トルコ南東部で昨年2月6日に発生した大地震から間もなく1年。今も家を失った多くの被災者が冬の寒さの中、不自由な避難生活を余儀なくされています。その状況は能登半島地震の被災地のイメージとも重なります。12月に現地を訪れたAAR Japan[難民を助ける会]のパートナーであるフォトジャーナリスト、川畑嘉文さんの現地報告第二弾です。
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未だテント生活を送る人々
トルコ南東部の商業都市ガジアンテプから車で約1時間、カフラマンマルシュ県郊外。ほとんどの被災者たちはコンテナの仮設住居に移っていますが、すぐ近くには未だテントで生活する人々の姿がありました。それは、シリア難民たちでした。
歩いていると、ひとりの女性が話しかけてきました。避難所のリーダー的存在であるファティマさん(45歳)。テントの中に入れてもらうと、薪ストーブがあって暖かく快適ですが、それでも夜は冷え込むのでこれだけでは足りないといいます。
ファティマさんは2014年、内戦が続くシリアの激戦地アレッポから夫のムハメッドさん(45歳)とともに逃れて来ました。カフラマンマルシュ県を選んだのは親戚が先に避難していたためです。
ムハメッドさんは震災前、トルコで靴職人をして生活は安定していました。もともとトルコ系シリア人で、トルコ語が話せるのですぐに順応できたのですが、大地震で全てを失ってしまいました。暮らしていた家は全壊し、職場にも通えなくなり、今は地元の建設現場で1日700リラ(約3,500円)の日雇い仕事をしています。夏場は毎日のように仕事がありましたが、冬は雨が多く仕事が少ないため収入は途絶えがちです。
未だにテント暮らしなのは、以前住んでいた住所の登録に手違いがあり、コンテナをもらう手続きができなかったためだといいます。テントは地震発生直後にトルコ政府から支給されたもので、この場所も苦境を見かねた村長が提供してくれたそうです。
「今はパンも満足に買えません」
震災後3カ月は政府や支援団体から食料や衛生用品の配給があり、赤新月社(赤十字社)からも一人当たり月300リラ(約1,500円)の支援がありましたが、今は収入も乏しく、トルコの物価が急激に上がって生活は苦しくなりました。「これまで買えていたパンも買えないんですよ」というファティマさんは、避難所の空き地にちょっとした菜園をつくり、食料の足しにしています。食料は慢性的に不足気味で、周囲のシリア人同士お互いに分け合っているとのことでした。
これからのことを尋ねると、ファティマさんは「年老いた両親の世話をするためにアレッポに戻りたいけれど、子どもたちはトルコで生まれ、アラビア語を話すことができないので帰るのは現実的ではありません。かと言って、国籍のないトルコで子どもたちが将来きちんとした仕事に就けるのかどうかも分かりません。ただでさえ大変なのに、地震でこんな状況になってしまって……」と不安な気持ちを明かしました。
母国を追われ、新しい地で手に入れた安寧の暮らしを、大地震は一瞬にして破壊してしまいました。それでも、ファティマさんは言います。「ここでは私たちシリア人を差別する人はおらず、いつも助けてくれます。本当に感謝しています」
穏やかな生活を奪われた痛みと苦しみは、1月に起きた能登半島地震の被災地の今と重なります。他方、互いに助け合って困難を乗り越えようとする人々の姿も、また同じです。遠く離れたトルコ、能登それぞれの被災地の一日も早い復興を願ってやみません。
川畑 嘉文KAWABATA Yoshifumiフォトジャーナリスト
1976年 千葉県出身。米ペンシルベニア州立大学卒業後、ニューヨークのニュース会社に記者として勤務。9.11米国同時多発テロ事件(2001年)の取材を機に写真を始める。翌年退職、タリバン政権崩壊後のアフガニスタンに渡る。帰国後、東京の撮影事務所で撮影技術を学び、2005年からフリーランス。世界各地の難民キャンプや貧困地域、自然災害の被災地などを取材し、メディアに写真・記事を提供。ドキュメンタリー動画の制作にも携わる。