1995年1月17日の阪神・淡路大震災から30年を迎えます。兵庫県南部の神戸市、西宮市など都市圏を中心に6,434人の犠牲をもたらした未曾有の震災では、多数の支援団体(NPO/NGO)やボランティアが活躍したことから、同年は「NPO元年」と呼ばれ、日本社会のひとつの転換点になりました。AAR Japan[難民を助ける会]はこの時、神戸に事務所を臨時開設し、外国人居住者支援などに取り組んだ経緯があります。AAR東京事務局兼関西担当(神戸駐在)の中坪央暁がお伝えします。
あの日の早朝5時46分。西宮北口に住んでいた私は震度7の激震で目を覚まし、建物ごとひっくり返りそうな横揺れが永遠に続くかのように感じました。西宮市内では約6万世帯の家屋が全半壊して1,146人が亡くなり、山陽新幹線や阪神高速道路の高架が落下。「安全神話」が文字通り崩壊する中、鉄道もすべて止まり、私はバイクで当時勤務していた大阪・梅田の新聞社に向かいました。いつも活気ある阪神間の市街地は静まり返り、言い知れぬ不安を覚えたことを記憶しています。
AARは震災発生直後、姉妹団体とともに募金活動を開始し、東京からボランティアを派遣して炊き出しや食料、防寒具、衛生用品などの緊急配付を実施。同年10月には大火事に見舞われた神戸市長田区に臨時事務所を開設しました。縁あって事務所長になった日比野純一さんは、「長田の南駒栄公園はベトナム人など約200人の外国人、100人余りの日本人が避難するテント村ができるとともに、地域全体の支援物資の供給拠点になっていました。毎日起きるトラブルは言葉や生活習慣の違いが原因になっていて、日本人と外国人の間の誤解や偏見をなくすことが私たちの大きな課題のひとつでした」と振り返ります。
長田区は在日コリアンが多く、人口の1割近くが外国人居住者という地域。日比野さんはこの間、地元のカトリック教会に多言語のFM局を開局し、ベトナム語、タガログ語、韓国語、中国語、英語などで震災情報を順次発信していきました。外国人被災者支援として始まった同局は、30年を経た今日もインターネット放送の「多文化・多言語コミュニティ放送局 FMわぃわぃ」として運営されており、日比野さんは「国籍や文化、立場の違いがある多様な市民の共生こそが、地域社会の力になることを震災で学びました」と話します。
日本はその後、東日本大震災(2011年)、能登半島地震(2024年)など数々の震災を経験し、「数十年に一度」と言われる台風・豪雨被害も近年相次いでいます。また、海外ではインド洋大津波(2004年)、トルコ地震(2011年/2023年)などが発生しました。その多くの現場でAARは緊急支援を実施してきましたが、例えば昨年1月の能登の被災地では、初動の炊き出しや物資配付に加え、障がい福祉施設や外国人居住者(漁業技能実習生など)の支援に力を入れているのが大きな特色です。
阪神大震災当時、AAR創設者で会長だった相馬雪香(2008年死去)は「弱者罹災」という耳慣れない言葉を使って、「年輩者、障がい者をはじめ、縁あって日本に来られた外国人留学生など、自力でどうにもならない方や自力では力の及ばない人たちに対し、引き続き温かい思いやりの心を発揮していただきたいのです」と述べています。そうした人々が災害発生時により大きな不利益を被る実情は現在もあまり変わっておらず、当会ならではの被災者支援は、この雪香の言葉が原点になっていると言えるでしょう。
AARが取り組む被災者支援は30年前、ここ神戸で始まりました。そして今、震災と大雨の「二重被災」からの復興を目指す能登で、AARの支援活動は続いています。現実問題として、私たちは国内外で今後も頻発するであろう大災害に(防災・減災の観点を含めて)向き合っていかなければなりません。
30年前の光景を記憶に刻みつつ――。
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局兼関西担当
全国紙の海外特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣でアジア・アフリカの紛争復興・平和構築の現場を取材。2017年AAR入職、バングラデシュ駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。2022年以降、ウクライナ危機の現地取材と情報発信を続ける。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』、共著『緊急人道支援の世紀』ほか。