特別インタビュー Interview

年齢は関係ない 「したいこと」に挑戦し続ける 加藤タキさん(アーティスト・コーディネーター/AAR副会長)

2026年9月30日

加藤タキの写真

アーティスト・コーディネーター、AAR副会長
加藤タキさん

日本の「アーティスト・コーディネーター」の先駆けであり、81歳の今もテレビ・ラジオ、講演会などで活躍する加藤タキさん。お母様は、日本初の女性国会議員で社会運動家の加藤シヅエさん(1897-2001年)であり、AAR創立者・相馬雪香を支えた盟友でした。現在AAR副会長を務めるタキさんに、二人の思い出や、彼女たちから引き継いだ思いを聞きました。

(聞き手:AAR東京事務局 太田阿利佐/9月9日にインタビュー)

 

12歳の時、一人でアメリカへ

――加藤シヅエさんは、相馬雪香・初代会長より15歳年長。とても仲が良く、AAR創立時にはシヅエさんが知人を紹介するなど支援してくださったそうですね。

加藤副会長 私にとっては「雪香おばちゃま」ね。2人が最初に会ったのはいつかわかりませんが、1957年、私が12歳の時、MRA(道徳再武装運動、現・国際IC)の大会に出席していた母を訪ねて、アメリカのミシガン州まで一人で行ったの。そこに雪香おばちゃまもいらした。MRAの活動が2人を結んだのではないかと。1951年のサンフランシスコでの会合の写真にも2人は写っています。この時母は、日本の主権回復が認められたサンフランシスコ講和会議を傍聴しており、まさに歴史の一証人でした。

――MRAは、「平和は武器ではなく、倫理観や道徳心を高めることで実現される」とF・ブックマン博士が提唱した平和運動です。「社会や他人を変えようと思ったら、まず自分が変わらなければならない」と説きます。

加藤副会長 母も雪香おばちゃまも「誰が正しいかではなく、何が正しいかだ」と常に言っていましたが、それもMRAの精神です。世界が東西で対立した時代、戦争の傷跡が生々しい時代に大切な視点でした。会議には戦勝国、敗戦国、旧植民地諸国から、日本の政治家も保守から革新まで参加していた。私が12歳でアメリカに行ったのは、ブックマン博士が母に「いい機会だから、娘さんを会議にお呼びなさい」と言ってくださったからでした。

笑顔で微笑む親子

母、加藤シヅエさん(当時99歳、右)とタキさん=1997年1月撮影、タキさん提供

「人はみな同じよ」

――12歳の女の子を一人でアメリカに行かせるとは大胆ですね

加藤副会長 全く英語もできなかったのよ。私が生まれたのは父、勘十(衆院議員、労働大臣)が53歳、母が48歳の1945年。東京大空襲の20日後、まだ爆弾が投下されるような時だった。両親は、自分たちがいつまで生きていられるか分からない、この子には一日も早く自分の足で踏ん張って、自分の頭で考えて、自分の心で感じる人間になってほしい、と思ったのね。

今でも覚えているのは、3歳のころ、焼け野原で転んで、血が出てびっくりして泣いた。でも母は抱き起こしてくれない。仕方なく自分で立ったら、そこで抱きしめてくれた。転んだらどうなるか、転んだら自分で立たなくてはいけない、と体で学ばせたんです。そして「人はみんなケガをすれば赤い血を流す。どんな目の色の人、髪の色の人、肌の色の人もそれは同じよ。ただ考えていること、言うことは違うかもしれない。でもそれはその人、その人なのよ」と教えてくれた。

――人として、国際人としての心構えですね。シヅエさんは17歳で結婚し、22歳の時、夫の石本恵吉男爵から「これからの民主主義を学びたいなら来なさい」と言われ、幼子2人を実家に託して、渡米なさいました。ニューヨークで学校に通っている時、産児調節運動に出会われた。「雪香おばちゃま」は英国人の祖母を持ち、「憲政の父」と呼ばれた政治家の父・尾崎行雄に随行してアメリカを回っています。

加藤副会長 2人ともグローバル・マインドを持っていたから、意気投合したの。当時そういう日本人は少なかった。女性がまだまだ虐げられていた時代で、同じ女性同士としてお互い頑張りましょう、と言い合えた。2人とも「働く女性」のパイオニアでもあった。お互い忙しいから、それぞれの仕事をし、必要な時だけ会う。個として自立し、互いに認め合う関係だったと思います。

子どもたちと一緒に微笑む加藤タキ

AARの活動を視察するためザンビアを訪問した際、現地の子どもたちとともに=2006年撮影

オードリーさんから学ぶ

――タキさんがAARの理事になったのは2004年。シヅエさんが104歳で亡くなってから3年後です。

加藤副会長 AARを応援していた母の遺志を継ぐという思いに加え、俳優オードリー・ヘプバーンさん(1929-93年)が、63歳で亡くなる数年前から国連児童基金(ユニセフ)の親善大使を務めていたことが頭にありました。私が国際間の「アーティスト・コーディネーター」の仕事を始めた20代のころに出演交渉をして以来、オードリーさんが亡くなるまで二十数年、個人的なお付き合いがありました。彼女はドイツ占領下のオランダで育ち、子どもながら反ナチスのレジスタンスに加わるなど大変な苦労をなさった。50代後半で自ら希望してユニセフに協力し、エチオピア、南米、スーダン、ソマリアなどを献身的に訪問しました。私がAAR理事のお誘いを受けた時59歳でしたが、オードリーさんもその年齢でユニセフの活動を始められて、感じたことを色々と話してくださったことを思い出し、自然に受け入れられました。

がれきの中で話を聞く加藤タキ

東日本大震災の被災地で話を聞く加藤副会長(左)=2011年

三つのDを意識する

――翌2005年には副理事長に、2015年には副会長に就任。チャリティコンサートの開催などに貢献されました。

加藤副会長 ザンビアでHIV感染者と子どもたちに、ラオスで重度障害の子どもたちに会い、東日本大震災では被災地にも行った。その先々で、どんなに想像力が足りなかったかを思い知りました。東日本の被災地ではふと「トイレをお借りできますか」って言ってしまったことがある。まだ断水が続いていたのに。そういうことを繰り返して、やっと困難な状況にある人たちの辛さが想像できるようになる。

よく私は思うの。ちっぽけな私に何ができるの? 私が現場で支援活動をできるわけじゃないし、私は現地の人間ではないし、被災を経験したわけでもない。でも、想像することはできる。心を寄せる、ってことなのね。具体的に何ができるかって言ったら、まずは寄付しかない。多くはできない。でも紛争や災害が起きたら、その都度寄付をしたい。AARのスタッフに託して、一つひとつ積み重なっていくんだと考えています。最近、「三つのD」と言っているんです。「できる人が」「できることを」「できるだけ」する。身の丈に合ったことでいい。そしてマイナスのD、「だって」「でも」「どうせ」は言わず、「できる」「大丈夫」「どうにかなる」の気持ちで生きる。

「自分は何もできない」じゃなく、できることがあるはずです。それが何かは、自分を知らなくちゃ分からない。自分ができること、自分がしたいことを自問自答する。例えば人は1万円出せるのに自分は1,000円しか出せないとしても、それで十分じゃないですか。100円でも、1円でも積み重なれば。それが「1人1円キャンペーン」の精神です。

1円キャンペーンの精神

――「1人1円キャンペーン」は、AAR創立時、相馬会長が活動資金について「日本人が1人1円出せば1億1,000万円になる」と語ったところ、全国からそれ以上の寄付が集まった事実に由来します。世界で紛争、災害が相次ぐ今こそ活動の原点に戻ろうと、この秋から始まります。

加藤副会長 皆さんで集めてくださった硬貨を郵便局の窓口に持ち込み、AARの専用口座に払い込んでいただくと、硬貨手数料もかからず送金できるのね。郵便局で硬貨取扱手数料がかかるなんて知らなかったわ。それから少しずつ継続していただく「マンスリーサポート」は、支援を届けるスタッフにも大いに励みになっていること、知っていただきたいですね。

――はい。ただ最近は「なぜ外国人を支援するのか」という排外的な声も聞こえてきます。

加藤副会長 想像力が足りないの。どんな人間も同じ赤い血が流れているんです。ブラジルやアメリカには日本人街があるでしょう。みんな貧しい日本から来て、苦労して、その地域に貢献して、認められている。それが今、逆の流れになっているだけ。今の日本は人手が足りない。十年後、二十年後を考えたら、日本を選んで来てくれた人たちに冷たくすることなんてできない。政治家も悪い。大きな視野を持って、自分はどうすべきなのか、国はどうすべきなのかを考えず、考えるのは選挙に当選して力を行使することだけ。母や雪香おばちゃまがいたらすごく怒ったと思います。

椅子に座り話す加藤タキ

朗らかにインタビューに応じる加藤タキさん=東京都品川区のAAR事務所で、2026年9月9日

「自分を好きですか」

――タキさんは67歳から社交ダンス、75歳からシャンソン・カンツォーネを始められました。生き生きしていて「同世代の星」とも呼ばれます。

加藤副会長 ダンスを始めたのは痩せたかったからなの。お友だちがそれで瘦せたのを見て、自分も頑張り、8~10キロ減らしました。歌は始めたらすごく音域が広がった。同世代にエールを送ってくださいと言われると、私はまず「自分を好きですか」って聞くんです。好きな自分でないと、エールを送っても届かない。自分を好きになるには、「ねばならぬ」から自分を解放すること。「この年代だから、何かしなければならない」じゃなくて、「この年代だし、何かしたい」。何をしたいかは自問自答する。そのために「自分を知る」。

父が大事にしていたのは「学んで老いず」という言葉でした。無邪気に童心に帰って、いくつになっても学び続けていく。知識だけではなく智恵を学ぶんです。何をするにも遅すぎることはない、思いついた時がチャンスだといつも言っていた。母も「年を取ったから学ぶのをやめるんじゃないんです。学ぶのをやめるのは死ぬ時です」と言っていました。「先生は百歳なのに本当におしゃれですね」と言われて、「百歳だからおしゃれしちゃいけない決まりはないでしょ。百歳らしくしなくちゃいけない決まりもないでしょ。私は私らしくしているんです」と言い切っていた。

2人はまだ青春時代でした

――相馬初代会長も「人生の本舞台は常に将来にあり」(父・尾崎行雄の座右の銘)とよく言っていました。67歳でAARを始める時、年長のシヅエさんに背中を押していただいたのでは?

加藤副会長 当時の67歳は、今なら80歳ぐらいの感覚かしら? でも、彼女らにはまだ青春の時代でした。やりたいことが多くて、一つひとつ片付けないとひどい世の中になってしまうという使命感があった。使命感って生きがいです。相馬雪香さんは、日本人は冷たいと言われて黙っていられない、日本政府が難民を助けてくれないなら私がやる、という使命感があった。加藤シヅエもきっと「67歳のあなたがそんなこと始めちゃいけないって誰が決めたの。国がやってくれないなら、あなたがやるしかないじゃない」「いくらでもサポートするわ」って言ったと思います。あふれるような怒りと情熱と慈愛を持ち続けた2人でした。

ひとこと 新聞記者としてたくさんの人をインタビューして来たけれど、こんなにも生き生きとして、まっすぐにパワーが伝わってくる人はめったにいない。歌手のさだまさしさんが、「タキ姐」の言葉にほれ込んで、本まで出した気持ちがよく分かる。加藤シヅエさんも、彼女を友とした「雪香おばちゃま」もきっと同じように魅力的だったのだろう。これからは時々「自分を好きですか?」と自問自答してみたい

太田 阿利佐OHTA Arisa東京事務局広報担当

全国紙記者を経て、2022年6月からAAR東京事務局で広報業務を担当。

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