AARブログ AAR Blog

スタッフ日記[国際協力の現場から]

被災地で支援するということ:東日本大震災から15年

2026年3月13日

2011年3月11日の東日本大震災から15年を迎えました。AAR Japan[難民を助ける会]仙台事務所(2011~2019年)を拠点に、震災直後から今日まで被災地支援に携わってきた大原真一郎が、活動を支えてくださった方々への感謝の思いを込めて、歩みを振り返ります。

震災を機に支援現場へ

震災当日、私は仙台市の実家にいました。家の鉄骨が激しくぶつかり合う音が響き、体がすくむほどの恐怖を覚えました。2階の窓からは、約15キロ離れた閖上地区に津波が押し寄せ、防風林の松が倒れる様子がかすかに見えました。女川原子力発電所は無事だろうか――そんな不安も頭をよぎりました。

3月19日に社会福祉協議会でボランティア登録を行い、その後は週5〜6日、津波の被災地で泥出しや家財の搬出作業に携わりました。「地元の人間として何とかしなければ」という思いでいっぱいでした。8月に被災地支援担当としてAARに入職し、仙台事務所を拠点に、物資輸送や炊き出し、施設修繕、交流活動などに奔走する日々が始まりました。

避難所の女性2名とかご編みをする大原真一郎

仮設住宅の集会場で手芸イベントを開催。右が大原=2016年2月

原発事故の現実

宮城県での支援を2年間担当した後、私は福島県での支援を希望し、相馬事務所へ異動しました。学生時代から原発問題に関心を持っていましたが、身近な原発で事故が起きるとは想像していませんでした。
仙台から車で福島県に入ると、ガイガーカウンター(放射線測定器)の警報が鳴りました。その場所で人々が避難生活を送っている状況に、どこか非現実的な感覚を覚えました。福島では、相馬市から支援を開始し、仮設住宅で孤立防止の交流活動を実施しながら、徐々に福島第一原発に近い地域へと活動範囲を広げていきました。広大な土地の表土を剝ぎ取って袋詰めする除染作業が各地で続き、原発被害の終わりが見えないことを実感しました。

活動を支えてくれた方々

AARは、仮設住宅に入居した方々の健康維持や孤立を防ぐための交流支援に力を入れてきました。支援が届いていなさそうな仮設住宅を1箇所ずつ訪ね、マッサージや手芸、料理教室などを紹介しながら、「こんなイベントを開催してみませんか」と声をかけました。震災後の混乱に乗じた詐欺なども多く、初めて訪れる私たちが信頼を得るのは容易ではありませんでした。そんな中、川俣町農村広場仮設の自治会長だった廣野太さんは、「いいよー、いつでも」と笑顔で受け入れてくれました。

活動を重ねるうちに、仮設住宅では家庭菜園ができないことに気づきました。土壌汚染やスペース不足により、これまでほとんどの方が野菜は自給していた地域の当たり前が失われていたのです。ホームセンターで畳ほどの大きさのプランターを見つけ、「これだ」と思いました。住民自身で大型プランターとウッドデッキを作る企画を廣野さんに提案し、難しい取り組みでしたが、住民や行政を巻き込み実現してくださいました。廣野さんは作業着で自前の工具を持参し、ほどけにくいロープの結び方を教えてくれるなど、活動の中心となって参加してくれました。

写真2枚。1枚は棚づくりの作業をする男性。右は作業着の廣野さん写真

多くの住民が参加したプランターの組み立て。右写真が廣野太さん=2014年4月

二本松市旧平石小学校仮設住宅での経験も忘れられません。突然訪ねた私たちを受け入れてくださり、マッサージや手芸教室を重ね、最後は住民の皆さんと大きな東屋を作りました。調整役だった自治会長の天野淑子さんとは現在も交流が続き、私が災害支援に向かうたび励ましのコメントをSNSに寄せてくれます。避難生活の悩みや人間関係についても率直に話してくださり、深い信頼関係を築くことができました。

写真2枚。左が東屋。男性数名が壇上。右は東屋の中にいる大原と天野さん

住民のみなさんが気軽に集まり、話ができるよう設置した東屋(左写真)。右写真の左が天野さん、右が大原=2016年5月

支援の様子をご支援くださる皆さまにお伝えするため、被災状況について詳しく教えていただいたり、調整をお願いしたりすることがありました。また、国内外から取材も入り、支援を届けたみなさんに被災体験を何度も話していただく場面もありました。そのことが、皆さんの負担になっていなかったかと、振り返ることがあります。

想像を絶する避難生活のストレスの中で私たちを受け入れ、長く関係を築かせていただいた地域の皆さまには心から感謝しています。支援活動を続けることができたのは、皆さまの理解と協力があったからです。廣野さん、天野さんをはじめ、多くの方々に深く御礼申し上げます。

原発事故の辛さ

震災から15年。多くの人が新たな「日常」を過ごし始めている中で、いまだに居住が認められない「帰還困難区域」が存在します。その地域に居住していた方々は今も「避難者」のままです。原発事故は、自然災害による困難さとは違う苦しみがあると思います。物理的な故郷や家が存在するのに、帰ることができず、朽ちていく家やふるさとを見る辛さがあります。

福島第一原発では今日も、大量の水を注入して溶けた燃料を冷却し続け、その水を流し続けています。小児甲状腺がんについては福島県で多くの症例が報告されていますが、その要因をめぐっては、被ばくの影響か、大規模検査による過剰診断の影響か、専門家の間で議論が続いています。いずれにせよ、苦しみを抱える方々がいる現実は変わりません。約300km離れた首都圏に送電する巨大発電所で起こった人災は、被災地に未だ大きな影を残しています。

被ばくリスクの中、作業員が大勢働き続け、収束の見通しが数十年先と言われる中で原発が再稼働していることに、福島の方々が今もなお傷つき、地域や社会に分断が生まれている現実を思うと、胸が締めつけられる思いがします。長い年月の中で疲れを感じ、ため息しか出ないときもあります。それでも、福島で出会った人たちのことを思うと、この出来事を忘れず、支援を続けていくことが、自分がすべきことだと思っています。

大原 真一郎 OOHARA Shinichiro AAR東北担当

1967年仙台市生まれ。文教大卒。自動車関連部品メーカー(1992~2001)、環境土木関連メーカー(~2010年)の営業職を経て、2011年8月AAR入職。宮城県仙台市を拠点に岩手・宮城・福島で復興支援に取り組む。2016年熊本地震、2018年西日本豪雨、2018年北海道地震、2019年台風19号、2024年能登半島地震などでも緊急支援に従事(宮城県出身)

関連したレポート・ブログを読む

AARブログTOP

すべての種類のレポート・ブログを見る

ページ
TOP