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あるカンボジア難民の半生――仙田佐武朗さん逝去に寄せて

2021年8月25日

ひとりの元カンボジア難民の男性が先頃、病気のため東京都内で亡くなった。セン・サムウンさん(享年63)、日本名は仙田佐武朗さん。ベトナム戦争終結後のインドシナ難民として1984年に来日、縁あって和菓子の老舗「虎屋」に入社し、祖国カンボジアでの歳月よりも長い37年間を日本の和菓子職人として生きた。

仙田佐武朗さんが食生活文化省の受賞席に出席し、首からメダルを下げて嬉しそうに微笑んでいる

「食生活文化賞」(2019年)を授賞した仙田佐武朗さん(虎屋提供)

セン・サムウンさんが首都プノンペンで生まれたのは、カンボジア王国がフランス領から完全独立を果たした1953年から数年後のこと。独立の高揚は長く続かず、間もなく南北に分断された隣国ベトナムへの米国の軍事介入が始まり、泥沼のベトナム戦争が本格化する。共産主義の北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が、国境を接するラオス、カンボジア領内に補給線ホーチミン・ルートを通したのに対し、米軍は1968年、同ルートへの空爆を開始。カンボジアでは1970年、国家元首シハヌーク殿下をクーデターで追放した親米派ロン・ノル政権に対抗して、シハヌークは中国の支援を受けて亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」を結成し、カンボジアは内戦に突入した。

シハヌーク殿下が頼った共産勢力クメール・ルージュ(ポル・ポト派)は、米軍のインドシナ撤退とベトナム戦争終結を目前にした1975年4月17日、プノンペンに侵攻してカンボジア全土を制圧し、悪夢のポル・ポト時代が始まる。シハヌークは「民主カンプチア」国家元首に祭り上げられたものの、首都の王宮に幽閉され、原始共産制を掲げるポル・ポト政権の支配の下、自国民の大量虐殺、飢餓や病気などで100~200万人が犠牲になった。これは20世紀アジアの暗黒の歴史として今も記憶される。

10代後半だったセン・サムウンさんは、他の都市居住者とともに地方の共同農場に追い立てられ、クメール・ルージュ兵の監視を受けながら、お椀一杯の粥を1日2回、数人で分け合うだけの食事で、朝5時から夜10時まで農作業、水路建設など過酷な労働を強いられた。自由は一切なく、密告が奨励され、子どもの告発で親が処刑されることも少なくなかった。3年8カ月におよぶポル・ポト時代、多くの人々が飢えと病気で亡くなり、知識階級とみなされた医師や教員などが「敵」として拷問・虐殺された。

親ベトナムのヘン・サムリン派の進攻によって、ポル・ポト政権は1979年1月に崩壊し、セン・サムウンさんはこの間に結婚したユーエン・ワンティーさんとともに生き延びてプノンペンに戻るが、そこで家族は全員死んだことを知った。二人は1982年、荒廃した祖国での暮らしを諦め、ひとり息子を連れて隣国タイへの決死の脱出を敢行する。地雷が埋まった国境を超えて、タイ東部の難民キャンプに2年間滞在した後、1984年に難民として日本に渡ることになった。

ボートピープルに象徴されるインドシナ難民問題は1970年後半から80年代にかけて、日本社会でも大きな関心を集めた。難民支援に消極的な日本政府に対し、「民間の力でインドシナ難民を助けよう」と、当時67歳だった相馬雪香(1912~2008年)が1979年11月に創設したのが、AAR Japan[難民を助ける会]の前身「インドシナ難民を助ける会」である。

「憲政の父」と呼ばれた明治~昭和期の政治家・尾崎行雄の三女で、日英同時通訳の先駆けとしても知られる雪香は、精力的に寄付を募るとともに、政府に難民受け入れを強く働き掛けた。「おやつを我慢して小遣いを貯めました」という小学生から、1円玉を大量に集めたお年寄りまで、全国から驚くほどの寄付が郵便書留などで送られてきた。

助ける会が身元保証人となって、来日後、難民の定住促進センター(神奈川県大和市)で3カ月間の日本語研修を終えたばかりのセン・サムウンさん夫婦を、虎屋の黒川光博社長(現会長)に引き合わせ、同社の社員として採用してもらえることになった。助ける会設立発起人のひとりでもある黒川氏は、「今から思うと本当に愚問なのですが、面接で『どうして和菓子屋を希望するの?』と尋ねると、『生きるために働かなければならないのです。仕事は選びません』という答えでした。奥さんのほうが日本語が上手で、おとなしいセンさんに尋ねても、ユーエンさんが気を遣って答えてしまう。何ともほほ笑ましかった」と振り返る。

虎屋ではセンさんは和菓子製造、ユーエンさんは包装・発送の部署に配属され、日本語を実地に学びながら、慣れない環境で必死に仕事を覚えて働いた。過去の忌まわしい記憶がよみがえることもあったが、二人は「こうして仕事をして給料をもらい、大切な家族と自由な時間が持てる今が本当に幸せです」と話していたという。虎屋の同僚たちは二人を「カンボジア難民」ではなく、職場の仲間としてごく自然に親しく接していた。センさんは時々、戦争を知らない日本の若者に平和のありがたさを語ることもあった。

二人が1997年1月に日本国籍を取得した時、仙田佐武朗さん、美保子さんという日本名を付けたのも黒川氏だった。佐武朗さんは仕事熱心なうえに、手先が非常に器用で、工場の主任として和菓子作りを担い、後に技術指導でフランスに派遣されたり、日本の食文化の発展に貢献したとして2019年度「食生活文化賞」(日本食生活文化財団主催)を受賞したりするまでになる。

数年前に定年退職した後も、虎屋の嘱託として後進の指導に当たり、穏やかな人柄で周囲に親しまれていた。美保子さんとともにひとり息子を育て上げ、平和な日本で穏やかな老後を迎えようとする矢先の早すぎる逝去だった。

カンボジアの最も過酷な時代を耐えて、奇しくも日本文化を象徴する和菓子作りに打ち込むことになり、カンボジアと日本の二つの祖国を懸命に生き抜いたセン・サムウン=仙田佐武朗、享年63。人生の最後の瞬間、その脳裏に浮かんだ風景は何だったろうか。

AAR Japan一同、謹んでご冥福をお祈りいたします。

中坪央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身

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