特別インタビュー Interview

「紛争屋」が見た世界の現実 伊勢崎 賢治 さん

2020年8月12日

伊勢崎さんがインタビュアーに向かって話している

国際NGOや国連でアジア・アフリカの紛争解決・武装解除に取り組み、「紛争屋」「紛争解決請負人」と呼ばれる伊勢崎賢治さん。豊富な現場経験を踏まえ、東京外国語大学教授として平和構築・紛争予防を教える一方、日本独自の平和貢献のあり方について積極的な発言を続けている。AAR Japan副理事長でもある伊勢崎さんに、紛争屋の目で見てきた世界について語ってもらった

(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2020年8月4日にインタビュー)


出発点はインドのスラム

――大学・大学院で建築学や都市計画を専攻していた伊勢崎さんが開発途上国の紛争問題に関わるようになった転機は、インド留学時の経験と聞いています。

伊勢崎氏 今もそうなんだけど、僕はもともと芸術家志向というか、美的感覚を求め続けているんです。建築を学んだのは美しいものを造りたかったからなんですが、著名な建築家たちの無機的な現代建築が美しいとは思えなかった。違う何かを見付けたくて、とりあえず飛び込んだインドのスラムで、混沌として有機的な美しさに出会いました。留学先のボンベイ(ムンバイ)大学はソーシャルワークのフィールド活動が必修で、座学はつまらなかったけど、スラムで住民を組織するコミュニティ活動にのめり込んでしまった。不法占拠のスラムを撤去しようとする行政当局に対して、基本的人権である居住権を盾に闘う政治・社会運動です。政治家の利権も絡む中、黒子役のオルガナイザーとしてスラムに住み込み、住民リーダーを育てながら40万人規模の運動を組織するのは非常に面白かったのですが、公安当局に目を付けられて、約5年で帰国を余儀なくされました。

大勢の人々が建物の前、トラクターの周りに集まっている

NGO時代にシエラレオネ独立後初の農業協同組合を設立(1989年)

既に結婚していたので、日本で食い扶持を探していたところ、国際NGOのプラン・インターナショナル日本支部がインドでの僕の経験を評価して雇ってくれました。米国本部から西アフリカのシエラレオネ赴任を命じられた時、実は国名も知らなくて、世界地図で探したほどです。すぐ現地に送られ、ベテラン職員から6カ月間、マネジメントの実務をみっちり叩き込まれた。これがその後のキャリアでとても役に立ったと感謝しています。NGOと言っても高給取りで、しかもプランは世界最貧国シエラレオネで最大の援助団体として、学校や道路整備から子どものワクチン接種などの保健サービスまで、政府が本来やるべきことを全部担っていたので、同国北部州の州都マケニの事務所長に着任した時点で地元の名士扱いでした。後に市会議員にも任命されたりしてね。家族を日本に残す訳にいかなくて、母親と妻、幼い子どもを連れて赴任しました。1988年のことです。

内戦迫るシエラレオネ

――隣国リベリアの内戦がシエラレオネに波及する時期ですね。

伊勢崎氏 シエラレオネ内戦は1991-2002年とされていますが、実際には政府軍と革命統一戦線(RUF)の武力衝突は1990年頃に始まっていた。ある日突然というんじゃなくて、私がいたマケニや首都フリータウンに向けて、リベリア国境から戦火がじわじわ迫って来るのが分かるんです。ああ、国民にとって戦争(紛争)とは、こういう感じなのかと思いました。やがて自警団が組織され、誰もが恐怖にかられて疑心暗鬼になっているので、よそ者を見付けると理由もなく凄惨なリンチを加えて殺してしまう。そういう遺体が路上に散乱するなど治安が極度に悪化し、国連職員や聖職者まで退避したけれど、”有名外国人”の私が逃げたら住民がパニックになることも分かっていた。最後は本部の指示で4年の任期を終える形で後任に業務を引き継ぎ、情勢を心配しながらケニアに異動しました。既に軍も警察も機能しない破綻国家だったシエラレオネは、私の離任後に本格的な内戦状態に突入し、約10年にわたって虐殺と略奪が繰り広げられたのです。

ケニア、エチオピアで農村開発プロジェクトに携わった後、帰国して財団研究員として中東和平に関わっていた2000年、外務省から「東ティモールに行かないか」と打診があり、2002年5月の独立を控えた国連東ティモール・ミッション(UNAMET)に行くことになりました。これが国連平和維持活動(PKO)の現場に関わるようになったきっかけです。

ヘリコプターの中に男性が3名座っており、外には空と草原が見える

東ティモールの国連軍ヘリで移動(2001年)

東ティモールの悪夢

――私(中坪)が伊勢崎さんに初めて会ったのは2001年頃、東ティモール南西部のコバリマ県です。首都になるディリから山岳地帯を越えた小さな田舎町でした。

伊勢崎氏 国連暫定統治機構の上級民政官として「一番難しい地域を担当したい」と希望して、インドネシアと国境を接するコバリマ県の知事に任命されたんですよ。ニュージーランド歩兵大隊とパキスタン工兵大隊から成る平和維持部隊(PKF)1,500人、文民警官、行政官のすべてを掌握するポストです。独立に反対するインドネシア併合維持派民兵の越境活動が治安上の課題で、国境警備に関してインドネシア国軍とも協議を重ねました。1年2カ月の任期中、最も記憶に残るのはPKF兵士2人が戦闘で殉職したことです。こちらも民兵を何人か殺していて、責任者として遺体を検分しました。蜂の巣のように銃弾を撃ち込まれた遺体は、民兵と言っても少年のように小さく、本当にゲリラだったのかさえ分からず、その場で足の力が抜けました。PKFの軍事行動の結果なのですが、指揮官に武器使用を許可したのは文民の自分であり、国際法に照らして正当な戦闘行為だったのか、あるいは単なる殺人ではないのかと…。この時の情景は今も夢に出て来ます。

武装解除の現場で見たこと

――その後、シエラレオネ、アフガニスタンで紛争終結後の武装解除を指揮されました。平和構築のプロセスでも最もタフな分野ですね。

伊勢崎氏 国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)の武装解除部長として2001年、9年ぶりに戻った同国は文字通り廃墟になり、かつてのNGO現地スタッフの多くが殺されたり行方不明になったりしていました。反政府勢力RUFの罪を問わず、政権参加を認める米国主導の「ロメ合意」に基づいて約5万人の武装解除を進めましたが、その時点で7,000人いた少年兵の中には、わずか14歳の司令官もいれば、私たちが建てた小学校の出身者もいました。RUFの指揮系統は滅茶苦茶でしたが、手続き上、上層部から末端の部隊に話を通したうえで武器を放棄するよう説得に行く。しかし、薬物中毒でラリった奴とか話が通じない連中も多くて、非武装の軍事監視要員が拉致・殺害される事件が相次ぎました。武器を手放したら自分が殺されると思っている民兵を落ち着かせ、カラシニコフ(AK系)銃を捨てさせたうえで、更生教育のための共同生活、次いで農業や建設業、メカニックなど6カ月間の職業訓練に送り込んで社会復帰させるプログラムでした。シエラレオネでは現在まで内戦が再発していないので、武装解除自体は成功したことになりますが、彼らの多くはその後も正業に就かず、マフィア組織などに取り込まれているのが実態です。

男性が2人、その背後には炎があがっている

シエラレオネの武装解除で銃器3,000丁を焼却(2002年)

2003-04年にアフガニスタンに行った時は、国連ではなく日本政府代表という立場でした。アフガニスタン復興への貢献として、川口順子外相(当時)が「日本が武装解除と社会復帰を主導する」と表明したのを受けて、タリバン政権を駆逐した北部同盟など軍閥・武装勢力10万人を1年で武装解除することになったのです。多国籍軍のNATO(北大西洋条約機構)軍や国連の支援を受けて、日本外務省や大使館、駐在武官(自衛隊員)とともに各軍閥と交渉を重ね、小銃から重火器、戦車までリストアップして放棄させました。ひざ詰めで協議した相手には、あのドスタム将軍もいます。もちろん歴戦の兵士たちの反発は強く、威嚇なのか狙われたのか銃弾が耳元をかすめたり、地雷原に誘い込まれそうになったり、一筋縄ではいきませんでしたが、実は最大の抵抗勢力は米国だったんですよ。米軍は武力で状況を解決できると本気で思っていて、日本主導の武装解除プロセスとは関係なく、軍閥の中で使えそうな部隊を再編中のアフガニスタン軍・警察に編入しようとしていた。最終的には、いったん武装解除したうえで軍に再雇用することで米国も合意し、米軍やCIA(米中央情報局)との協力関係もできて、ようやく一体感を持って進められるようになりました。

日本は武装解除をやり遂げたものの、個人的には失敗だったと考えています。アフガニスタンの平和は結局実現しなかったからです。イスラム原理主義として否定されたタリバンも本来はイスラムの「世直し運動」だった訳で、彼らを全面排除せず、和平協議のテーブルに着かせておけば、今とは違う展開があったのではないかと思います。

日本独自の平和貢献の道

――多くの現場経験を踏まえ、日本独自の平和貢献として非武装の自衛隊を国連停戦監視団に派遣し、武装勢力との和平協議の仲介や武装解除など紛争解決・平和構築の専門家として活用する「ジャパンCOIN」(Counter Insurgency:対反乱作戦)という構想を数年前に提唱しておられましたね。

伊勢崎氏 戦争放棄を宣言した憲法9条をめぐる改憲・護憲論議がありますが、私が言っているのは、政治的な右や左のどちらでもありません。アフガニスタンでも実感したことですが、軍事力を行使しない中立的な国という日本のイメージは、もっと世界に宣伝すべき我が国の強みです。そういう日本だからこそ紛争当事者に信頼してもらえるという利点が、紛争解決・平和構築に取り組むうえで間違いなくある。ジャパンCOINは非武装の自衛隊による国連軍事監視という、平和貢献における日本ブランドを打ち出すひとつのアイデアですが、非軍事の貢献は同盟関係にある米国の軍事力を補完する意味合いもあります。経済格差や宗教・民族対立を背景とした「グローバル・テロリズム」が拡大する今日、遠い国の紛争も日本と無関係ではないのと同時に、日本だけがテロの対象にならないはずはありません。イラクへの自衛隊派遣のように、フル武装の部隊をイスラム諸国に送って敵視される口実を与えるのは得策ではなく、日本ならではの国際貢献を模索する必要があるのではないでしょうか。

NGOは発想変えた運営を

――AARをはじめ日本のNGOが今、考えるべきことは何でしょうか。

伊勢崎氏 AARは難民支援や対人地雷廃絶など、国際的な人道支援活動を長年担ってきた誇るべき実績があります。そうした活動は続けていくとして、少し別の視点で、例えば国家・国境の枠組みとは関係なく重大な人道犯罪を裁く「普遍的管轄権」を保証したり、難民受け入れを規定したりする「グローバル人権法」の制定など、日本における法制面での調査・研究や啓発に取り組んでみてはどうでしょうか。人道支援の拠り所となる国際人道法・国際人権法に適応する国内法の整備は、日本が早急に考えるべき課題です。

NGOの運営面では、日本社会では企業・個人による寄付の大幅な増加が見込めない以上、寄付をもらう関係を見直して、AARが現地事務所を置くアジア・アフリカの国々で、民間企業の人材育成を手助けする「留職」の機会を契約ベースで提供したり、スラムの女性たち限定で雇用を創出するフェアトレードを導入したり、発想を変えていろんなアイデアを出していく必要がある。政府の公的助成は一程度あるとしても、自分たちで工夫していかないと、将来的にNGOとしての活力が先細ってしまいます。私自身、AARのためなら何でもするつもりですよ。

ひとこと 「紛争解決業」の傍ら、アフガニスタンなど赴任先でトランペットの練習を続けていたという伊勢崎さん。数年前になるが、東京・吉祥寺の老舗ジャズ喫茶で、その自由奔放な演奏を聞いた記憶がある。実は前回ご登場いただいた忍足謙朗さんも本格派のジャズ・ベーシスト。紛争解決や緊急人道支援の混沌とした世界は、アドリブ重視のジャズと親和性があるらしい。(N)

中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身

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