スピード重視、ルール無視 忍足 謙朗 さん
2020年7月22日
国連在籍34年のうち国連世界食糧計画(WFP)に25年間勤務し、世界中の紛争地・被災地で緊急人道支援を指揮してきた忍足謙朗さん。TBS「情熱大陸」、NHK「プロフェッショナル~仕事の流儀」などテレビ出演や講演活動を通じて、国連でのキャリア形成や国際協力を志す若い世代を中心にリアルな現場を伝えている。AAR Japan常任理事でもある忍足さんに、型破りな「スピード重視、ルール無視」の仕事の極意を聞いた。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2020年7月10日にインタビュー)
たまたま始まった国連人生
――そもそも国連に進んだ理由は何でしょうか。
忍足氏 たまたまですよ。父親が米国の日系二世という事情もあって、私は米国で大学・大学院時代を過ごしました。大学院修了後に日本と米国のどちらで就職するか迷いながら、サンフランシスコの日本総領事館でアルバイトをしていた時、外務省が日本人の若手をもっと国連に送り込もうとJPO(Junior Professional Officer)派遣制度の募集をしていて、受けてみないかと勧められたんですよ。国連なんて考えたこともなかったのですが、応募したら国連開発計画(UNDP)に受かった。UNDPリビア事務所で2年間活動するうちに、いろんな国の人たちと一緒に仕事をするのは自分に合っていると感じました。その後、正規職員として国連人間居住計画(UN-HABITAT)、次いでWFPに移りましたが、WFPはローマ本部で面接、その場で即採用というスピード感が気に入りました。
WFPでは1989年のザンビアを皮切りに、レソト、ボスニア、カンボジア、ローマ本部と転勤して、1999年3月に旧ユーゴスラビアのマケドニアにコソボ難民緊急支援の指揮を執るために派遣されました。この時期、コソボを占領するセルビア人勢力に対するNATO(北大西洋条約機構)軍の空爆が開始され、6月にセルビア軍がコソボから撤退します。それを受けて、マケドニアとアルバニアに流入していた約80万人のコソボ難民の帰還が始まり、私たちはトラックに食糧を積んで難民と一緒にコソボに入りました。WFPは帰還がすぐに始まると判断して準備していたんですよ。WFPは当時コソボに現地事務所がなく、首都プリシュティナを始め7カ所にゼロからオフィスと倉庫を確保しなければなりませんでした。WFPバルカン地域代表を任せられ、世界中から国際職員50人を呼び寄せ、街中にスタッフ募集のビラを貼って、英語を話せる現地職員を2週間で500人採用しましたが、もちろん正規の手続きに従っていては間に合いません。オフィスも米ドルのキャッシュでどんどん借り上げたり、家主が見付からない時はWFPのステッカーを勝手に貼ったり、かなり荒っぽい仕事でルールどころじゃなかったですね。
コソボで張り切った背景には、1992年のボスニア紛争の経験があります。ボスニアでは欧州連合(EU)が食糧支援をやることになっていたのに、結局WFPにタスクが回ってきた経緯があり、現地は既に緒方貞子さん(故人)が率いる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が仕切っていた。陣容もUNHCR数百人に対し、国際職員わずか5人のWFPは食糧を運んでUNHCRに渡すだけという扱いで、正直言って悔しかったですね。次は自分たちWFPが輝いてやろうと(笑)。
世界最大のスーダン緊急支援
――スーダンでの決断も知る人ぞ知る”伝説”になっていますね。
忍足氏 2006年にダルフール紛争が続くスーダン全域の総責任者になり、年間予算800億円、スタッフ3,000人の緊急食糧支援を実施しました。これは当時、世界最大規模の人道支援でした。ところが3年目の2009年、ダルフール紛争のジェノサイド(集団殺害)に関与した容疑で国際刑事裁判所から逮捕状を出されたオマル・バシル大統領(2019年失脚)が、報復として現地で活動するいくつかの大手国際NGOに突然24時間以内のダルフール撤退、1週間以内の国外退去を命じたんですね。ダルフールは広大な地域に150ものキャンプが散在し、約200万人の国内避難民がいて、WFPはそのうち110万人分の食糧配布を、撤退を余儀なくされたNGOに任せていました。国際NGOがいなくなると、110万人分が配れなくなるだけでなく、配給が続いているキャンプに避難民が殺到して混乱が起きるのは目に見えています。明日からどうするのか、場合によっては200万人の配給を全部止める選択肢を含めて、本部やフィールド事務所とSkypeで一晩中議論しました。
私が出した結論は、仕事を失う国際NGOの現地職員約300人全員を臨時雇用して、食糧配布を続けるということでした。やはり食糧供給を止める訳にはいかなかった。人事責任者が驚いて「一度に300人雇うって?給与はどうするんだ?」と聞いてきたので、「一時借りてNGOが戻ってきたら返すだけだよ」と説得し、すぐにWFPのTシャツ300着を航空機で現場に配りました。給与はそれぞれのNGOでもらっていた金額を支払いました。いろいろ問題はありましたが、これで200万人分の食糧配布を続行することができた訳です。
その時やるべきことをやる
――組織のルールを無視する以上は説得力のある理由がなければなりません。
忍足氏 緊急食糧支援を担うWFPは、国連機関の中でも「現場がすべて」というカルチャーがありますが、それでもルールを破ってでもやらないと人命にかかわる場合がある。届けるべきものを届けなければならない時は、ルールを多少無視してでもやらなければならない。いちいち本部にお伺いを立てていては間に合わない。もちろん、それなりの責任とリスクを背負いますが、結果的にお咎めを受けたことはないですね。そもそも緊急事態にそぐわないルールもあり、それらは後に改正されました。
2009年にアジア地域局長(バンコク)に就任し、2014年まで域内14カ国を統括しました。就任直後にパキスタンの事務所が自爆テロで爆破され、職員を失ったこともあります。私はなるべく自分で現場に行き、そこから逆にローマやバンコクに指示を出すという、現場が中央を指揮するスタイルで仕事を進めました。日本的な組織では難しいかもしれませんね。アフガニスタンや北朝鮮にも行きましたが、どこも印象に残っています。
貧困・飢餓撲滅のカギは紛争
――世界の難民・避難民が増加している現状をどう思いますか。
忍足氏 世界の難民・避難民は7,950万人(2019年末時点/UNHCR)と近年増え続け、第二次世界大戦後では最多を更新しています。他方、世界の飢餓人口は20年ほど前から人口の多い中国やインドの経済成長もあって、半分ほど(世界人口の10人に1人)まで減ったのですが、この4〜5年また6,000万人近く増えてきている。これらは第一に世界各地で起きている紛争、次に地球規模の気候変動による異常気象が要因です。SDGs(持続可能な開発目標)が掲げる貧困や飢餓の撲滅は理論的には可能なのですが、AARも支援するシリア難民、南スーダン難民、ロヒンギャ難民など、多くの紛争・難民問題が解決に向かっているとは言えず、この傾向が続くと今後どうなってしまうんだろうという不安があります。SDGsの目標達成(2030年)は世界が平和でなければ実現しない訳で、紛争の予防と解決が大きなカギになると思います。
プロ集団としての存在感示せ
――AARを始め日本のNGOに対する率直な意見をお聞かせください。
忍足氏 人道支援においてNGOが欠かせない存在なのは言うまでもありませんが、日本のNGOはプロ集団としてもっと規模を大きくしていかないと、現場でのインパクトがないと思います。欧米系の大手国際NGOは国連機関と対等なパートナーとして契約し、活動資金を確保している。日本のNGOも取り組んでいない訳ではないが、政府開発援助(ODA)からの助成金や民間の寄付が頭打ちの中、もっと国連の仕事を受注して経験を積み、力を付けていく必要がある。未だにNGOをボランティア的なものとして見ている日本社会の問題でもありますが、日本政府もこれだけ経済力があり、国連に拠出金・出資金を出しているのだから、「日本が見える援助」を現場で担うNGOを資金面でもっと支えるべきではないでしょうか。
国内災害支援でも、AARは東日本大震災(2011年)、西日本豪雨(2018年)、昨年の台風15号・19号、今まさに起きている九州豪雨などの被災地で頑張っています。被災者の役に立っているのは確かですが、災害時の緊急支援のイメージは、まず災害派遣の自衛隊による救助活動、日本赤十字社などの医療活動があって、NGOは「その他ボランティア」の枠に入れられてしまう。ボランティア活動じゃないんだけれど、残念ながら、まだ「災害支援のプロ」とは思われていません。AARは難民支援から始まって、国内外の被災地支援、障がい者支援、地雷対策、感染症対策など幅広く有意義な活動を実施していますが、はっきりしたコアが何なのかを改めて明確に打ち出すことも大切な気がします。
AARとの出会いは約30年前、WFPの駆け出し時代のザンビアです。AARメヘバ事務所に日本人駐在員が3~4人頑張っていて、よく食事をご馳走になったり、泊めてもらったりしたものです。WFPを退職して日本に戻った時、長有紀枝AAR理事長に誘われて、常任理事としてお手伝いしています。40年の歴史を持つAARは、国際協力の世界で大切な役割を果たしています。日本の国際NGOとしての存在感をさらに高めていってほしいですね。
ひとこと 東京生まれながら小学校からインターナショナルスクール育ちの忍足さん。大学以来40年余り海外生活が続き、「5年前に日本に戻って来る時は少し不安だった」。さすがにすぐ馴染んだものの、日本で気になるのは「何の意味があるのか分からないルールが多いこと」。ずっと日本で暮らしていても、学校も社会もルールのためのルールが多過ぎると感じる。(N) |
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局
全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身 (記事掲載時のプロフィールです)