能登半島地震の発生から1年半が経ち、AAR Japan[難民を助ける会]はさまざまな団体と協働しながら復興に向けた活動を続けています。特に障がい者支援においては、地域の福祉施設や作業所に加え、ゆめ風基金などの障がい者支援のNPO法人や、きょうされんなどのネットワーク組織とも連携して支援活動を進めています。
中でも、障がい者団体の連携組織である日本障害フォーラム(JDF)は、AARにとって「パートナー」とも言える存在です。国内災害チームの生田目充は「日々、JDFの方々と綿密にコミュニケーションを取ることで、障がいのある方々の状況を把握して、ニーズに即した支援を行うことができています。JDFさんがいなければAARの活動はままなりません」と話します。

JDFとAARが共同利用する能登事務所の前でJDFの皆さんと。左から2人目が大野健志さん、中央奥がAAR生田目充
具体的には、障がい福祉事業所の復旧支援や障がいのある方の病院への送迎支援、視覚障がい者への支援などを連携して行っています。また、両者で情報を共有して、JDFが福祉制度に関する相談を担い、AARが家屋の応急処置を行うなど、それぞれの得意分野を活かして対応するケースもあります。
JDF能登半島地震支援センターでスタッフマネージャーを務め、また、きょうされんの常任理事および能登半島地震支援・災害対策本部事務局長を担う大野健志さんに、AARとの協働についてお話を伺いました。

JDF能登半島地震支援センター・スタッフマネージャー 大野健志さん
AARさんと初めて一緒に活動したのは、東日本大震災の時です。宮城県南三陸町の障がい者の福祉作業所が津波の被害を受けたのですが、高台に仮設のプレハブを建てる支援を手伝ってくれました。熊本地震の時も同じように、障がい者施設の建物や備品の支援で助けてもらいました。
付き合いは長いのですが、能登支援で深く協働するようになって、しっかりとした理念を持った人道支援団体なんだと、AARの見方が変わりました。AARとJDFとで能登事務所を共同で使うことにして、話す機会も増え、熱い人たちばかりだということも知りました(笑)。
震災直後、私たちはどこの施設が被災したかという情報は持っているのに、必要な支援を届けるマンパワーも資金も不足していました。そのような状況でAARとつながれたことは心強かったです。特に、震災から3日後に珠洲市の障がい者事業所「すず椿」に支援物資を届けてくれた時は本当にありがたかった。また、AARの生田目さんが、数年は能登での活動を続けることになる、という見通しをその時点で持っていたことも私には驚きでした。

被災したグループホーム「クオーレすず椿」に支援物資を届けるAAR生田目=2024年1月4日
言ってしまえば、私たちは障がい者支援を専門とする組織であって、災害時の緊急支援のプロではないんです。JDFは現在、能登半島地震で被災した障がい者への個別支援や障がい福祉事業所への支援を行っていますが、国内外で多くの緊急支援の実績があるAARさんと協働できることは、私たちにとって意義深いことです。
AARとの協働として一番印象に残っているのは、昨年9月の能登大雨の時です。聴覚障がいのある方が多く利用する能登町にある福祉作業所「やなぎだハウス」が氾濫した河川からほど近いこともあり、浸水被害に遭って備品などが使えなくなりました。
施設の職員の方も被災したため、JDFは職員に代わって利用者さんをサポートする人的支援に回りました。AARは、備品や什器をすぐに手配してくれました。地震に続いて大雨の被害を受けたのは本当に気の毒でしたが、普段からAARと連携していたことで、迅速な対応ができたと思っています。

福祉作業所「やなぎだハウス」で作業する利用者の皆さん
被災した人々と話していると、みんな我慢している、ということをよく感じます。ある程度信頼を深めてからでないと本音を話してくれません。その点、障がい者の方や施設の職員の方と直接話す機会が多い私たちの方が、今どのようなことで困っているのか、ニーズを拾いやすい立場にあります。
そうして得られた課題をAARと共有して、どのような支援ができるかを一緒に考え、実施しています。私たちにとっても、AARがいなければできなかった活動がたくさんあります。今後も、きめ細やかな支援を一緒に続けて行きたいと思います。
震災から1年半が経過した今も、被災地では復興に向けた課題が山積みとなって残されています。AARは、復旧できていない障がい福祉事業所への支援や、生活再建が進んでいない障がい者への支援など、誰一人取り残さない復興に向けた活動をJDFなどの団体と連携して続けてまいります。引き続きご支援くださいますよう、お願い申し上げます。