特別インタビュー Interview

語ること、聞き手を持つことが人を救う ロバート キャンベルさん(日本文学研究者)

2025年12月12日

日本文学研究者で早稲田大学特命教授でもあるロバート キャンベルさんは、1年ほど前、ロシアによる軍事侵攻下にあるウクライナの人々の言葉を集めた『戦争語彙集』を翻訳し、訳著として出版しました。東日本大震災や能登半島地震の被災者支援にも関わっているキャンベルさんに、傷ついた人々の「心を支えるもの」について語っていただきました。

(聞き手:AAR東京事務局 太田阿利佐/11月7日にインタビュー)


戦争は言葉の意味を変えてしまう

――『戦争語彙集』は、オスタップ・スリヴィンスキーというウクライナの詩人の方が、避難民の方々から聞いた言葉をまとめたものですね。

オスタップさんが住むウクライナ西部のリヴィウは、歴史の中で何度も帰属が争われてきた、中世からの交通の要所です。ロシアによる軍事侵攻が始まり、リヴィウには避難民が集中して一夜にして人口が4倍にも5倍にも膨れ上がった歴史上稀な経験をしました。オスタップさんは、戦火を逃れてリヴィウ駅に降り立った人々にコーヒーやビスケットを手渡したり、避難者向けの窓口に案内したりするボランティアとして活動しながら、自分や仲間が聞き取った言葉をまとめてFacebook上に発信していたのです。私はその一部を英訳したものをたまたま目にしたのですが、とても強いインパクトがありました。「これは新聞やメディアの記事では捉えることができない内容、目線だ」と直感し、彼に連絡を取りました。

戦争語彙集の表紙

戦争語彙集=岩波書店提供

翻訳する前、2023年6月にウクライナを訪問し、実際にその言葉を発した避難民の方々にお会いしました。リヴィウ駅に立っていたオスタップさんの心境、駅に響く音、匂い、日々そこで起きていたことが分からないと、なんというか、そこで書かれていること、語られていることを本当に伝える翻訳はできないんじゃないかな、と思ったんです。

オスタップさんが語ったことですが、戦争によって言葉が断片になってしまう、言葉の意味が変わってしまうんですね。例えば「バスタブ」は、近所にミサイルが着弾し始めてからは「シェルター」になっています。おしゃれな稲妻形の「タトゥー」は、形がSS(ナチス親衛隊のマーク)に似ているので、ロシア兵に見つかったらそれを理由に殺されかねない、命を脅かすものになってしまった。「きれいなもの」もそうです。第二次世界大戦中、ナチスにレイプされないように最もみすぼらしい服を着て過ごしたという話を読んだ少女は、箪笥の前でおろおろする。「もう、最もみずぼらしい服を着る時が来ているのだろうか、それともまだ逃げ切ることができるのだろうか」と。

「食べ物」 オクサナ/リヴィウ在住

 東部地域からやってきたご家族を一晩お世話することになりました。台所に案内して言いました。「ここがキッチン。食卓にある食べ物を召し上がってくださいね」。
 その瞬間、彼らは泣き始めたのです。「キッチンにある食べものを、召し上がってくださいね」という一言で。 『戦争語彙集』(三六頁)

胸を打つ『戦争語彙集』

――『戦争語彙集』を読むと、まるで自分が戦地から遠くない場所にいるかのような、自分が一人の避難民、駅に立つボランティア、避難民を受け入れた家の人に寄り添える気持ちになります。

一編一編はごく短く、しかも言葉の意味が変わってしまっているからアルファベット順に並べました。通常の翻訳は、ある言語で書かれた底本があって、それを忠実に別の言語にする。しかしオスタップさんは書いたものをまだ本にしていませんでした。先に日本語の本にしていいのかと私は悩みました。しかし彼は「構わない」と言ったのです。「これは戦争が終わるまで続ける、進行中のものだから」。起承転結があるような小説とは違い、いつ終わるかも決まっていない。一つひとつがこの戦争の中で起きていることを伝える証言でもあります。ウクライナの人々の言葉を、当事者ではない日本語話者に知ってもらうこと、ウクライナの人々に思いを馳せるよすがとして受け止めてもらうこと。これはもう通常の翻訳ではない、オスタップさんと伴走することだと思いました。

オスタップさんとキャンベルさんの写真

オスタップさん(右)とキャンベルさん=ウクライナ・リヴィウで、2025年8月。キャンベルさん提供 

戦況は変化し、首都キーウや近郊のブチャなど住んでいた街に戻った人もいます。5、6人でしたが、それぞれが言葉を発した場所で会い、オスタップさんが書き留めた言葉を朗読してもらいました。自分の言葉に久々に触れて、泣き出す人、沈黙する人がいました。でも等しく言われたのは「あの時にこの話ができてよかった」でした。駅に降り立ってすぐ、何かを誰かに語るということが、誰かに聞いてもらうということが、何か心理的な作用を起こす。支援物資や、しっかりとした屋根や、励ましの言葉もそうですが、自分のストーリーを語ること、そしてそれを受け取ってくれる人がいるということ自体が、実はシェルターの意味を持っている。くっきりとその輪郭が見えてくる気がしました。それは、私が2011年に東北で経験したことと重なるところがありました。

東日本被災地での読書会

――キャンベルさんは2011年の東日本大震災の直後、被災者の方が避難所代わりに分宿していた宮城県の鳴子温泉で読書会を開催されていたそうですね。

読書会の様子

宮城県の鳴子温泉で行われた読書会=2011年、キャンベルさん提供

鳴子温泉には古くからの友人がおり、近くには江戸時代の仙台藩家臣、岩出山伊達家の学問所「有備館」があって古典籍がたくさん所蔵されています。その頃は毎年、ゼミの学生と古典籍を読む合宿をしていました。3月下旬になれば花が咲き出し、それは美しいところですが、友人は「避難者の方々が部屋に閉じこもって出てこない」と心配していました。自分に何かできることはないかと考え、米国でよくある「ブッククラブ」はどうだろうか、と思ったのです。ブッククラブは心に傷がある人々やマイノリティーの人々が集まって本を読み、語り合うことで心のバランスを取り戻していく。津波や地震で老眼鏡を失い、字を読まなくなってしまった方もいたし、朗読は声を出すので健康にもいい。ポプラ社さんから『百年文庫』を60冊ほど無償提供していただき、しばらくの間、月に2回ほど開催していました。集まった方々で朗読し合ったり、感想を語り合ったり、それをきっかけに心が和み、心を開き、お互いに話し合えるようになります。同じ被災者だからと言って、すぐ胸を開いて話し合えるわけでもない、ということもこの時学びました。

読書会に参加するキャンベルさん

宮城県の鳴子温泉で行われた読書会=2011年、キャンベルさん提供

「アート」は人間を強くする

――住み慣れた場を突然奪われることで経験する孤独や孤立は、戦争でも災害でも変わらないように思います。AARも、モルドバでウクライナ難民の子どもや母親たちのための「チャイルド・フレンドリー・スペース」を作りましたし、現在は能登半島地震の被災地の仮設住宅で暮らす方々が交流できる「やわやわ喫茶」を開いています。

とても大切なことだと思います。数年前、石川県能美市を拠点にしたCACL(カクル)という会社の経営者、奥山純一さんを知りました。彼はもともと、担い手不足に悩む伝統工芸と障がい者福祉を結ぼうと、障がい者に九谷焼の絵付けなどをしてもらう事業をしていました。能登半島地震では九谷焼が大量に割れ、カケラがゴミとして捨てられるのを見て、彼は何かが違うと思った。割れた九谷焼を金継ぎで再生することを思いつき、その作業を地震で仕事場を失った輪島塗職人にお願いしたのです。九谷焼の破片とレジン(合成樹脂)で、とても美しい箸置きも作っています。

九谷焼再利用の作品

九谷焼の破片で作られた箸置きと、金継ぎで再生されたお皿=CACL提供

地震で九谷焼がカケラになったように、ウクライナ戦争では言葉が壊れて断片化した。戦争語彙集は言葉のモザイクです。カケラはどのように修復され、修復することが人々にどんな力を与えるのか。それを知りたくて2025年8月、ウクライナを再訪しました。

北東部の都市ハルキウはロシアから継続的に攻撃を受けており、街のあちらこちらに爆破の痕跡があります。日本から来たというだけで腕をつかまれ、ありがとうと言われました。日本は多くの支援をしていることを人々は知っているのですね。壊れた建物の窓や入口にはべニア板が張ってあります。そのべニア板に絵を描き続けているアーティストがいました。また、リヴィウにある負傷者や捕虜になって心に大きな傷を負った人たちのためのリハビリ施設「UNBROKEN(アンブロ―ケン)」では、四肢を失った人たちが、粘土で作品を作ったり、芝居や短編動画をつくったり、楽器を演奏したりしていました。アーティストと一緒に何かを作りながら、運動能力を回復させていくのです。ライターズ・ワークショップ、文学創作活動も行われています。素晴らしい物語が生まれ、それを発表したり、読み聞かせたり、共有することで、心の治癒と社会復帰が早くなる。アンブロ―ケンには、傷ついているけれども壊れてはいないという思いが込められています。通常、我々はアートを鑑賞し、教養として何かを感じる、それは大切なことです。けれど戦時下の社会の中ではアートはもっと直接的に人々を力強く、丈夫にしているのです。

――「アートとは生きること」と言われますが、まさにその実例ですね。

物質的なケア、医療技術としてのケア、そして教育・学習としてのケアに加えて、というか、それらと混ざるようにして私たちがアートと呼んでいるものがすごく大事で、多様な役割を果たしています。

奥山さんの工房で、ウクライナ国旗と同じ青と黄色の九谷焼のカケラで箸置きを作ってもらいました。金継ぎで再生した器とともに、キーウの国立美術館やアンブロ―ケン、ハルキウのアートセンターに差し上げました。一方、ウクライナからは爆撃で壊れた一般家庭の陶器の破片を持ち帰り、能登の職人の方々に金継ぎしてもらっています。日本国内で展示し、いずれはウクライナにお返しできたらいいなと思っています。

支援とは、被災者が発するものを受け止めること

――楽しみです。ウクライナからは遠い日本にいる私たち、東北や能登からも離れた所に住んでいる人たちに、伝えたいことはありますか。

当たり前のことですが、新聞やテレビなどで現地の実情をある程度知り、被災した方々に手を差し伸べ、思いを馳せることがやはり大事だと思います。輪島や珠洲の人たちもそうですが、家や故郷、仕事を失った人たちとお会いすると、その人たちの中に、支援をしてもらうだけでなく、当事者ではない人に向けて何か言葉を発したり、何かを贈ったり、人の魂や人の心に自分の影を落としたい、刻みたいという気持ちがあるのを感じます。

スヴィトラーナさんとキャンベルさん。

スヴィトラーナさん(左)と語り合うキャンベルさん=2025年8月、キャンベルさん提供

8月にはウクライナの著名な詩人で、2人の息子を戦争で失ったスヴィトラーナ・ポヴァリャエワさんを訪ねました。息子の愛犬と、田舎の家で暮らしています。彼女はとても弱っていて、街中には行けないけれど家でならお会いします、と言ってくれました。私は、場合によってはお茶をいただくだけでそっと帰ろうと考えていました。でも話をしているうちに彼女は、自分の記憶や今この世界をどうみているか、戦争は自分たちにとってどういうものなのかを、堰を切ったように語り出したんです。

私はその話を聞き漏らさないようにしながら、彼女にとってのこの時間の意味を考えていました。触れれば壊れてしまうような心の状況で、でもそれらを語ることが、彼女にとって社会に一歩戻る、近づくことなのだと思いました。語る、聞き手を持つことがすごく大事なことなんです。当事者でない我々が、支援を必要とする人たちが発する言葉や、その人たちが作ったもの、その人たちから与えられるものを受け止めていく。それを心の中に持ち続ける、他の人たちとシェアする。それが支援活動として大切なことではないでしょうか。その人たちが立ち上ろうとしている姿を見届けることも一つの貢献だと思っています。能登半島には能登野菜という素晴らしい野菜がある。ブルーベリーもごぼうもすごくおいしい。野菜もそれを作った人たちの作品です。東京電力福島第一原子力発電所の事故による避難が続いている福島県についても同じです。被災者の方々が生産したもの、表現として作ったものに自分もかかわる。それをいただく、買う、聞く、見るということが、当事者でない私たちからの支援として大事なことではないかと思っています。

――支援団体に期待することはありますか。

今、ボランティア経験者、社会的起業家の若者がたくさん日本にいます。一団体で支援活動を行うのではなく、こういう人たちや団体とどんどん結び合い、ともに何かをつくっていただきたい。1足す1が3にも4にも、5にもなるはずです。ぜひ一緒にできることを発掘していっていただきたいですね。

ひとこと 戦争や災害はよく数字で語られる。死者何人、負傷者何人、家屋の損壊何棟……。でも心の傷は、生きる力を奪うほど暴力的なのに、そういう形では出てこない。心理的支援もあまり注目されない。『戦争語彙集』を読むと、人々の心の傷が痛いほど伝わってくる。それなのに希望を感じる。語り始めること、痛みを表現することから癒しが始まり、それを受け止めることから支援が始まるというキャンベルさんの指摘は、とても大切だと思う。

太田 阿利佐OHTA Arisa東京事務局広報担当

全国紙記者を経て、2022年6月からAAR東京事務局で広報業務を担当。

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