特別インタビュー Interview

北の被災地で今、思うこと 西條 一恵さん(岩手県陸前高田市「あすなろホーム」施設長)

2021年2月24日

あすなろホームの施設長がドアの前でカメラに向かい微笑む

東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災(2011年3月11日)から10年。津波に襲われた岩手県陸前高田市では、住民の7.2%にあたる1,759人(死者・行方不明者)が犠牲になった。地元の社会福祉法人「燦々会」が運営する障がい福祉作業所「あすなろホーム」施設長、西條一恵さんに復興に向けた10年間の歩み、被災地における障がい者福祉の課題と今後について思うことを伺った。

(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2021年2月16日にインタビュー)


10年前を思い出した

――東日本大震災から間もなく10年、今どんなことを考えていますか。

西條氏 もう10年経つのだなあという気持ちです。先週末(2月13日)の夜中に大きな地震がありましたよね。陸前高田は震度4でしたけど、もっと揺れたように感じました。津波の心配はないとニュース速報が流れましたが、やっぱり10年前のことを思い出して、とても不安になりました。10年でひとつの節目ということではないのだと思います。あの大震災の日から経験したことがない出来事ばかり次々に起きて、障がいのある利用者さんを預かる施設長として、その都度どうすれば良いか、追い立てられるように判断せざるを得なかったのは本当に苦しかったけれど、多くの方々に支えられて何とか乗り越えて来られたことに感謝しています。

陸前高田は津波で市街地が壊滅し、多くの生命が失われました。この10年間、町を元通りに戻す「復興」ではなく、障がい者のある人もない人も誰もが暮らしやすい町を創ろう、障がい者が普通に生活できる「ノーマライゼーション」という言葉が要らない町に「再生」しようと、震災直前に就任したばかりだった戸羽太市長とも一緒になって取り組んできました。震災で地盤沈下した町全体をかさ上げして防潮堤を建設し、安全に暮らすためのインフラ整備はだいぶ進んだと思います。防潮堤が高くそびえて海が見えなくなったのは寂しいけれど、海沿いの道路も安心して走れるようになりました。

波や地震の被害で瓦礫だらけの市街地を15名ほどの迷彩服を着てマスクをつけた自衛隊員が歩いている

津波で壊滅した陸前高田の市街地で捜索救助活動にあたる自衛隊=2011年3月15日(自衛隊撮影/いわて震災津波アーカイブより)

市街地にお店が増えて、公共施設の建設も進む一方で、新しいコミュニティづくりが一番難しいと感じています。高田はご近所さんとのお付き合いが何十年も続いてきた昔ながらの町でした。震災前はほとんどの家が一戸建てだったので、鉄筋コンクリートの団地型の復興住宅になかなかなじめない高齢の方が多いんですよ。お年寄りにとっては鉄製ドアを開けるだけでも重くて、外出するのが億劫になったり、外に出ても知り合いが誰もいなかったり、孤独を感じる住民が少なくありません。以前は玄関に鍵もかけず、畑仕事から戻ると近所の家の縁側に座って一服したり、たくさん作った煮物をお裾分けしたり、時には愚痴をこぼし合ったりする関係でした。行政の生活支援者さんが巡回したり、皆が集まってお茶会を開いたりしていますが、そういうことに加われない方がどうしてもおられます。精神面のサポートというか、昔のような地域のつながりを取り戻すのは本当に難しいなと思います。

支え合って乗り切った日々

――震災当時、あすなろホームはどんな状況でしたか。

西條氏 ホームでは主に知的障がいのある18歳~60代の約40人が食品加工や受注作業に取り組んでいました。地震で壁にひびが入ったりしたものの、建物の大きな損壊はなく、高台なので津波の心配もありませんでしたが、市街地に住んでいた職員・利用者の半数が津波で家や家族を失い、その日お休みしていた利用者2人も亡くなりました。高台からも津波が町を押し流す土ぼこりが見えて、翌日状況を確認に行って目の当たりにした光景には言葉を失いました。

家族の無事が確認された利用者は帰宅しましたが、被災した利用者と職員、近所の方々を含めて30人ほどだったでしょうか、3月末までホームに避難して共同生活しました。井戸水をもらったり川の水を交代で汲んだり、出荷前の菓子を分け合ったりして互いに励まし合い、私自身も利用者の皆がいたおかげで頑張れたと思います。3日後から少しずつ支援物資が届けられるようになりました。2週間後には自衛隊が小学校の校庭にブルーシートのお風呂を仮設してくれて、お湯は汚れていたけれど気持ち良かったのが忘れられません。

4月に入って利用者の状況を確認すると、本人や保護者から施設の再開を希望する声が多かったので、安全に送迎できる範囲で受け入れを再開しました。戻って来た利用者さんたちの表情を見て、「いつもの場所でいつもの人といつものことをする」ことによって、恐ろしい思いをし、大切なものを失った利用者と職員の心が安らいだように感じました。

2人の白い作業服を着た利用者がワカメを切ったり平にしている

あすなろホームのワカメ加工作業

人ほどの白い作業服を着た利用者が、ボールやハンドミキサーを手に取りお菓子作りをしている

あすなろホームの菓子作り

 

避難所にいられない障がい者

――避難所でつらい思いをした障がい者やご家族が多かったと聞きます。

西條氏 陸前高田には当時、障がい者を受け入れる「福祉避難所」がなかったため、一般の避難所に行ったものの、知的障がいや発達障がいがあると、他人が大勢いるだけでパニックになったり、じっとできずに動き回ったり、周囲から変な目で見られることが多々あったんですよ。避難所では過ごせなくて家族と車中泊をしたり、親戚中を頼ったり、特に自閉症の方や家族はつらい思いをしたと聞きました。見た目では障がいがあることが分からないので、支援物資を運ぶのを手伝うように言われても理解できずにボーっと立っていると、「何してるんだ!」と怒鳴られたりして、ますますショックを受けることもあったようです。

でも、あるお母さんが思い切ってお子さんに知的障がいがあることを告げると、周囲の人たちは「ああ、そうか」とすぐに理解して、それからは何かと声を掛けて親切にしてくれたそうです。知らない相手には言いにくいけれど、そうやって助けてもらうことも大切なんだと思いました。もちろん、福祉避難所の設置など災害時に障がい者を支えるシステムは必要ですし、そうした制度面の整備もこの10年間に進められています。

映画「星に語りて」の舞台に

――あすなろホームは震災を伝える映画「星に語りて〜Starry Sky」の舞台にもなりましたね。

西條氏 障がい福祉事業所の全国組織「きょうされん」が結成40周年記念として企画し、2019年3月に公開された映画です。陸前高田市と福島県南相馬市を主な舞台にして、震災当時に障がい者が置かれた現実、職員や支援者が懸命に取り組む姿が描かれています。制作スタッフが施設の利用者や保護者、職員、行政など多くの関係者にインタビューし、各地で集めた話を組み合わせて構成していて、あすなろは「あおぎり」という名前で登場します。なぜか避難所に障がい者がいなかったり、個人情報保護が障壁になって支援が必要な障がい者の情報が開示されなかったり、福祉関係者が実際に直面した問題がクローズアップされています。

だけど、最初のシナリオを読ませてもらって、悲しくつらいことばかり描くのではなく、それでも顔を上げて前を向いて進んでいくというメッセージを込めてほしいとお願いしたんですよ。大震災の中で障がい者は周囲の負担でもなく、ただかわいそうな存在でもなく、彼らなりに役割を担っていたことを伝えてほしいと思いました。私たち関係者の声を取り入れ、シナリオを何度も書き直してくださって映画が完成しました。

全国から寄せられた支援

――あすなろホームは震災後、どのように再建されましたか。

西條氏 全国から食料や衣類、日用品など多くの支援をいただきました。建物にひびが入ったり、倉庫が使えなくなったりしましたが、一番困ったのは駐車場に大きな地割れが生じて、建物まで倒壊する恐れがあったことです。AARさんは震災後早い時期から食料を届けてくれたり、私たち職員を気遣ってくれたりして、行政の公的支援では対応できないと言われて困っていた駐車場の修繕もしていただきました。世界中に呼び掛けて復興資金を集めていたことを後で知って、感謝でいっぱいでした。

その後も市内にコンテナ商店街を開設して、お菓子などの販売を支援していただきました。その頃、利用者の男の子が「震災で両親の仕事がなくなってしまったので、僕が働かないといけない」ときっぱりと話すのを聞いて、私たちの施設の意義を再認識し、皆に少しでも多く工賃(福祉作業所の賃金)を払ってあげなければと強く思いました。AARさんの支援もあって利用者に工賃を出し続けることができたのは、本当にありがたかったですね。

4人の利用者が屋外に机を置いてお菓子を並べて販売している。4人はエプロンをつけている。1人の女性が買いに来ている。

陸前高田市内に開設されたコンテナ商店街で菓子を販売するあすなろホームのメンバー=2011年11月2日

それまでお付き合いがなかった全国の方々が各地で商品販売をしてくださって、6~7月頃にはそれまでで最高の売上になったのですが、その後は潮が引くように減っていきました。また、地元企業から受注していた部品加工などの受託作業がなくなってしまい、新しい仕事を開拓しようと新しいことにいろいろ挑戦しました。現在製造・販売しているケーキやクッキー、ゆず麺、ゆず塩など多くの商品は震災後に生まれたものです。このゆずは「北限のゆず」といって、元々この辺りにあったのですが、震災後に復興のための地元ブランドとして売り出そうと、地元の農業関係者や企業、行政が集まって2013年に「北限のゆず研究会」を立ち上げました。苗木を植えたり栽培方法を勉強したり、収穫された実を使って商品開発したりと力を合わせて活動しています。もちろん、あすなろもメンバーです。

あすなろでは衛生管理を徹底した「ゆずいろ工房」を2017年に新築し、ゆずなどを使ったお菓子の品質向上と量産が実現しました。新しい取引先もできて、ふるさと納税の返礼品の梱包作業、青ノリの養殖、ゆずの搾汁・加工、わかめの茎の加工などの仕事を請け負っています。2020年2月には地元の気仙杉を使って建てられた交流施設「まちの縁側」の中に「はぴなろカフェ」をオープンし、障がい者が働く場所として、また一般の方々が障がい者と接する場として運営しています。「はぴなろ」は「ハッピーになろう」という意味を込めました。経営的にはなかなか大変なのですが、とにかく利用者の皆が笑顔で働ければいいと思っています。

3人の利用者が緑のエプロンを付けて、スタンドに立っている。2人のお客さんが買いに来ており、トレーにドリンクが入った紙コップを乗せて渡している

陸前高田市内に2020年オープンした「はぴなろカフェ」

普通に暮らすことのありがたさ

――現在の新型コロナウイルスの影響はありますか。

西條氏 施設でも昨年来、それまで以上に気を付けて感染予防対策を続けています。今までにない緊張感や我慢はありますが、良かったこともあるんですよ。利用者が楽しみにしている旅行やホーム祭などの行事は中止せず、皆で知恵を出し合い、少人数に分けて行うなど、全員揃わなくても楽しめる方法を見付けました。IT環境を整備して会議や研修をオンラインで実施し、アナログな私も少しずつデジタル化されて、遠くの相手と画面上で対面しながら会話するのが楽しくなりました。実際に移動する時間や費用をかけずに、高齢でも病気でも障がいがあっても交流できる。そのうちに日本中、世界中の人と交流できるようになるんじゃないか、素敵な笑顔に出会えるんじゃないか、そんなことを楽しみにしています。

10年前の東日本大震災で、私たちはいつもの日常生活が続くこと、いつものように明日が来ることが当たり前ではない状況を経験しました。世界中の人々が同じようにコロナの脅威と向き合っている今、普通に暮らすことのありがたさに皆が気付いたのではないでしょうか。震災10年を前にして、私自身落ち込むこともありますが、また顔を上げて進んで行ければと思います。

ひとこと 岩手県内の福祉作業所を取材したご縁で、いくつか商品を購入してみた。あすなろホームのケーキやクッキー、餅屋ぷくぷく(奥州市)の「和洋折衷大福」、かたつむり(大船渡市)の「トマさんソース」。いずれも地元産の原材料を生かして丁寧に丁寧に手作りされ、「チャリティとして買う」のではないレベル。コロナ禍で国内旅行もままならない今、地方のお土産感覚でお取り寄せしてみると楽しいかも。(N)

中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身

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