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【総論】 世界の難民問題とは

2021年8月2日

私たちはどうすればいいのでしょうか

ロヒンギャ難民アイシャさん(21歳)仮名 *2017年にミャンマーからバングラデシュに逃れたロヒンギャ難民

私たちの村は家もモスクも市場も焼き払われ、夫は兵士に殺されました。

食べるものもなく、数日間歩いて国境を越える途中、集落や田んぼ、森の中でたくさんの遺体を見ました。両親とは離れ離れになり、生きているかどうかも分かりません。

生後1年にもならない娘に今すぐ何か飲ませないといけないし、10歳の妹もお腹を空かせていますが、おカネがなく頼れる人もいません。

私たちはどうすればいいのでしょうか。

難民ってどんな人たち?

ニュースで「難民」という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。自分とは関係のない特殊な人々、何もできない無力な人々、ひどい目に遭っても仕方がない理由がある人々……。どこか遠い世界の話だと思うかも知れません。でも、本当にそうなのでしょうか。

難民とは、戦争や内戦、政治的弾圧、人権侵害などから自分と家族の命を守るために、祖国を追われるように海外に逃れざるを得なかった人々のことです。1951年に国連で採択された「難民の地位に関する条約」(難民条約)は、難民を「人種・宗教・国籍・政治的意見、または特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるか、迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れた人々」と定義していますが、近年は政治的な迫害だけでなく、紛争や人権侵害を逃れて他国に保護を求める人々が中心になっています。

こうした人々は、難民になる前は私たちと同じように家族と一緒に暮らし、仕事をしたり学校に通ったり、将来の夢を抱いて生きていました。それがある日、穏やかな日常を断ち切られ、家や財産を奪われ、家族さえ失って、住み慣れた町や村を離れなければならなくなったのです。彼らは決して特殊な人々ではなく、私たちと全く同じ対等な存在に他なりません。

「両親は爆撃で崩れた家の下敷きになって死んでしまいました。私が3歳の時に、おじさんの家族と一緒に逃げて来ました」シリア難民の女の子(9歳・右)=トルコで

「内戦で夫が亡くなり、高齢の母親と子どもたちを連れて国境を越えた。親とはぐれた孤児を何人も世話してるから大変なんだ」南スーダン難民の女性(37歳)=ウガンダで

パキスタンに逃れたアフガニスタン難民の男性

「祖国には何もない。仕事もインフラも政府もない。あるのは戦争だけだ。この歳で日雇い仕事をして暮らしているよ」アフガニスタン難民の男性(70歳)=パキスタンで

難民問題とは何か?

難民問題とは、当たり前に暮らしていた人々が人間としての尊厳や人権を奪われ、人命まで脅かされるような不条理な状況に投げ込まれる最も深刻な人道・人権問題であり、最優先で対処しなければならない人道危機です。難民問題は政治・経済・民族・宗教・歴史的背景が複雑に絡み合い、国境を越えて複数の国が関係しており、当事国だけでは解決できません。国際社会が協調して向き合うことが求められるグローバルな課題と言えます。

国連が取り組む難民問題は、もともと第二次世界大戦で生まれた欧州難民が主な対象でしたが、その後も東西冷戦や民族・宗教対立、経済格差などに起因する紛争が世界各地で相次ぎ、難民はいなくなるどころか、その数は残念ながら近年増え続けています。

個々の紛争が起きた経緯はさまざまですが、国家の破綻と内戦、自然災害が混合した「複合的人道危機」と呼ばれるより複雑で深刻な事態も発生しており、難民問題は大規模化かつ長期化しています。加えて、この20年ほどは原理主義的な国際テロ組織による紛争・テロ事件が後を絶たず、地域の不安定化と難民発生の要因になっている点も見逃せません。

では、世界全体がどんどん悪くなっているかと言えば、そうではありません。めざましい経済発展を背景に、開発途上国の最大の人道的課題だった極度の貧困率や飢餓、乳幼児の死亡率などが大幅に減少する一方、子どもの予防接種、女子の就学率、安全な水へのアクセスなどは改善しているのです。国際社会による「ミレニアム開発目標」(2000~2015年)、「SDGs:持続可能な開発目標(2015~2130年)の取り組みが着実に成果を挙げている半面、難民・避難民が増加するという矛盾した現実に目を向ける必要があるでしょう。

グローバルな緊急課題である難民問題に対処するには、国連機関や国際援助機関、各国政府、民間企業、NGO/NPOなどの市民社会が協力して取り組むことが不可欠です。難民支援の現場では、国連機関やNGOなど人道支援のプロフェッショナルが、各国政府や市民社会の広範な後押しを受けて、少しでも多くの支援を届けて、難民一人ひとりを支えるために活動しています。

そうした難民支援の目的は、難民を保護して命を守ること、あるいは食料を配付したり医療を提供したりすることだけではありません。理不尽に奪われた自由と人権を保障し、彼らの尊厳を回復すること、そして人々の平和な生活と人生を取り戻すことにあります。それは決して容易ではありませんが、そこにしかゴールはありません。

先進国で暮らす私たちにとって、難民問題は本当に他人事なのでしょうか。世界中のどんな地域でも、航空機に乗れば2~3日で行ける21世紀の今日、紛争地や難民キャンプは、テレビやインターネットの映像で見るだけの遠い世界の出来事ではなく、今この瞬間、この地球上で起きているリアルな現実です。

良いことも悪いこともすべてが瞬時につながるグローバル化した今日の世界にあって、紛争を終結させ、あるいは抑止し、難民・国内避難民を救い、地域に平和と安定をもたらすことは、私たちの平和な暮らしを守ることにもつながります。難民支援は「かわいそうな人々を助けてあげる」ことではなく、グローバルな安全保障の問題でもあるのです。

もう一度考えてみてください。難民の人々の苦しみ、悲しみを理解し、手を差し伸べられるのは、同じ世界で同じ時代を生きる私たちしかいないのだということを。

 

世界の難民・国内避難民は今

紛争や迫害などが原因で故郷を追われた人々のうち、国境を越えて海外に逃れた人々を「難民」自国内の他の地域に避難している人々を「国内避難民」と呼びます。難民と国内避難民は海外・国内の違いはあっても、過酷な避難生活を余儀なくされ、支援を必要としている点で全く同じ境遇にあります。

世界の難民・国内避難民は近年、増加の一途をたどっており、約8,240万人に上ります(2020年末時点)。これは世界人口の1%以上、日本の人口の6割超に当たります。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、その内訳は難民2,640万人、国内避難民4,800万人、庇護希望者(難民申請者含む)410万人。難民・避難民全体の42%を18歳未満の子どもが占めており、親を失った子どもたちも少なくありません。

世界の難民・国内避難民などの推移(出典:UNHCR Global Trends 2020を加工)

 

難民はどこで生まれているのでしょうか。世界の難民の3分の2は、次の5カ国の出身者です。1)シリア670万人、2)ベネズエラ400万人、3)アフガニスタン260万人、4)南スーダン220万人、5)ミャンマー110万人。このうち中東のシリアでは、2011年から続く内戦で国土が荒廃し、人口の約3割が難民として周辺国に流出しています。

他方、難民を受け入れている国は、1)トルコ370万人、2)コロンビア170万人、3)パキスタン140万人/ウガンダ140万人、4)ドイツ 120万人の順です。難民の85%は、経済的に恵まれているわけではない開発途上国に受け入れられているのが現状です。

 

 

 

難民の歴史

国際社会で「難民問題」が注目されるようになったのは、第一次世界大戦後のロシア革命(1917年)、トルコ・オスマン帝国の崩壊(1923年)など、政治・社会体制の大変革に際して、新しい体制になじめない多くの人々が海外に逃れたのがきっかけでした。

第二次世界大戦の前後には、ユダヤ人難民をはじめとする大量の難民が欧州の広範な地域で発生しました。国際社会は1945年に誕生した国連(国際連合)を中心に、深刻化する難民問題への対応を図り、1949年に国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、1950年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が設立されました。UNHCRは当初、3年間の期限付きで発足しましたが、その後更新が繰り返され、最終的に「難民問題が解決するまで」延長されて今日に至っています。

1951年には国連で「難民の地位に関する条約」が採択され、これを補完する「難民の地位に関する議定書」が1976年に採択されました。一般には同条約と議定書を合わせて「難民条約」と呼ばれています。

欧州が中心だった難民問題は、1960年代にアフリカ大陸、1970年代にアジア地域に広がり、東西冷戦下の1980年代には主に東側から西側への難民流出が起きました。冷戦終了後の1990年代に入ると、それまでの東西対立の構図が崩れて民族紛争・地域紛争が各地で噴出し、20万人以上が犠牲になったユーゴスラビア紛争(1991~2001年)をはじめ、ソマリア、シエラレオネ、ルワンダ、ブルンジなどアフリカ諸国で内戦が続発しました。

2000年代になっても難民の発生は止まりません。2001年の9.11米国同時多発テロ事件に続くアフガニスタン紛争、中東のイラク戦争(2003~2011年)、シリア内戦(2011年~)と戦火が止むことはなく、難民の流出が続いています。最近では、独立後間もない南スーダンでの衝突再燃による難民流出(2013年~)、ミャンマーの武力弾圧を逃れたイスラム少数民族ロヒンギャのバングラデシュ大量流入(2017年~)など、大規模かつ深刻な人道危機が相次いでいます。

難民問題の解決法は?

難民問題はどうすれば解決するのでしょうか。それには、1)難民の本国への帰還、2)難民を受け入れた国での定住、3)第三国への移動・定住――という3つの解決策があります。

最も理想的なシナリオは、例えば紛争が終結して、難民が安全な環境で祖国や故郷に帰還し、平和な暮らしを取り戻すことです。この時に重要なのは、再び迫害を受ける恐れがある地域に難民を送り返すことを禁じた国際的ルール「ノン・ルフールマン原則」を遵守し、難民の自発的で安全かつ尊厳を持った帰還でなければならないということです。国連やNGOが常駐して、本当に安全が確保されているかどうか継続的に見守る必要もあります。

実際には難民問題が短期間で解決することは少なく、10年20年と長期化するのが通例です。それは難民だけではなく、難民を受け入れている国・地域にとっても大きな負担になり、地元住民と難民の確執を生む現実があります。他方で、受け入れ国の政府が自国の社会に貢献できると判断した難民を選んで国籍を付与したり、地域開発の原動力として定住を認めたり、比較的寛大な政策をとっている事例もあります。

また、難民が最初に保護を求めた国(難民キャンプなどがある国)から、新たに受け入れを認めた別の国に移って生活する「第三国定住」という方法もあります。主な受け入れ先は米国、カナダ、オーストラリア、欧州諸国などで、日本も少人数を受け入れています。しかし、第三国定住を認められる難民は全体のほんのひと握りに過ぎず、抜本的な解決策とは言えません。

いずれの解決策も実現は容易ではなく、数百万人規模の難民を救済するのは実際には困難を極めます。それだけに、難民問題はその出身国・受け入れ国だけではなく、国際社会が協調して取り組まなければならない課題と言えます。

 

 

インドシナ難民と日本社会

日本は難民の受け入れに消極的だとして、しばしば批判されますが、人道的配慮から難民に大きく門戸を開いた時期があります。1975年のベトナム戦争終結と相前後して、新たな政治体制になったインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)で、体制になじめない百数十万人の人々が海外への脱出を図りました。1970年代後半から1980年代前半にかけて、いわゆる「ボート・ピープル」と呼ばれる難民が日本にも漂着し、日本政府は1978年、難民の定住を認めることを決定しました。

日本は2005年までに1万1,319人のインドシナ難民の定住を受け入れるとともに、2010年以降はミャンマー難民などの第三国定住を受け入れていますが、その規模は非常に限られており、現時点では試験的な取り組みに留まります。また、インドシナ難民問題をきっかけに、日本は1981年に「難民条約」に加入しました(1982年発効)。

まさにこの時期に誕生したのが、AAR Japanの前身である「インドシナ難民を助ける会」です。国際的な平和運動に関わっていたAAR初代会長の相馬雪香(故人)は、インドシナ難民の受け入れを政府に働き掛ける一方、民間の力で問題解決に取り組もうと、1979年10月に会を創設しました。活動資金をどうするのかと尋ねられた相馬は、「日本の国民がひとり1円ずつ出せば1億2,000万円になる」と言って、テレビやラジオ、新聞を通じて募金を呼び掛けたところ、全国から寄付が続々と届き、4カ月も経たずに目標額が集まりました。当時は日本社会でもそれだけ難民問題への関心が高かったのです。

助ける会では、相馬が自らタイ・カンボジア国境の難民キャンプに支援物資を届けたり、日本で暮らすことになったインドシナ難民の身元保証や就労支援を行ったりしました。その後も元難民の方々が日本で自立して生活できるように、日本語などの学習支援、奨学金や生活支援金の支給、就労支援に地道に取り組み、そうした活動はAARの姉妹団体である社会福祉法人「さぽうと21」(1992年設立)に引き継がれて現在も続いています。

 

 

AAR Japanの取り組み

インドシナ難民支援を目的に発足したAARは1984年、アフリカで人道支援活動を開始するのに伴って「難民を助ける会」と改称しました。1991年から紛争下の旧ユーゴスラビアで難民支援を実施するなど、その活動地域はアジア・中東・アフリカをはじめ世界各地に広がっていきました。

 

団体名の通り、AARの原点は難民支援ですが、そこから派生する形で紛争地の地雷・不発弾対策、開発途上国の感染症対策・水衛生改善、障がい者支援など、現場で必要とされる分野に活動領域が少しずつ広がりました。海外だけでなく、1995年1月に起きた阪神・淡路大震災をきっかけに、日本国内と海外で起きた大規模災害の被災者支援に取り組み、国内では特に災害時に支援から取り残されがちな障がい者への支援に力を入れるようになりました。2011年3月の東日本大震災の被災地では、発生直後の緊急支援から、地域の復興に寄り添う中長期的支援まで、10年を経た今も現地で活動を続けています。

AARが今日、国内・海外で取り組むさまざまな分野の人道支援活動は、すべてインドシナ難民をはじめとする難民支援が原点なのです。「困った時はお互いさま」というAARの基本精神は、それぞれの活動に脈々と引き継がれ、日本と世界に広がっています。

 

中坪 央暁

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身 (記事掲載時のプロフィールです)

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