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スタッフ紹介

「私がAARを選んだ理由」紺野 誠二 これから国際協力の分野を目指す人たちへ(23)

2021年4月2日

    AAR Japan[難民を助ける会]のスタッフがどんな想いで国際協力の世界に飛び込んだのかを紹介するこのコーナー。第23回は、コソボで不発弾を除去した異色の経験を持つ東京事務局の紺野誠二です。入職のきっかけやAARを離れた間に学んだこと、日々心にとめていることを聞きました。(聞き手:東京事務局 園城蕗子)


    「地雷の除去?聞いてないよ!」

    -この業界に入ったきっかけは。

    大学卒業後、働きながら夜間の大学院に通っていたころ、失恋しまして…。環境を一新して気持ちを切り替えようと「海外渡航」が頭をよぎったとき、たまたま新聞でAARの求人が目に入りました。「コソボの駐在員急募。主な業務は地雷プロジェクトの会計」とあったので、「お金の計算なら何とかなるだろう」と気軽に応募しました。

    毎朝7時には始業する紺野(東京事務所、2021年3月)

    -実際には、地雷除去が専門のNGO「The HALO Trust」(英国、へイロー・トラスト)に出向し、クラスター弾*の除去に専念されたそうですね。

    はい。はっきり言って「聞いてないよ!騙された!」って思いました。地雷除去なんて未経験どころか、爆発物のことなんて全然知らないし、手先は不器用だし。ただ、駐在員として来た以上、後戻りはできなかった。出向したHALOからも「きちんとやり方は教える」と言われて、もう一生のうち、二度とないくらい真剣に勉強しました。何しろ失敗したら…。

    実際に初めて除去のための爆破処理をしたときは、ビビりまくりでした。本当に「ドカーン」となるんだって。私の担当はクラスター弾の除去でしたが、不発弾がごろごろ転がっている場所もありました。1度除去(爆破処理)に失敗して、山火事になって、本当に死ぬかと思ったこともあります。同僚と必死に消火活動をして、なんとか鎮火できたからよかったですが。

    *大きな一つの爆弾(親爆弾)の中に、数発から数百発の小さな爆弾(子爆弾)が格納されている。爆破すると子爆弾が飛び散り、多くの被害者が出る。不発弾として地上に残された子爆弾も多く、戦争に関係のない住民が障がいを負ったり、命を落としたりする。詳細はこちら

    除去作業に集中する紺野。重い防具と息苦しさを伴うバイザーを装着(コソボ自治州(現 コソボ共和国)、2000年)

    今も忘れられない、アルバニア人の同僚(女性)の言葉があります。

    「紺野はうらやましいよ。こういう活動に携わる一方で、大学も卒業していて。私も本当は大学に行って、看護を勉強したかった。でも、内戦で父を亡くして、経済的な理由から地雷除去要員として働くことにした」

    そのとき自分がなんと答えたのか、覚えていません。でも、私の母親は幼少期に東京で空襲に遭って、その後経済的な理由で進学をあきらめたと言っていたので、他人ごとには思えませんでした。コソボで今起きていること、目の前の彼女が嘆いているのは、母親や一昔前の日本人の多くが経験したことと変わらないのだと。進学したくても諦めるしかない現実――「戦争ってやだな」、その思いを一層強くしましたね。

    当時の同僚たちと。左から2番目が紺野

    「誰よりも私にできること」

    -コソボから帰国し、AARを離れるまでの間は、どんな活動をされたのですか。

    次の赴任先の話があったとき、コソボで培ったことを最も活かせるのは、日本だと思いました。多くの被害者をもたらす地雷への対策は、国際的に急務の課題である一方、人も資金も不足している。その実情や支援の必要性を実体験から伝えることは、「誰よりも私にできること」だと。もちろん、「現場で感じたこと、考えたことを伝えたい」という純粋な思いも強かったです。

    当時、インターネットは今ほど普及しておらず、呼ばれれば全国どこでも講演に伺いました。2001年にTBSが開局50周年記念事業で「地雷ゼロキャンペンーン」 別ウィンドウで開きます を開催したときには、世の中の関心が飛躍的に高まって、年間に30回近くお話をする機会にも恵まれました。

    活動には、学生や社会人を中心とした土曜ボランティア(SVF:Saturday Volunteer Fevers)の方々の協力も欠かせませんでした。当時は私も毎週土曜日にも出勤して、地雷啓発のための教材作りや「地雷探しゲーム」などのイベント開催もしましたね。懐かしい思い出です。

    「参加してくれた子どもたちが、世界で起きていることに少しでも興味を持ってくれていたらありがたいです」。地雷探しゲーム(2002年頃)。左端がボランティア(SVF)、同2番目が紺野

    平日のボランティアの皆さんにも、大変支えられましたね。当時はボランティアの方々主体で組織が成り立っていました。

    業務上コミュニケーションの機会も多いし、お昼もよくご一緒したり、出張時にお土産を買ったり。帰るたびに「紺野さんおかえり、大変だったでしょ」「現場はどうだったの、詳しく聴かせて」「体調大丈夫?」と温かく迎えてくれて。母親を亡くしていたので、皆さまの心遣いがありがたかったですね。人生で大切なことの多くを、ボランティアの方々に教わりました。

    活動の中心を担っていたボランティアの方々(2001年)

    ―現在AARが行う「地雷対策」とは?

    地雷対策は、除去活動や条約によるアプローチなど、いくつかの活動指針があります。AARが注力するのは、被害を予防する回避教育と、被害者支援です。いくら除去が進んでも危険性を判断できなければ、わずかな地雷でも事故は起きます。一度被害に遭うと長期にわたって支援が求められる場合も少なくないため、被害者をサポートすることの必要性は国際的にも重要視されています。

    地雷回避教育。絵や写真を通じて危険性を伝えるポスターの配付や、ラジオやテレビのミニ番組の放送なども実施(アフガニスタン、2019年)

    ―海外の支援現場への出張も多かったそうですね。

    はい。カンボジアやスーダン、パキスタンなど、緊急支援活動などで10ヵ国ほどになります。印象的なのは、2002年に事務所の立ち上げで滞在したアフガニスタンの首都カブール。紛争直後で、夜は真っ暗。国の役所に行っても、停電していました。夕方には事務所のペンキ塗りをしているおじさんの自転車の後ろに乗っけてもらって、ホテルに帰ったりもして。今だったらまずありえないのでしょうけれど、そんなのどかな雰囲気もありましたね。

    多様な学びを、AARの外でも

    ―2008年にAARを離れたそうですね。復帰までの10年間はどんなことを?

    いろいろあって退職し、福祉の専門職大学院に進学しました。院での20代から70代の異業種の人々との出会いは、「人を支援する」とはどういうことなのか、根源的なところから考えされられました。

    今も胸に深く刻まれ、支援に向き合う上で大切にしている言葉があります。修了後の進路で、パキスタンでの障がい者の社会参加プロジェクトへの着任が決まったと指導教官に報告したときでした。

    「目標の達成も大事だけれど、それにとらわれすぎないこと。何よりもまず、障がいのある人一人ひとりと丁寧に関わりなさい」
    2年間、障がいのある方々とともに過ごしました。そこで感じたのは、障がいの有無に関わらず、得意・不得意があるし、悩んだり喜んだりする。喧嘩もすれば仲良くもなる、という当たり前のことでした。でも、そういうことって支援する立場になると見落としがちになるんですよね。

    帰国後は、精神保健を学びながら、より社会的に困難な立場にある人々の支援に従事しようと、ソーシャルワーカーとしてホームレス支援等の団体で1年強、子ども支援の国際NGOで5年働きました。紛争地などさまざまな支援現場を訪れ、AARに居たころとは違った物事のとらえ方、考え方、そして、人を支援するのに欠かせない心理社会的な支援の技術も学びました。この10年間の経験は、今の自分の支えになっています。

    紛争により心に傷を負った子どもたちに適切な対応を取るための講習で、主催スタッフとしてデモンストレーションをする紺野(パレスチナ・ガザ、2015年)ⓒSave the Children

    子どもたちがつなぐ想い。復帰を決意

    ―そうしたなか、AARに復帰したわけは?

    お話した通り、AAR在職時に多くの学校で地雷の話をさせていただきました。そのうちの一校が長崎市立福田中学校(長崎県)です。たまたま、同校が「地雷対策のため」としてAARに継続的に寄付されていることを目にしました。地雷対策への想いを、今も子どもたちがつなぎ続けている―その事実を知ったとき、「私にできることがまだAARにある」との思いを強くしました。

    ほかにも、小松市立稚松小学校(石川県)が20年以上ご支援くださるなど、多くの学校が地雷対策のためにと心を寄せてくださっています。本当に、頭が下がります。

    福田中学校の皆さん。地域で段ボールなどの資源を回収し、その収益の一部をAARに寄付されている(2014年5月当時の活動風景)

    支援者の皆さんの想いを肌で感じられるのは、本当にありがたいことです。最近も、事務所に届いた支援者の方々からの未使用のハガキや切手の整理をしていたところ、「ほんのわずかで申し訳ないけれどお役立てください」とのメッセージが多数寄せられていました。

    恐らく、AARの原点がここにあるのだと思います。発足から41年、国内外から数え切れないほどの善意が脈々とつむがれ、AARの活動は支えられている。創業者の故・相馬雪香前会長は「人間、一人ひとりが力を合わせれば、世のなかを動かすことはできるのです」と言っていました。社会のために、一人ひとりができることをする。それがたとえどんな小さなことであっても。私にとってのそれは、地雷問題への取り組みなのかもしれません。

    ―最後に、国際協力業界を目指す人にメッセージを

    そんな偉そうなことを言える立場ではありません。もともと国際協力を目指していたわけではないので。とはいえ、私が日々大切にしていることを少しだけ。

    この仕事をしていると、SDGs(持続的可能な開発目標)への貢献や、事業目標〇%の達成、ということが声高に言われます。ただ、目標の数字に追われると、目の前にいる支援を必要とする人々への意識が希薄になりかねません。だから、その数字の裏には、一人ひとりの喜びや悲しみ、人生がある―それを常に心に刻んでおくべきだと思っています。誰だって自分が「〇%」として扱われるだけだったら、寂しいじゃないですか。そのためにも、一人ひとりと真摯に向き合う、姿勢のようなものが大事なんじゃないかなと。

    私が学んだソーシャルワークでは、「技術」「知識」「価値」が支援の共通基盤と言われています。たとえば、「技術」や「知識」がなかったら、地雷の除去はできません。だから、日々研鑽していく必要があります。
    他方で、「技術」や「知識」の基盤になるのが「価値」です。ここで言う価値とは、「すべての人間が平等であること、価値ある存在であること、そして、尊厳を有していることを認めて、これを尊重すること*」です。

    これこそがまさしく、私がこれまで出会ってきた人々―ボランティアや支援者の皆さん、大学院の指導官、同級生、職場の同僚、そして何より、支援を必要とされる方々から学んだことであり、大切にしていることです。実践は難しくて、まだまだなんですけれどね。

    持ち帰った、実際にコソボで除去したクラスター弾。(AAR事務所6階で展示)「当時のことは、大変過ぎて…ねぇ。でも、今の自分があるのは、あの時があったから」

    ソーシャルワークの定義(2000年7月国際ソーシャルワーク)(PDF)

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