東日本大震災10年:取り戻した笑顔、前に進むチカラ(3)
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東日本大震災(2011年3月11日)から間もなく10年を迎えます。AAR Japan[難民を助ける会]は震災発生直後に支援活動を開始し、今日に至るまで被災地の多くの方々とともに復興に向けて歩んできました。岩手・宮城・福島3県の皆さんの今の声を4回に分けてご紹介します。
障がい者のセーフティネット構築
宮城県気仙沼市 ワークショップひまわり 理事長 馬場 康彦さん 施設長 伊藤 純子さん
知的・精神障がいのある28人が洋菓子やパン製造、野菜や海産物の袋詰め作業など地域に密着した仕事に取り組んでいます。新築したばかりだった工場が震災時の火災で焼失し、職員の半数が自宅や家族を失う中、無事だった施設が福祉避難所になって約40人が集まりました。川の水を汲み、拾い集めたマキでお湯を沸かして顔を洗ったり、菓子やパンの生地を焚火で焼いて食べたり、皆で助け合って極限状態を必死に乗り切りました。
AARにパンの製造・販売所、生地製造機を提供していただき、注文が増えて運営が軌道に戻ったのは3年後だったでしょうか。AARの方が持ってきてくれたトトロの縫いぐるみは利用者や母親たちを笑顔にし、10年経った今もちゃんと残っていて、何もかも失った当時の私たちが前に進む力をもらったように感じています。他方で旧来のコミュニティのきずなが崩壊し、障がい者が安心して暮らせる環境は再構築できていません。菓子やパン作りを通じて多くの人に私たちの存在を知ってもらい、ひまわりをひとつの旗印として、障がい者のセーフティネットを地域と社会に広げていかなければと決意を新たにしています。(伊藤さん)
園児たち励ました縫いぐるみ
福島県相馬市 みなと保育園園長 和田 信寿さん
大地震が起きた時、太平洋の松川浦に面した当園の建物は無事だったものの、直後に津波が迫っていました。当時194人いた園児の大半は保護者が急いで迎えに来ましたが、勤務先が遠くて間に合わなかった約40人は、職員の誘導で脚立を使って園舎の屋根の上に避難し、園庭のすぐ手前まで海水が押し寄せるのを茫然と見守るしかありませんでした。相馬市内だけで犠牲者は約450人に上り、家族を失った園児や職員もいます。
保護者の要望もあって、震災後の混乱が続く中で園を再開しましたが、その頃にAARから届いた大量のクマの縫いぐるみに園児たちは目を輝かせ、私たち職員も救われる思いでしたね。放射線が心配で子どもたちに水道水を飲ませられず、ミネラルウォーターを7年間提供してもらったのも助かりました。2019年10月の台風19号で系列の保育園が被害を受けて、AARに助けを求めたところ、すぐに消毒液などを届けてくれました。ご縁が続いていることに感謝しています。今は震災後に生まれた園児ばかりになりましたが、防災標語を毎日唱和し、地震・津波の避難訓練を月1回実施して、命を守る大切さを教えています。