったのに・・・」という表情をしながらも、グループのみんなで喧々諤々何度も話し合い、解決方法を模索する姿が印象的でした。
「自分たちの力で、ここの暮らしをよくしていこう」
AARがコミュニティ形成の事業を終える直前、自助グループリーダーの皆さんと一度ミーティングを開きました。改めて、これまで自助グループの皆さんが行ってきたグループ活動が本当に素晴らしいものであること、そしてそれを続けていくことで、厳しい環境の中でも、皆さん自身で生活を良くしていくことができることを覚えていてほしい、とのメッセージを伝えたかったためです。その際、グループリーダーの皆さんの何人かからはこんなふうに言われました。「AARは本当にいなくなってしまうのか。やはり不安だ。他の援助団体と同じように去ってしまうなんて・・・」その声が重なり、ミーティングの収集がつかなくなりそうになったとき、リーダーの一人、ノアさんが手を挙げ、他のグループリーダーたちに語り掛けました。
「AARが来る前、私たちは同じ再定住地の住民だったが、お互いのことを全く知らなかった。今は、お互いの顔も名前も分かり、困ったことがあったら助け合うこともできる。AAR は撤退するが、AARが研修などを通じて教えてくれたたくさんの知識は私たちの中に残っている。これからも、自分たちの力で、ここでの暮らしを良くしていこう。」
まさに、私たちが事業を運営する中でずっと心に抱いていながら、こちらからはっきりと言葉にするのは野暮だと思っていた言葉でした。それをこんなに的確に言葉にしてもらえるとは、まさか思っていなかったのです。2017年、事業を始めたとき、元難民の住民の皆さんが見せた憤りの表情を思い出します。たったの2年後にこんな言葉を聞かせてもらえるとは。特に事業の後半は、メヘバ元難民再定住地の住民の皆さんに感動させられ通し、勇気づけられ通しでした。
次は元難民の生計活動をサポート
コミュニティ形成の事業は2019年4月に無事終了しましたが、その後2019年9月に、AARは新たなプロジェクトをメヘバ元難民再定住地で始めました。これまで築いてきた自助グループの皆さんがグループのつながりを活かし、生計活動(農業)を行っていくための支援です。コミュニティのつながりを作り、自分たちの力で生活を良くする一歩を踏み出した住民の皆さんですが、依然として現金収入が乏しく、生活が苦しいことには変わりありません。その状況を少しでも改善すべく、グループの皆さんの力が最大限活かされるよう、支えていきます。今後も温かい応援、ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 粟村 友美(あわむら ともみ)
大学卒業後、マラウイの小規模農民支援NGO でインターンとして活動。帰国後、民間企業などで働きAAR へ。2013 年5 月より東京事務局でハイチ、東北、ザンビア事業を担当後、2014 年5 月より2016年9 月までザンビア駐在員。現在は東京事務局でアフリカ地域の事業を担当している。(石川県出身)