難民を助ける会 第4回沖縄平和賞受賞から1周年 ―沖縄の美しい空の下にまだ眠る負の遺産―
2008年11月、難民を助ける会は、アジア太平洋地域の平和の構築・維持に貢献した個人・団体を顕彰する、第4回「沖縄平和賞」を受賞しました。30年にわたって実施してきた人道支援活動と、その根底にある相互扶助の精神が評価されての受賞です。沖縄県は、戦争での悲惨な体験を通して実感した平和の尊さと寛容の心を、世界に発信し続けています。その一方で県内では、戦後60年経った今でも、戦争の負の遺産が住民の生活を脅かしています。沖縄県の不発弾の現状を、東京事務局の福井美穂が報告します。
1日2件も届けられる不発弾
沖縄県には、太平洋戦争中に「鉄の暴風」と形容されるような激しい砲弾が降り注ぎました。戦後に処理は行われていますが、未だに多くの不発弾が残っています。沖縄戦で使用された砲弾は約20万トン、そのうちの5%が不発弾化していると言われ、およそ1万トンの不発弾が沖縄に残されたことになります。現在まで処理された不発弾を差し引いても、およそ2,300トンの不発弾が残ったままです。
全国で組織的な不発弾調査は一度も行われていないため、正確な実態を把握することは難しいのですが、戦後の不発弾の処理件数からみても、沖縄県は、戦後一貫して日本国内の処理量の3分の1を占めています。警察庁発表による全国の届出数を見ても、2007年から2008年の届出数は、沖縄県1,339件(22,764個)が1位で、2位の東京132件(1,681個)を大きく引き離しています。これは、単純に計算しても、沖縄県では1日に約2件の不発弾情報が届けられていることになります。
60年経っても衰えない、ガラス100枚割る殺傷力
不発弾とは、「火砲から発射された砲弾や航空機から投下された爆弾等で、地上等に落下したが発火せず“不発”となったもの」のことです。安全装置が既に外れているため、何らかの衝撃でいつでも爆発し得る状態にあり、大変危険なものです。
沖縄県糸満市の水道管敷設工事現場で2009年1月に起きた不発弾爆発事故は、戦時中の米国製250キロ爆弾によるものでした。爆風で、建設機械の運転者が視力を失い、近くの老人ホームなどの窓ガラス約100枚が割れました。不発弾は、その殺傷能力が戦後60年以上経っても変わらないことが、特徴の一つです。沖縄の本土復帰後、県内では1974年に那覇市小緑で園児4人を含む38人が死傷するなど、不発弾による人身事故が11件(死者6人)も起きています。戦争の負の遺産はいまだに深刻な被害を出し続けているのです。
小学生が不発弾を拾う事件も発生!
沖縄県消防防災年報(平成19年度版)によれば、土木工事で偶然発見される「発見弾」が全体の9割を超えていますが、残りの1割は、住民からの情報に基づいて探査、発掘される「埋没弾」です。年間133件は住民からの通報ですので、市民の方々へ不発弾の知識を伝えることの重要性は、決して見過ごすことはできません。
海外では頻繁に起きていることですが、不発弾の恐さを知らない子どもが、クラスター爆弾の一部や手榴弾など、小さな不発弾で遊んでいて被害を受ける、といった恐ろしい事故が日本でも起こらないとも限りません。実際、今年1月には島尻郡南風原町の小学校で、児童が登校途中に見つけた不発弾を校内に運び込み、通報を受けた陸上自衛隊が回収するという事件がありました。
人々が安心して暮せる世界の実現のために
こうした事態を受け、難民を助ける会は今年6月23日、64回目の「沖縄慰霊の日」に寄せて理事長・長有紀枝名で声明を発表しました。
「沖縄平和賞受賞団体として、沖縄県の皆さま、沖縄戦で亡くなられた方々の平和への願いを胸に、人々が安心して暮らせる世界の実現に向け、さらなる地雷・不発弾対策事業を実施してまいる所存です。(-中略-)沖縄県は、琉球王国時代、『万国津梁』(世界の国々をつなぐ懸け橋)として活躍し、今も国際交流を重視しておられる県です。私たち難民を助ける会も、『万国津梁』をNGOの活動を通じて、実践してまいることを、『沖縄慰霊の日』に改めて誓いたいと思います。」
沖縄の子どもたちが不発弾の被害に遭うことのないよう、学校などでの啓発活動を始めるべく、沖縄県と協議中です。難民を助ける会は今後も不発弾の危険性と回避に関する発信を続けていきます。
【報告者】 記事掲載時のプロフィールです
東京事務局 福井 美穂
2009年4月より東京事務局で国際協力に関わる調査・研究を担当。大学院卒業後、難民を助ける会の旧ユーゴスラビア駐在員として勤務。その後国際協力団体でシエラレオネの難民キャンプ運営のプロジェクトなどに従事。(長野県出身)