「可能性の祭典」開催に寄せて 田口 亜希さん (元パラアスリート/JOC理事)
2021年8月17日
五輪に続いて8月24日に開幕する東京2020パラリンピック競技大会。新型コロナウイルスの感染拡大が続く厳しい環境での開催となるが、世界のパラアスリートが集う最も重要な国際大会という位置付けに変わりはない。ライフル射撃選手としてパラリンピック3大会に出場した元パラアスリートで、今年6月に日本オリンピック委員会(JOC)理事に就任した田口亜希さん=(公財)日本財団パラリンピックサポートセンター所属=に、障がい者スポーツの役割とパラリンピックの意義について伺った。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2021年7月27日にインタビュー)
「残されたものを最大限生かせ」
――さまざまな論議がある中で東京パラリンピックが開幕します。パラリンピックの意義、期待することをお話しください。
田口氏 「平和の祭典」五輪に対して、「可能性の祭典」と呼ばれることもあるパラリンピックには、いろいろな側面があります。障がいのある選手たちが純粋にスポーツを楽しみ、トップ・オブ・トップを目指して競い合うだけではなく、多くの人々に障がいとは何かを知ってもらう意味があるんですね。
「パラリンピックの父」とされるルートヴィヒ・グットマン博士(ドイツ出身/1899~1980年)は、「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という有名な言葉を残しています。例えば、両腕がない卓球選手が足指でラケットを持ち、口で球を上げてサーブするとか、同じくアーチェリー選手が両足で弓を構え、口にくわえて矢を放つとか、とてもできないだろうと思うようなことを見事にやってのけています。
初めてパラリンピックを観た知人が「障がいのあるアスリートたちが実に生き生きと活躍する姿に驚いたし、あんなに多く障がいの種類があることにも驚いた。それと同時に、ふだん障がい者を見かけることはあまりないけれど、世の中には絶対にたくさんいるはずで、そういう方々がもっと外に出て来られるような環境を作らなければいけないと思った」と話してくれました。
誰もがスポーツに挑戦できる訳ではないにせよ、障がいを理由に引きこもりがちだった方がテレビでパラリンピックを観て勇気付けられ、自分も競技を始めて選手になった例もあります。もちろんスポーツが全てではありませんが、障がいのある人もない人も、何かに気付くきっかけになると思っています。
社会へのインパクトという点では、東京開催が決まって日本でもバリアフリーが進みました。まだまだ完全ではありませんが、政府の委員会でも積極的に論議され、パラリンピック関係者だけではなく、さまざまな障がい者団体が集まって話し合う場ができました。それぞれの立場で意見が出されていて、私はバリアフリー化の予算が限られている中では、「今は不充分だけれど、次の改修や建て替えの時には必ずこうしましょう」というふうに考えています。
リハビリの中で出会った射撃競技
――ご自身、車いすのライフル射撃選手として活躍されましたが、どのような経緯でパラスポーツに出会ったのでしょうか。
田口氏 大学を卒業して郵船クルーズ(株)に入社し、旅客船「飛鳥」のパーサーとして接客しながら世界中を航海していました。ところが25歳の時、脊髄の血管の病気を発症して自力で歩けなくなり、車いす生活が始まりました。それまで何でも自分でできているつもりでいたのに、突然何もできなくなり、「なぜこんなことに…」と落ち込みました。ちょうど長野で冬季五輪・パラリンピック(1998年)が開催され、リハビリの先生や母親に「テレビでパラリンピックやってるよ」と言われても見るのが辛かったですね。
それでも何かできることを見つけようと、たまたまリハビリ中に知り合った友人に勧められて、退院後に射撃を始めました。子どもの頃から運動神経が良いほうじゃなくて、球技や格闘技のように相手と向き合う競技ではなく、ひとりで集中する種目が向いていたんでしょうね。
練習すれば成績が上がるのが面白くて、競技大会でも優勝するようになったのですが、それでもまだパラリンピックを自分のこととしては考えていませんでした。自分が「障がい者スポーツ」の世界に入ることが怖かったのだと思います。
日本郵船(株)に復職してデスクワークをする傍ら、競技を続けるうちに転機が訪れます。国際大会の代表に選ばれてドイツに遠征したのですが、体調を崩して途中棄権してしまったのです。せっかく遠征費を工面してコーチやスタッフも同行してくれたのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、競技者としてもっと真剣に取り組まなければと決意しました。
忘れられないアテネの経験
――パラリンピック3大会(2004年=アテネ、2008年=北京、2012年=ロンドン)に連続出場されました。一番記憶に残っていることは何ですか。
田口氏 最初に出場したのがアテネ大会です。日本メディアの取材も受けたのですが、直前に開かれていた五輪の扱いとは比べ物にならず、自身も「まあ、パラリンピックだからこんなものだろう」と思っていました。
ところが、開会式に参加すると、オリンピック・スタジアムは満席で盛り上がっており、入場行進の時に「ジャパン!ジャパン!」と大きな歓声と拍手が聞こえて、私は涙が止まりませんでした。もちろん日本だけを応援している訳ではなく、ギリシャの方々が各国選手団に声援を送ってくれたのですが、私自身は日本代表である誇りを強く実感しました。
大会中にアテネの街を車いすで歩いていると、市民の皆さんが気軽に声を掛けてくれたり、競技で負けた後もボランティア・スタッフが「素晴らしい試合だったね」「入賞おめでとう!」と讃えてくれたり……皆さん、本当に優しいんですよ。
人って何て素晴らしいんだろう、これがスポーツなんだ、パラリンピックなんだって心が震える思いでした。そして、私も人のために役立ちたい、自分にできることは何だろうと改めて考える機会になりました。発病前は何でも自分でできると無意識に思っていましたが、そもそも人は助け合って生きているんだということにも気付かされました。やはり最初のパラリンピックは特別の経験でしたね。
その後出場した北京、ロンドン大会でもメダルには手が届きませんでしたが、そうした経験を踏まえて、(一社)日本パラリンピアンズ協会副会長、スポーツ庁の参与などに選任され、障がい者スポーツとパラリンピックの振興に取り組んできました。今回は東京2020聖火リレー公式アンバサダーに加えて、選手村の副村長を務めています。
オリ・パラ一体化の経緯
――1964年の東京五輪の後にパラリンピックも開催されているのですが、注目度は高くありませんでした。現在は「オリ・パラ」と呼ばれて、オリンピック・パラリンピックが一体のものとして扱われていますね。
田口氏 私がお声掛けいただいてオリンピック・パラリンピック招致委員に参加したのは2009年で、その時は結局リオデジャネイロ開催が決まった訳ですが、ここで大きな出会いがありました。コペンハーゲンでIOC(国際オリンピック委員会)総会が開かれ、東京を代表してオリンピアンの室伏広治さん(ハンマー投げ/現スポーツ庁長官)、荒木田裕子さん(バレーボール)、小谷実可子さん(シンクロナイズドスイミング)、パラリンピアンは河合純一さん(競泳)と私の計5人でプレゼンテーションしました。
すでに欧米ではオリ・パラが一緒に活動しているところもありましたが、日本ではまだ五輪選手・パラリンピック選手は練習場も違ってほとんど交流がなく、オリンピアンは私たちにとって遠い存在でした。
ところが、思いがけず小谷さん、荒木田さんがとても親しく接してくれたんですよ。室伏さんも「同じアスリートとして一緒にやっていこう」という考えを持っていて、それから会議やイベントに声を掛けてくださって、お付き合いが始まりました。
当時は日本では五輪は文部科学省、パラリンピックは厚生労働省の管轄に分かれていました。その後、東京開催が決まってオリ・パラは文科省に一元化され、2015年に設置されたスポーツ庁に引き継がれます。
具体的な成果としては、東京都北区にあるナショナル・トレーニングセンター(NTC)は従来、五輪選手のための施設で基本的にパラアスリートは使用できませんでしたが、2019年6月に新棟NTCイーストが完成し、同じ練習場を共同利用するようになりました。
とても大きな一歩でしたが、NTCがいくらバリアフリーの施設でも、最寄り駅からのアクセスがバリアフリーでなければパラアスリートが自分で通えません。そこで開設前に私たちパラリンピアンズ協会で車いすのスロープ、点字ブロックなど周辺のバリアフリーチェックを行い、各方面に報告して必要な是正を進めていただきました。
もちろん、これはNTCを使うアスリートだけの問題ではありません。日本国内にあるさまざまな公共施設でバリアフリー化を進める際には、高齢者や障がい者を含めてすべての人々が利用しやすいように、アクセスのバリアフリーも考える必要があるということを関係する皆さんにお伝えしました。
パラリンピックの地位向上には、オリンピアンなどアスリートが大きな影響を及ぼしてくださってます。これは有名なエピソードですが、テニスのロジャー・フェデラー選手(スイス)が日本人記者から「日本から世界的選手が出ないのはなぜだと思うか?」と質問され、「何を言ってるんだ?(車いすテニスの)国枝慎吾がいるじゃないか」と答えたんですよ。同じアスリートとして国枝選手へのリスペクトの気持ちを感じました。
正直なところ、私たち自身が主張するよりも、世界的な有名選手がこういうふうに発信してくれると、やはりインパクトがありますよね。今回の東京開催に向けて、日本政府や東京都トップも「パラリンピックの成功なくして五輪の成功なし」と繰り返し述べておられ、パラリンピックの存在感は急速に高まったと思います。
多様性を認める共生社会
――障がい者に対する社会の意識は、まだまだ多くの課題はあるにせよ、ひと昔前と比べて変わってきているように感じます。パラスポーツが障がい者、あるいは社会全体に発するメッセージとは何でしょうか。
田口氏 今回の五輪・パラリンピックでは、大坂なおみ選手、八村塁選手のようなさまざまなルーツを持つアスリートが日本代表として活躍するなど、これまで以上にダイバーシティ(多様性)が共有されています。性的マイノリティを公表して出場する選手も増えました。パラスポーツもメディアで紹介され、注目度が高まっていますが、他方で私はパラリンピックだけが特別だとか、スポーツ選手が偉いなどとは全く思っていません。
日本にも世界にもたくさんの障がい者がいて、その一人ひとりを置き去りにしてはいけないと感じています。障がい者の中には際立った特技や専門性を持つ方もいて、そうした能力を生かして企業に雇用されたり、活躍したりできる環境を実現しなければなりません。それは障がい者が一方的に助けてもらうのではなく、自分自身でできること、貢献できることを通じて、誰もが助け合える共生社会を築くという意味です。
私自身が強く感じてきたことですが、人のためになる、人のために何かできたというのは大きな喜びでもあります。互いを認め合う社会を創るために、私も少しでも貢献できればという思いで活動しています。
知ってもらうことの大切さ
――AAR Japanは東南アジアの障がい者の職業訓練、障がいの有無に関係なく一緒に学ぶインクルーシブ教育支援、東日本大震災の被災地など日本国内の障がい福祉施設の支援に力を入れています。こうした取り組みに対する評価とアドバイスをお聞かせください。
田口氏 私はパラスポーツに長く関わっていながら、AARのように国内外で障がい者支援に取り組む団体があることを認識したのは、数年前に日本郵船の広報グループ社会貢献チームに着任してからなんですね(今年6月退職)。
そこでさまざまな素晴らしい活動を知りましたが、障がい者支援というと一般の方々にはハードルが高いというか、何かしたいという気持ちはあっても踏み出しにくい。そのハードルを越えるには、チャリティ・チョコレートを買うとか、障がい者が働く共同作業所の商品を購入するとか、ちょっとしたことから始められるように情報発信することが大切なのではないかと思います。
私もどこか訪問する時の手土産に障がい福祉施設で製造されたお菓子を贈るようにしていて、「このクッキーはこういう人たちが作ったんですよ」とひと言書き添えると、相手の方が興味を持って、ご自分でも注文してくださったりします。そんなふうにして、まず障がい者のことを知ってもらう、自分にもできる支援があることを知ってもらうという、きっかけ作りが大切だと感じますね。
今では社会全体の意識が変わってバリアフリーも徐々に進み、まだまだ残念な思いをすることもあるとはいえ、東京では車いすに乗っているくらいでは注視されたりしなくなりました。講演活動などで全国各地を訪れると、こうした意識の変化がどこまで地域に波及しているのか不安に感じる時もあります。
しかし、ここ数年はパラリンピアンが学校で講演する機会も増えて、子どもたちのほうがパラスポーツのことをよく勉強していたりするので、地道に理解を広げていく必要があると考えています。私たちの社会はもっと変わっていけるはずです。
「広げること」をレガシーに
――五輪・パラリンピックではレガシー(未来に残す遺産)がとても重視されます。東京パラリンピックでは何がレガシーになるのか、競技の見どころや楽しみ方と合わせて教えてください。
田口氏 私の母親は57年前、開通したばかりの新幹線に乗って大阪から東京五輪を見に行った時のことを繰り返し語るんですね。忘れられない衝撃的な出来事だったのだろうと思います。その五輪・パラリンピックに娘の私が関わることになるなんて、想像もしなかったでしょうね(笑)。改めて調べてみると、前回の東京パラリンピックも報道されなかった訳ではなく、ちゃんと新聞記事や映像も残っていますが、それっきりで終わってしまいました。
今回はパラスポーツを通じて、障がい者を含むすべての人々が共生する多様な社会の実現に向けて、東京パラリンピック開催の意義を広げていくこと、残していくことをレガシーにしたいと私は考えています。東京は世界で初めて2度目の夏季パラリンピックになるので、閉幕したらそれで終わりであってはなりません。
私たちパラアスリートは近年の「企業の社会貢献」の流れもあって、企業や社会から守られ、ある意味で恵まれています。今度はそれを社会に還元していくために、私たち自身がしっかりしなければならないと気持ちを引き締めています。日本と世界の誰もがコロナ禍に直面する今、パラアスリートが活躍する姿を通して、いかに困難を乗り越えていくか、多くの人々と一緒に考え、共有していけるように願っています。
見どころですか……私としては射撃を見てほしいのですが(笑)。車いすに座って撃っているだけに見えるかも知れませんが、私の場合は腹筋が効かないので、上体を安定させて照準するのが結構大変なんですよ。
パラリンピックではぜひ、個々の選手たちが残された身体機能をいかに生かしているかに注目していただきたいですね。パラ陸上の選手が装着するブレード(義足)を見て、「ああいう特殊な器具を使えば早く走れるのは当然じゃないか」と思う人もいるようですが、あのブレードを使いこなすための努力、強靭さは並大抵のものではありません。テニスにしても、車いすを左右に操りながらボールを打ち返すなんて、普通では想像できないほど本当にすごいことです。
そして何よりも、パラスポーツを純粋にスポーツとして楽しみ、応援していただきたいですね。スポーツである以上は勝ち負けがあり、強い・弱いがあります。障がい者だからではなく、五輪と同じように勝った選手を讃え、負けた選手もまた讃えてほしいと思います。
ひとこと 駆け出しの新聞記者だった30年ほど前、障がい者スポーツ関係者から「私たちの目標は〝障がい者ネタ〟として新聞の社会面に載るのではなく、スポーツ面で報じられること」と聞かされ、そんな時代が来るかなあと思った記憶がある。今となっては不明を恥じるしかないが、多くの人々の努力でパラスポーツの認知度は飛躍的に高まった。東京パラリンピックは日本社会に何を残すだろうか。(N)
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局
全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身 (記事掲載時のプロフィールです)