輪島の再生目指して「豊かな食文化」を発信 池端隼也さん(シェフ)
2024年5月24日
能登半島地震で壊滅的な被害を受けた石川県輪島市では、復興に向けた懸命の努力が続く一方、多くの倒壊家屋がそのままの姿で残され、地域再生の道のりの険しさを物語っています。地元でフレンチレストランを営んでいたシェフの池端隼也さんは、震災発生直後から仲間とともに炊き出しに取り組み、AAR Japanは資金面で活動をサポートしてきました。炊き出しに込めた思い、故郷・輪島のこれからについて聞きました。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2024年5月14日にインタビュー)
生業を取り戻す今が一番難しい
――1月1日の地震発生から4カ月半が経ちますが、輪島の現状はどうですか。
池端さん 何も変わっていないのがとても不安です。水道や電気の復旧、仮設住宅の建設などが進み、復興に向けた取り組みが続いているのは確かですが、倒壊した民家の多くが解体・撤去されずに放置され、街の風景は震災直後のままです。震災5日後の1月6日に交差点の信号機が点灯しただけで、「復興が始まるんだ!」って感動したのを覚えていますが、その後4カ月以上、そういう心の支えになる目に見える動きがないことを危惧しています。
飲食業に携わる者なら誰でも同じですが、こんな状況だからこそ、早く街に明かりを灯したい、店を再開して皆が集まって語り合う場を提供したいって思います。僕たちが今、目標としているのは生業(なりわい)を取り戻すこと。火災で全焼した輪島朝市の近くにある料理店が残念ながら廃業すると聞き、そこを買い取って、料理人仲間と一緒に新しい店を開業する準備をしています。夏頃のオープンを目指して、内装や調理場の改修、ガス台や調理具などの搬入を進めているところです。
震災後しばらくは、皆が懸命に助け合うしかありませんでしたが、3~4カ月経って少しずつ状況が落ち着いてくると、僕の周囲でも輪島を離れて金沢とか他所に移って行ったり、今までの仕事を諦めて商売替えしたりせざるを得ないなど、それぞれが厳しい現実を突き付けられて決断を迫られています。そういう移行期に差し掛かっているということです。これまで頑張り続けてきて、今、精神的に潰れかけている知人もいて、本当に厳しい時期だと感じます。
店は損壊…直後に炊き出し開始
――地震で店と自宅が損壊したにも関わらず、すぐに炊き出しを開始されたそうですね。
池端さん 地震が起きたのは、スタッフと初詣に行って、車を運転して輪島に戻る途中でした。穴水町に差し掛かった時に激しい揺れがあって、目の前で路面がパキパキ割れ始めたんですよ。とても帰れる状況じゃなくなって、近くの穴水消防署に行くと、備蓄用の飲料水やカップめんがたくさんありました。電気も水道も止まって真っ暗でしたが、僕は電気自動車に乗っていたので、消防署で借りたケトルをつないでお湯を沸かし、近所の人や帰宅できなくなった人たちにカップうどんをふるまったのが元日の夜でした。
2日朝に輪島にたどり着くと、実家は「準半壊」していたものの、幸い家族は無事でした。しかし、築100年の古民家を改装した店は完全に潰れてしまいました。重さ100キロ以上あるオーブンがひっくり返り、調理場も店内も滅茶苦茶になってて……。作家ものの食器もあったんですが、とても取り出せる状態じゃない。あまりの惨状にぶわっと涙が出ました。
でも、不思議なことに数分後には開き直って、じゃあ今何をすればいいのかって考え始めていました。店は失ったけれど、スタッフや料理人仲間の無事を確認して、ごく自然に「じゃあ、とりあえず炊き出しやろう」と。うちの店も仲間のところも、正月営業に備えて冷蔵庫に食材がいっぱい詰まっていたんですよ。水道も電気もないけれど、近くのガス屋さんに頼んでガスと五徳を用意してもらい、近所のイタリアンと和食の料理人たち4人で2日夜から炊き出しを始めました。
一日最大1,800人分の食事を提供
――2月に池端さんの炊き出し現場を訪ねた時、地域の皆さんが次々に立ち寄っては、言葉を交わしながら料理を受け取っていく様子が印象的でした。
池端さん 物流ルートの国道249号が通行止めになって、最初は自衛隊を含めて支援物資が届かない状況だったんです。一方で数百人を収容する避難所が市内に何カ所もあることが分かってきた。地震が起きてから何も食べていないという人がたくさんいて、温かい料理に「ありがとう」って涙を流して喜んでくれることもあったんですよ。料理人として当分の間、炊き出しを続けようと決心し、冬場の1~2月頃は最大で1日1,800人分を提供していました。
炊き出しメンバーはいろんなジャンルの料理人や鮮魚店店主など20人ほど、全員が被災者です。輪島市が管理する長屋風の輪島塗見学施設を使わせてもらい、大鍋を持ち込んで厨房にしました。断水中なので給水車や山の泉からタンクに水を汲んで、野菜を洗ったり料理に使ったり。ありがたいことに、普段から付き合いがある近隣の農園、地元の干物店、仲間の漁師などが食材を届けてくれました。
避難所の食事というと、お握りやレトルト食品、カップめんとかになりがちだけど、それでは栄養バランスが悪いし、単調で飽きてしまうでしょ。僕たちの炊き出しでは野菜をたっぷり使って、シチューや八宝菜、サバカレー、つみれ汁など手に入る食材で日々工夫しました。
高齢化が進む奥能登では避難所もお年寄りが多いので、塩分を控えるなど健康面にも気を配って。直接お渡ししたり、避難所ごとに人数分を運んでもらったり、できるだけ温かい料理をお届けして、皆さんにとても喜んでいただきました。
断水が長引く中、地元行政としても住民への炊き出しが必要ということで、輪島市から正式な要請を受けて、2月以降は被災者1食あたり400円の公的助成があります。市内14カ所の避難所に加え、市役所や消防署、復旧作業にあたる工事関係者などにも利用していただいてね。
当初から使っていた施設の都合で、4月中旬に市街地から少し離れた海辺にある漁協の加工場に拠点を移し、今は1日300食ほど用意しています。ピークを過ぎたので、メンバーも毎日ではなく交代制にして、それぞれキッチンカーで営業したり、飲食店でアルバイトしたり、個々の仕事も入れながら活動を続けているところです。
多くの仲間や支援に助けられて
――炊き出しを通じて感じたこと、気付いたことはありますか。
池端さん 料理人として自分がやるべきことが見えたという思いがありますが、同時に多くの人に支えられていることを実感します。料理人仲間や農業・漁業の生産者、地元のいろんな人たちとのきずなが深まりました。
炊き出しを受け取りに来られた方と会話したり、食材を提供してもらったり、市役所とつながりができたり……それまで知らなかった人とたくさん出会えたことも大きいですね。輪島は生まれ故郷なんですが、いろいろと新しい接点が増えました。飲食店をやっていると分かるのは、この地域は「〇〇の会」みたいな集まりが多くて、コミュニティの結束力が強いこと。もちろん震災は不幸な出来事だけど、炊き出しによって地域のつながりを再確認できた面もあります。
外部の皆さんからの支援も、とても大きな力になりました。1月初旬の立ち上げの段階で、災害時の炊き出しを専門とする米国のNGOが、調理具や食材をパーッと手配して届けてくれて。早い時期から1,000人分以上の炊き出しを続けてこられたのは、そのおかげです。
AARさんはメンバーの人件費をカバーしてくれたり、調味料をまとめて届けてくれたり、本当に助かりました。プロの料理人たちは収入が途絶えた中、炊き出しをやっていた訳で、「人件費を出しましょうか」と言ってもらった時は、AARの方が神様に見えましたよ(笑)、いやホントに。大阪でお世話になったシェフが輪島まで応援に来てくれたのも嬉しかったなあ。
離れて気付いた故郷の素晴らしさ
――そもそも生まれ故郷の輪島でフレンチのシェフになった経緯は。
池端さん 10代の頃は能登が嫌でね、「こんな田舎、早く出たい」とばかり考えてました。高校を卒業して大阪の調理師専門学校に進学し、卒業後はフランス料理店で6年間働いたんですが、その店のシェフに連れて行ってもらったフランスの印象が忘れられなくて……。25歳の時に思い切って料理修行に行きました。パリやブルゴーニュなど各地の店で4年ほど働かせてもらって、いろんなことが新鮮で楽しかったですよ。
帰国後、大阪で自分の店を持つ準備をしていたんですが、輪島に一度帰った時、知人からケータリングの注文が入って。地元の食材を使って調理するうちに、「ああ、輪島って海産物も野菜もこんなに豊富なんだ」って初めて気付いたんですよ。若い時と違って経験を積んで、いろんな土地を見て来たことで、やっと故郷の素晴らしさを認識できたんでしょうね。
そういえば、フランスでもブルゴーニュとかバスクとか、田舎というか地方の方が自分としては居心地が良かった。急に思い直して、借りる予定だった大阪の店舗をキャンセルし、家族と一緒に輪島に戻ることを決意しました。輪島塗の塗師が住んでいた古民家を再利用し、2014年9月に開店したのが「ラトリエ ドゥ ノト」(能登のアトリエ)です。
食材はもちろん地元産がメインで、今の時季だったら山菜やタケノコ、ウド、新玉ネギを使って、もちろん近隣の漁港に揚がった鮮魚も盛り込みます。いつも新鮮な野菜を届けてくれる農園があるし、能登町にチーズ作りのミルクを採るための自前の牧場を設けて、能登は本当に食材に恵まれています。幸い店が軌道に乗り、今年10年目を迎えて次の新たな一歩を踏み出そうというところで、今回の震災が起きてしまいました。
農業・漁業の活性化が何よりも大切
――復興は始まったばかりですが、輪島のこれからをどう考えていますか。
池端さん 能登の復興には長い年月が必要だろうし、僕の店も何年先に再開できるか分かりません。ただ、今までのように街中で同じようにはできないなと感じていて、再出発する自分の店は山の中に開きたいと思っているんですよ。能登町の牧場は景色が良いうえに、周囲は山菜の宝庫だし、近くに漁港もあります。輪島で仲間と共同の店をやって自分たちの生業を取り戻しつつ、数年かけてここに移る準備を進めようかなと思い描いているところです。
地域再生の取り組みとして考えているのは、「輪島の豊かな食のポテンシャルを発信したい」ということです。「ガストロノミー」っていう言葉はいろんな意味で語られるけど、僕がイメージするのは、「ここに来ないと食べられないものを、この土地の自然や文化まで融合して、その全部が一皿に乗っている」ということです。自然と食材に恵まれ、輪島塗のような伝統工芸がある輪島には、そう言えるだけの地域の豊かさがあると思っています。
そこで何より大切なのは、食文化を支える農業・漁業といった地元の第一次産業を盛り立てること。それこそが震災復興のひとつのキーになると考えます。良質な食材を届けてくれる農家も漁師もいるけれど、例えば知り合いの漁師は震災後、出漁できずに金沢でアルバイト生活を余儀なくされています。そういう人たちに一日も早く輪島に戻って来てもらいたいですね。
フランス修業時代にスペイン領にまたがるバスク地方を旅して、これといって何もない田舎なのに、世界中から美食を目当てに人が集まって来るのを見て、「食の力」ってすごいなと思いました。人気のオーベルジュ(宿泊付きレストラン)もたくさんあって。でも、輪島はそんなバスクに少しも負けていないって、僕は思うんですよ。
豊かな食文化を発信して、多くの旅行者に来てもらい、食を通じて能登を感じてほしい。やむを得ず輪島を離れて行った人たちともつながり続けて、後ろめたさなんか感じずにいつでも戻って来てほしい。ここで生まれた料理人として、地域の復興・再生のために僕にできるのは、そういうことなんじゃないかな。
また何年後かに輪島の美味しいものを食べに来てください。それまで皆で頑張っていますから。
ラトリエ ドゥ ノト https://atelier-noto.com/ (休業中)
ひとこと 5月の奥能登を走ると、新緑の里山と輝く海に挟まれるように、田植えを終えたばかりの水田が広がり、この地の豊かさがひと目で見て取れる。それだけに、震災の傷跡はひどく痛々しい。当会が活動拠点を置く七尾・和倉温泉は客足が途絶え、飲食店主たちが屋台村を開いて奮闘中。池端シェフの取り組みもそうだが、復興の原動力は地元で生きる人たちの前向きな気持ち。せめて私たちはその思いに寄り添い続けたい。
中坪央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局兼関西担当
全国紙の海外特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣でアジア・アフリカの紛争復興・平和構築の現場を継続取材。2017年AAR入職、バングラデシュ駐在としてロヒンギャ難民支援に約2年間従事。2022年以降、ウクライナ人道危機の現地取材と発信を続ける。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』、共著『緊急人道支援の世紀』ほか。